木戸・桂 雑事・雑学
ちょっとあんた! 大き過ぎやしない?
誕生日は? ご命日は? お名前は? いみなは? 変名は? |
天保4年(1833)6月26日です。 明治10年(1877)5月26日です。 小五郎です。でも満7歳で桂家の養子になりました。 孝允。たかよしです。「こういん」って呼びたがる人もいます。たとえば、 ここの管理人なんか――どっちでもいいけどね。 新堀松輔、林竹次郎、広江孝助とか。 |
お父さんは? きょうだいは? 号はある? 尊敬する先生は? 尊敬する先輩は? 後輩はだれ? |
和田昌景で長州藩の医師です。母は清子といいます。 お姉さん2人(異母姉)と妹1人(同腹)です。 「松菊」です。他には木圭、広寒、猫堂、老梅書屋、竿鈴 吉田松陰先生(明倫館で兵学を習う)。すごく純粋な人。 周布政之助さん。酒ぐせ悪いのだけは直してほしい。 高杉晋作とか、久坂玄瑞とか、みな暴れん坊で困ってます。 |
しつもーん! どうして号は「松菊」にしたの? 答: 中国の六朝時代(東晋)の詩人・陶淵明(365〜427)が好きだったの。すごく菊を愛した人で、菊をテーマにした詩を多く書いています。江西省に生まれ、役人でしたが、43歳のときに辞めて、その時の心境を語った「帰去来辞」(ききょらいのじ)という詩の中に「三経就荒松菊猶存」という句があります。松菊という号はそこから採りました。役人を辞めてからは故郷に帰って、詩を作りながら田園生活を楽しんだのですね。孝允が何度も辞表を出したのは、陶淵明のように最後は自然の中で静かに余生を送りたかったからなのでしょう。 |
身長は? 体重は? 血液型は? 奥様は? 剣の流派は? |
174cm ぐらい。 秘密です。 「えっ、秘密?」 はい。次どうぞ。 知るわけないでしょ。 「その慎重さ、勤勉さからしてA型か」 どうでしょうか、 僕、あそぶことも好きですけど。 松子。元は京の芸妓「幾松」で、僕が幕吏に追われた最も苦しい時期に 命がけで助けてくれました。 神道無念流で、師は斎藤弥九郎先生。父親のように よくしてくれました。 |
大久保さんの身長は? 大久保さんの 体重は? 大久保さんの 血液型は? 木戸と桂、別人と思ってる人もいます。 |
182cm ぐらいじゃないですか。 知りません。 なぜ、大久保さんのことを僕が答えなければならないのですか。本人に聞いてください。フン 同一人物ですよ。明治維新間際に木戸姓に変えたのです。孝允はもともと本名ですから。 |
なぜ改名したの? | 桂小五郎は幕府のお尋ね者でしたから、名乗れなかったのです。それに多くの仲間を失って、 つらい思い出が多過ぎましたから。新たに出直したかったのかな。 |
伊藤博文、大村益次郎、坂本龍馬、井上馨、日光山三仏堂ほか 伊藤俊輔(博文): 足軽だったが士分にした。下関開港問題で支藩の暗殺団に狙われていたとき、木戸が出石から長州にもどってきて、暗殺団のメンバー(斎藤道場の後輩だった)を叱りとばし、俊輔に詫びを入れさせた。また、明治新政府では伊藤を参議に推挙して、大久保暗殺後のトップリーダー&初代内閣総理大臣への道を開いた。 ところでもう一人、暗殺団の標的だった高杉晋作は、おうのを連れて、いち早く高飛びしていた。逃げ足は「逃げの小五郎」よりも速かった? 大村益次郎: 出石から帰国後、藩政府の頂点にたち人事権を握った木戸は、村田蔵六(大村)を軍務大臣に抜擢した。火吹き達磨(高杉がつけた村田のあだ名)は百石どりの大組士となった。 坂本龍馬: 木戸に頼まれて、薩長同盟の内容を記した手紙の裏書をした。もし裏書をした人物が中岡慎太郎だったら、後世の幕末志士の人物評は変わっていたかも――。中岡さん、いつかあなたのこと書くから待っててね(^^)。 (管理人のひとり言) 井上馨: 汚職問題で追及されていた井上に反省を促し、政界復帰を助ける。面倒見のいい木戸さんは、過ちを犯した者も見捨てることはできない。ともに幕末の修羅場をくぐり抜けてきた同志は、余人に替えがたい貴重な相談相手でもあるのだ。 その他、高杉晋作に対しても、大事をなすまで道を誤らないよう、木戸は何度か(脱藩や、過激な行動に出ようとしたときなど)彼を救う手立てを講じている。 日光山三仏堂: 維新後、神仏分離政策により、山内第一の大堂、満願寺(輪王寺)三仏堂(二荒山神社境内にあった)が破壊されようとした。日光町の町民は驚いて破壊の中止を嘆願したが、内務・教部両省は許可しなかった(当時の内務卿は大久保利通)。そこで町民たちは、明治帝に供奉してこの地にいた木戸の旅宿を訪れて、嘆願が叶うよう尽力を請うた。木戸は日光町民に同情するだけでなく、歴史的にも貴重な文化財であるとして、その保存がなされるように奔走した結果、ついに三仏堂はそのまま満願寺に移されることになった。今日、日本人(外国人も)がその壮麗な美観を観賞できるのは、実に木戸孝允のおかげである。 |
