木戸・桂 雑事・雑学 2




黒田をす巻にした木戸孝允
伊藤・江藤、英雄豪傑を語る
木戸、パークスとの議論で火花を散らす
木戸さまは菩薩の上の仏さま?
板垣退助、木戸孝允を語る
亡き久坂をよいしょする西郷さんの深層心理
木戸さんはそんな人じゃないよ(1)
木戸さんはそんな人じゃないよ(2)




黒田をす巻にした木戸孝允

あるとき、薩長の人が入混じっての宴会があった。その席上で例のごとく、黒田が狂乱の体となって誰にでも喧嘩を吹っかける。はては正面にすわっていた木戸の前に来て、しきりに肘を張って喧嘩腰に議論を仕掛けてくるので、木戸はうるさいと思って程よくあしらっていたが、そのうちに何か言葉の行き違いから、黒田はまるで阿修羅王の暴れたごとくなって、木戸に打ってかかった。
油断をしていた木戸は、二つ三つ続けざまにサザエのような拳固で張付けられたから、さすがに木戸も堪忍袋を切って、
「何をするか、貴様は」
と立ち上がった。一同が仲裁に入ろうと思って立ち上がるとたんに、木戸は黒田の首筋を押さえてはるか向うへ投げつけた。黒田がどんなに力自慢でも、木戸は斉藤弥九郎の門人で、しかも日本では幾人と指を折られるほどの剣術の達人で、身体も大きく、腕力も強かったから、黒田は狗ころのごとくに投げつけられた。黒田が起き上がろうとするところを、木戸は座敷に敷いてあったブランケットをもって、すっかり包み込んで上から縄をかけて、七重八重にくくりあげてしまって、そのまま馬車に積んで黒田の宅へ送りつけた。
このときにはさすがの黒田も閉口して、翌日は木戸のところに挨拶に来るやら、同席した者に謝るやらして、ようやくけりがついた。それ以来は、たいがいな場合に、木戸が来たぞ、と言えば、黒田は暴れるのをやめて、コソコソと帰るようになった。こうなってみると、酒乱も存外に正気のあるもので、黒田が木戸を恐れた、というのは実に面白い話だ。(「木戸孝允」伊藤痴遊著より)





伊藤・江藤、英雄豪傑を語る

わしは人の悪口は言わぬ男だが、と伊藤は前置きし、しかし国家のために言わざるを得ぬ、江藤君、当節の英雄豪傑を大いにこきおろそうではないか、と言い、そう言ったくせにいきなり大久保利通の名を出してほめた。
「大久保は怜悧」
と、伊藤はいう。江藤はばかばかしくなり、
「されど無学、文盲に近し」
と、大久保に対してあたまから虫が好かぬ江藤はそうつけくわえた。さて西郷は? と江藤がきくと、伊藤はすかさず、
「雄魁なれど、胎(はら)わからず」
といった。
「木戸は純良なれども、老婆のごとき心配性」 (チョット、チョット…影の声
伊藤はそういい、最後に土佐藩を代表する板垣退助については、
「江藤君、君がいえ」といった。
「直情なれども、愚物」
と、江藤はみじかくいった。
   (「歳月」司馬遼太郎著より)





木戸、パークスとの議論で火花を散らす
− 木戸孝允と英国公使パークスのエピソード −

(明治元年12月のこと) キリスト教の問題でも大いに議論があった。これに関する日本側の言い分はきわめてもっともであり、またハリー卿(パークス)の言うところにも一応の理屈はあった。しかし、まずい事には長官が木戸の議論に癇癪をおこし、ここで繰り返すに忍びぬようなひどい暴言を吐いた。結局、日本側は、天皇の思し召しによりキリスト教徒を寛大に処置するという意味の覚書を外国使臣たちに送ることを約束した。(中略)