とても派手ッ気な奥様ですね。あれが有名な京都の芸子あがりと思われぬくらいに、江戸肌で、御気前がよかった。(略)お芝居がお好きで、浅草猿若町へ御見物にお出になり、左団次贔屓で、芝居のはねたあとで、芝居茶屋へお招きになり、門弟も一同に御酒をくだされ、賑やかに騒いでお帰りになり、「ああ面白かった」と悦んでおられた。 「おたき(髪結いの名前)、もー用はないのかい。猿若町へ連れていってやるよ」と仰って連れて行かれ、眼の保養をしたり、役者の素顔を見たりして、帰ってきたことを覚えています。 よく御維新の話もなさいまして、「殿様(木戸)が非人のような姿(なり)をして、お尋ねになった時にまさかと思ったが、己(おれ)だ、己だと仰ったら声に覚えがある。心の底に滲み込んでいるので、しがみついて泣いたものだよ」 とその頃の苦労と怖さをよくしみじみお話になり、「いつ何時斬られて、血染めになるか知れないと、覚悟はしていても、どうせ殺されるなら、殿様の名を汚さないよう」と神仏に念じていたお話を、髪を結いながらうかがっていると、気のせいか鏡台の鏡に映るお顔に、涙の眼を見るような気がしたよ。 (明治百話(上) 岩波文庫より) |
まことに大阪会議はおもしろい。いろいろな人間がいろいろな思惑で動いているからだ。伊藤、井上、鳥尾、黒田、吉井、五代、小室、吉沢等など、黒子や舞台まわしがたくさんいる。もちろん主役は大久保と木戸だ。板垣は木戸の連れ子という役まわりで、大久保にとってはまったく眼中にないらしい。木戸が大阪に出てくる以前から、伊藤や井上が必死に木戸の政界復帰を説得しているのに、例によって木戸はしっかり辞表を提出している。 そして、木戸の「頑固」と大久保の「粘り」が大阪で正面対決する。両者は三橋楼で会談するのだが、伊藤に宛てた木戸の手紙によると、大久保のねばりづよく引っぱり論で攻められるのではないかと心配している。 「木戸は大久保のねばりにては困るといっているが、大久保も木戸の感情的、神経的、且つ理路整然たる論理的論鋒には辟易するに相違ない。当時、大高官僚の交遊間では、大久保をお爺さんと言い、木戸を婆さんと言っていた。この爺婆が互いに火水となって談合し、午後3時ごろよりほとんど深夜1時、2時の間に至ったとすれば、10時間内外を費やしたことがわかる。そして、ついにその決着を見ずに終わったことをみれば、双方の苦戦想うべしだ」(「近世日本国民史」徳富猪一郎著) ところでこの両雄対決のさなかに闖入してきた人物がいる。薩摩の黒田清隆だ。黒田は酒に酔った勢いで、木戸になにか暴言を吐いたらしい。ただでさえ、大汗かいて大久保が木戸の帰京を説得しているのに、介添え役を買って出たつもりの黒田が、かえって木戸の感情を著しく害してしまった。「ばっかもーん」と大久保が黒田を叱ったかどうかは知らないが、まったくえらいことをしてくれた、とさぞかし爺さん(大久保)は苦虫を噛み潰したに違いない。 案の定、木戸は大久保に手紙を書いた。 「私のことはもう放っておいてください。願いどおり隠退したいのですから」(超意訳) 「かくて、お爺さんがお婆さんを口説いて、ついにお婆さんに振られた姿となったのだ。黒田の酔狂がなくてもそのとおりだっただろうが、酔狂のためにいっそう木戸反発の気勢を加えてしまった」(上記同書) 黒田は薩長同盟締結時に、薩摩を代表して山口まで木戸を迎えにいった人物で、木戸とは10年来の知己である。酔いが醒めた黒田はさすがに恥じて、翌朝木戸に手紙を書き、平謝りに謝った。木戸は脳痛を理由に面会を断る皮肉たっぷりの返事を出している。 一方、大久保は、これしきのことで諦めるような男ではない。かねてよりの打ち合わせどおり、いよいよ伊藤博文に来援を求めたのである。大阪に勅使を差し向ける手筈もととのえ、井上を介して板垣さえも手ごまに使い、木戸を捕える網は二重、三重にめぐらせていたのだった。 (しかし、大久保、木戸を、爺さん、婆さん呼ばわりするのはやめてほしい。笑いが止まらなくなって困りましたよ) (注) 引用文は現代語に直しています。 |
私どもは今に木戸さんの風采を覚えておりますが、ご様子の誠に好いお方で、所謂(いわゆる)威あって猛からずと云ういたって慣れ易いところのあるお方で、ある時には凛呼として侵すべからざる所もありました。ちょっと容貌も宜しうございまして、さも大臣らしいお方で、伊藤さんは私どもと同じくあまり身体の大きいお方ではございませんでしたが、木戸さんはかなりお身体も大きく立派な方でありました。 私のような元徳川の家来でございましても一向墻壁(しょうへき)を設けず、偏狭でなかったようであります。私が租税頭でおりましたとき、湯島の天神下に小さい二間ばかりの宅を構えておったときに、突然木戸さんが訪ねて来られたということがあったが、私はそれは木戸さんが違うであろうと思ってお通し申したところが、まったく木戸さんであった。そうして木戸さんが言われるには、今日訪ねたのは別段大したことではない。何か話をしてみたいと思って来たと言われましたが、実はそのとき私は木戸さんの如きお方がどうしてこんな家を訪ねて来られたかと多少疑惑を抱いておったくらいでありました。ところが私の経歴などをお尋ねになって、お前は亜米利加にどうして行ったとか、仏蘭西へはどういう考えで行ったとか丁寧にお尋ねに預かったことを覚えております。 |
明治9年春のこと、誰かが木戸邸の門前に幼児を遺棄して、去ってしまいました。この幼児は寒さに堪えず、しきりに泣いておりました。邸の主は幼児の泣き声を聞いて、最初は他家で泣いているのだろうと思っていましたが、やがて捨て児だとわかり、この幼児を抱き取って家の中に入れました。するとその児は家主を見て喜び、にっこり微笑んだのです。家主は幼児を憐れみ、牛乳を与えて女中に世話をするように命じました。そして、幼児を富士村三三(初め、彌三郎)と命名して籍に入れたのです。木戸孝允は3月3日の日記に、次のように記しています。 「今夜八時、小児を余の門前に捨るものあり。拾いとりて牛乳を吸わせ下婢に保護を申付けり。門外にて暫く涕く兒の声を聞くものあれど、いづれも向長屋の小児と思ひ心付かず、図らずも寒気にさらし憐むべき事なり。屋中へいだき入るると、にこり笑ひし有様、不覚潜然たり」 (木戸さんが幼児を抱え、あやしている様子が眼に浮びますね。木戸サン、アナタドウミテモ、オ母サンダヨ ^ ^) |
松平春獄が渡辺昇(斎藤道場での木戸の後輩)に語った話によると、 「木戸と大久保利通を比較すれば、維新の際の父母とも言うべきである。利通は父であって、物が言いがたいが、木戸は母であって、話を聴くことが上手であった。利通は一向面白みのない人であるが、木戸なら誰でも話ができる」 昇も利通はなんだかむつかしい顔をしていて話がしがたいが、木戸は面白く話のできる人であったと打ち明けている。 明治政府という家庭を持って以来、なにかと不満が多く家出癖のある母と、その母の愚痴を辛抱強く「うん、うん」と聴いてやりながら、なだめすかしてようやく家に連れ帰る父――まあ、じいさん、ばあさんよりいいか。 木戸は松平春嶽と幕末からかなり親交があって、王政復古後は鍋島閑叟(佐賀藩主)とも親しくなり、山内容堂(土佐藩公)とは互いの邸を訪ねあうほどの仲。彼は桂小五郎時代から年上の人にずいぶん好かれていますね。斎藤弥九郎(剣術の師匠)、吉田松陰、周布政之助、来島又兵衛、大村益次郎(みな長州藩士)等など。吉田松陰は妹の婿に最初、桂小五郎を考えていたらしいです。小五郎はどうも乗り気ではなかったようで――(のちに久坂玄瑞がその妹と結婚している)。 また、小五郎が旅の途上で藩の公金をどこかに落として真っ青になっていたところ、来島が周布に手紙で相談し、小五郎の負担にならないように会計上、うまく処理してやっています。長州藩は現代の基準に照らしても、若い藩士にそうとう甘かったけれど、革命のエネルギーを培養する土壌がそこにあったのでしょう。上下関係も他藩ほど厳しくないので、自由奔放にふるまう若者が多い。周布などは年下の小五郎をかなり頼りにもしていたようです。 |