私たちが馬車で帰館する道すがら、パークスは出し抜けにこう言った。
「昨日、私がちょっと興奮しなかったら、彼らは決して他の外交使臣たちに対してキリスト教のことを話さなかったと思う」と。私はこれに対し、「なるほど、そうかもしれませんが、しかしあなたは木戸の感情を害したと思います。彼はすぐに口をつぐんで、頑として沈黙をつづけていました」と答えた。パークスは、「君はそう思うかね。彼の感情を害したとなると、いささか気の毒な気がする」と言った。
そこで私は、「忌憚のないところを申しますと、特別な場合にはあんなこともよい効果を生むかもしれませんが、あれでは日本人はあなたと会見するのをこわがるようになると思います」と言った。これを聞いた長官は、明朝木戸を朝飯によびたいと言って、できるだけ丁寧に招待状を書いて送るように、私に頼んだのである。
  (「一外交官の見た明治維新」アーネスト・サトウ著より)





木戸さまは菩薩の上の仏さま?

明治2年ごろの話。大隈重信(佐賀藩)は新政府にとって欠くべからざる存在だった。性格が豪胆で、弁がたち、外人相手の談判では一歩も引けをとらなかったからだ。外交と財政は彼の得意分野で、急進改革派でもあったから、似たような主義主張をもった者たちが藩閥を超えて彼の周りに集まった。築地にある大隈の大邸宅は「築地の梁山泊」と呼ばれ、伊藤、井上、五代などの人士がさかんに出入りした。その大隈を支持していたのが木戸孝允だった。だが、この隠然たる大隈の勢力が大久保利通には気に入らなかった。
(徳富猪一郎の著書に曰く)――大隈一味の勢力は、はじめあらゆる苦難を排して民部、大蔵を事実上合併せしむるに到らしめた。だが、いかに大隈一味が有力でも、当時の大隈はけっして大本尊たるの資望はなかった。当時の進歩派の眼中には、大隈は菩薩であり、木戸は仏であった。伊藤にせよ、井上にせよ、あらゆる進歩派の羅漢たちは、みなその大本尊には木戸を仰いでいた。岩倉、大久保に対する不平党の大部分は、みな木戸の門戸に趨走した。

大久保さん、おもしろくないんですねー、こうした状況って。それで、口では「百千の木戸が来ても、畏るるに足らぬ」などと言って強がっている。でもね、(上記著書のつづき)当時、大久保が個人的に畏敬し、もしくは相手としたのは、恐らくは岩倉、西郷、木戸の三人であったと思う。もとより木戸が長州藩の長であり、その代表者だからであろう。されど木戸を丸裸にしても、なお大久保は木戸に対しては若干の畏敬を払ったに相違あるまい。それは、いかに木戸の欠点が分明に大久保の眼中に映ずるも、同時に彼の高き天分が大久保の眼中に映ぜざるべきはずがないからだ。(中略)いずれにせよ、大久保は「百千の木戸を畏るるに足らず」と豪語しつつも、木戸の生存したる限りは、つねにその眼中から木戸を逸するあたはなかった。それほどまでに木戸は大久保に対して有力であり、同時に明治政府に対して有力であった。
(木戸を丸裸にしても、って……(汗) ―― 単なる比喩ですよ、比喩。それほど木戸個人に畏敬すべき徳と資質が備わっていた、っていうことなのね)





板垣退助、木戸孝允を語る

征韓論政変のあと
私は征韓論破裂のために政府を退き、愛国党を組織して民選議員設立の建白をした。そのときに木戸公が私を濱町(日本橋)の長州屋敷に案内して、わが国もまた立憲政体にしなければならない。旧幕府の政治を非難して今日にいたるまで、まだ確定したる改革が行なわれない、速やかに憲法を発布しなければならぬという意見を、私一人に内話された。実に熱心なる立憲政体論者であった。そこで私は、貴方がその意見であることを知らないで、民選議員設置の建白をなし、政府の反感を助長したのは、実に悪かった、これは拙作であったと言った。

征台論が興ったとき
木戸公が征台論に反対して、潔く官を辞して郷里に帰った。すると、長州出身の文官には、辞職したものもあった。そして、日々新聞に「夕暮れに眺め見渡す玉の浦、帆かけた船がでるぞえ、あれ民が泣く民の声、都に名所はないかいな!」(福地源一郎作)という夕暮れの変歌があって、朝野一般に謡われたものである。公の辞官について、当時の興論はこれで知られるのである。

大阪会議の事情
大久保利通は、木戸公が去って薩摩の独り舞台となり、その困難を大いに苦慮していたが、どうした周旋か私はよく知らないが、井上馨がその中にはいって、公の復職に尽力することになった。その時公はすでに民権論を主張されていたが、一人で入閣しては、岩倉具視・大久保利通などの頑固党の勢力が強くて、とても自分の案を実行できないことを覚悟しておられた。そこで私が入閣するなら、公もまた出仕するということになった。ところが、大久保は私を嫌ってこれを避けようとしたが、井上が大いにこれを斡旋した。とにかく大久保が私の入閣するのを欲しなくて、立憲に反対するものの勢力が強いから、公は私を応援するという作戦であった。私は入閣を固辞したが、勧誘せられるので、公のご相伴に出るようになった。これが明治八年の大阪会議である。

かように私は木戸公と長い間の交際であったが、実に品格の良善なる人であって、終始機事を処理するに慎重であって、すこしも軽卒なところがなく、諸物に聡明で、温情に敦厚(とんこう)なる性質であったことは、常に敬服して忘れられないのである。 (参考: 「木戸松菊公逸話」妻木忠太著)





亡き久坂をよいしょする西郷さんの深層心理

禁門の変で亡くなった久坂玄瑞(長州藩)は明治維新後に正四位を追贈された。薩摩の西郷隆盛はのちに木戸孝允にこう言ったそうだ。
「御国の久坂先生がいまごろ存生なれば、お互いに参議などといって威張ってはおられませぬな」
随分よいしょしているようだが、禁門の変で薩摩藩を反長州にまとめあげたのは西郷である。来島又兵衛を戦死させたのも西郷が参謀をつとめる部隊だったし、その後に長州兵がこもる鷹司邸を攻めたのも薩摩の部隊である。西郷はまさに、久坂を殺した元凶のひとりとみられてもおかしくない。当時の長州にとってはまさしく憎っくき敵である。その敵の自分と、こちらも薩摩によって辛酸をなめさせられた長州の桂小五郎を同列に扱うのは、なんだか奇妙である。西郷がすでに亡い久坂に言及したことは、彼の秘めた贖罪意識の表れと思える。久坂と同志の桂を自分といっしょくたにして言うことによって、西郷はその罪の意識を和らげようとしたのか。かなり屈折しているが、根が純粋な男だから、そうした昔のことを思い出して、心に痛みを覚えていたのかもしれない。

実際には西郷の言うことは正しくない。桂は久坂が生きていたころからすでに長州藩の要職についており、地位的には常に久坂の上位にあったのだから。久坂は藩内外の「草莽」の組織者としての役割をもっぱら演じてきた。小五郎は藩の高級官僚であり、藩にたいする責任の大きさは久坂らとは比較にならない。のちに伊藤博文は、「高杉や久坂にしたところが、まあ長州の有志の頭株というところだった」と指摘し、さらに語ってる。
「過激なる有志と政府との間の関鍵は、木戸(小五郎)が一人で握っていたのだ」





(オリオンのひとり言)  木戸さんはそんな人じゃないよ(1)

木戸孝允の木の字も勉強したことのない人が、単に言葉尻だけを捉えて的外れな批判をするのは論外だけれども、なかには木戸を多少なりとも理解している者さえ、ことによってはがっかりするような誤解を示すことがあります。
たとえば、某「岩倉使節団」関連の本に、アメリカの「独立宣言の読み方」という記事があります。福沢諭吉の「西洋事情」の翻訳とブリジマン(米人)著「聯邦志略」(れんぽうしりゃく)を比較して、福沢訳は「がまんのならない悪政府は転覆させてもいい」という革命の側面に力点がおかれていたのに対して、「聯邦志略」は「できるだけこれまでの政治でも辛抱し、どうしてもこらえきれなくなった時、やむなく独立する」という、革命を軽々しくしてはならないというところに重点をおいて解釈していた。これをみて「福沢訳は読み方が浅い」と嘆息したという木戸に対して、この話を紹介した某氏は「ひとたび維新の大業がなって主客が転倒すると、そう手軽く政府をたたき壊すような荒っぽいことはしてもらいたくない。現在の木戸には悪政を忍ぶことを強調しているように思える「聯邦志略」の訳文が、自分の立場を擁護するのに便宜に感じられただけの話である」(略述)と注釈を加えたそうです。

 木戸孝允をまったく理解していないのです。木戸さんはね、そんな人ではありませんよ。もし政府が悪政を布いたなら、木戸さんが真っ先に抗議して辞めています。自分の地位や権力にしがみつくような政治家でないことは、木戸孝允を研究すればすぐにわかりますから。それにね、あの頃の日本の情勢を考えてほしい。3世紀近くも続いた徳川幕府が崩壊し、もう怖いものがなくなった。それなら俺たちが政権を獲りたいっていう連中がうようよいた。「薩長政権」なにするものぞ、ってね。その中にはもう一度封建体制に戻そうという保守的な輩もいたわけです。そんな中でまた武力によって政権を争奪することが繰り返されていたら日本はどうなっていたでしょうか?
 木戸孝允が目指していたのはけっして天皇独裁国家ではありません。国民の権利を確立した君民同治の立憲君主制なのです。「民主主義」と「人民の幸福」の実現、それが木戸孝允の目指した究極の政治目標でした。それを、木戸亡き後の日本がどう間違えてしまったのかは、また別の研究課題になりましょう。



木戸さんはそんな人じゃないよ(2)

20年以上も前に書かれた「桂小五郎」という小説には最初から、木戸をここで批判してやろう、という意図をもって書いたと思える箇所がなん箇所かあります(とくに維新以降)。そのたびに、主人公に感情移入している読者は、突然著者が敵になり、背負い投げをくらったような気持ちにさせられるのです。そのひとつがお墓に言及している場所で、「生き残った者が高く評価されて、大きな墓を建てている」というような批判をしていると私は記憶し、いつか「木戸さんはそんな人じゃない」ということを書こうと思っていました。ところが、今回問題の箇所を読み直してみると、著者は必ずしも批判的に書いたのではないことがわかりました。
――霊山の頂上あたりは木戸孝允こと桂小五郎の大きな墓が松子夫人のそれと並んで、特別扱いの佳城をなしている。早く死んだ者と、生き残り、名をとげた者との対照的な結末を、皮肉に見せつけられる感じだ。

と言う箇所だけを強烈に覚えていたので、こんなふうに言いたかったのです。「木戸さんはね、死ぬ前に一度だって『でっかい墓を建ててくれ』なんて、いったことはないよ。あの人は、ただひと言、『白雲を望む』と言って死んだんだ。正確には空中に指で書いたのだけど。それに、たとえ木戸さんの墓が今の2倍、いや10倍だったとしても、彼が日本の独立と平和を守るため、将来の日本人の幸福のために、心身をすり減らして働いた功績に比べたら、まだまだ小さいのさ。彼の墓のことをいうなら、坂本龍馬や中岡慎太郎の銅像のある超特別扱いのお墓はどうなのよ。ほかにも、西郷や大久保や、伊藤や山県などの銅像は特別扱いじゃないっていうの。本当は上野の山なんか、木戸孝允の銅像こそもっともふさわしいんだよ。でも銅像なんてなくったっていい。木戸さんの波瀾の人生は、そんなものでは測れないほど大いなる価値があったのだから、形あるもので形容することなんてできやしないんだ」
でも、よく読むと、生き残った者にたいして多少の理解は示しているようです。でも十分ではない。第一、「人間として不純と自覚する倫理観から逃げきることはできないのである」などという形容は理解できない。革命を成し遂げるために生きることがなんで不純なのさ。木戸さんの回想録が釈明としてとられるなら、それは心底において「我がなすことは、我のみぞ知る」という思いがあったからなのでしょうよ。武士の名誉や体面を気にかける者と、目的完遂のためには、たとえ泥を食み乞食に身を落としても生き延びようとする者と、どちらが勇気があり、真の革命家であるかは問うまでもないでしょう。






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