中国の覇者、毛利元就


(6) 月山富田攻城戦


毛利氏と出雲の月山富田(がっさんとだ)城を本拠地とする尼子氏との衝突はまず石見で起りました。これまでの大内氏と尼子氏の境界線は江の川でしたが、大内氏の衰亡により尼子氏が勢力を強めていました。これに対して元就は尼子方の佐波泉山城や大森銀山山吹城の誘降に成功します。銀山城をめぐっては、その後も両陣営間に攻防戦がくりひろげられ、再び尼子勢の手に落ちてしまいます。しかし、毛利勢が猛攻を加えて失敗したあと、和平戦術に切り替え、背後をおびやかす大友氏との和平交渉に見通しがつくと、再び攻勢に転じて最終的には銀山城の奪還に成功します。こうして石見全土を平定し、尼子攻めの準備は整いました。


永禄5年(1562)、元就は吉川元春、小早川隆景以下1万5千の大軍を率いて出雲に侵攻しました。尼子晴久はすでに2年前に亡くなり、家督は嫡男の義久が嗣いでいます。翌6年春には本営を秋鹿(あいか。出雲八束郡)に置いて、月山富田城攻略の皮切りに松田誠保の拠る白鹿(しらが)城の陥落を図って、長男隆元に来援を求めました。隆元は将軍義輝から安芸守護職に任命され、当時は防府に留まっていました。同年8月4日、隆元は出雲に向けて進発しますが、途中で病にかかり、夜通しの治療もむなしく急逝してしまいます(享年41)。


隆元の突然の訃報を聞いて元就は驚き、悲しみにくれます。でも、いつまでも悲しんでばかりはいられません。白鹿城の攻略は隆元の弔い合戦になりました。まず白鹿城の外郭小白鹿丸を攻めてこれを陥落させ、他の外郭もすべて焼き尽してしまうと、いよいよ本丸の攻撃です。しかし海抜246メートルの白鹿山に建つ城は要害堅固であり、まともに攻撃しても犠牲者が増えるばかりです。そこで元就は城麓から城内に向けてトンネルを掘って、本丸に攻め入る戦術をとりました。すると城内からも坑道を掘って対抗してきたので、両勢力は坑道内で衝突します。毛利勢が優勢に立つと、白鹿城側は退いて坑道をふさいでしまったので、寄せ手は再び地上から猛烈に攻勢をかけました。支城の危機に尼子義久は実弟倫久(ともひさ)を大将とする救援軍を送りますが、元就は全軍に救援軍への攻撃を命じて、激闘の末に撃ち破ります。味方の敗走を目の当たりにして意気阻喪した籠城軍はついに降伏し、毛利軍は弔い合戦の勝利に沸きたちました。


元就は白鹿城の攻略に1万余の軍勢で2箇月半を要したことを教訓に、月山富田城には持久戦法を採ることにしました。宍道(しんじ)湖の湖水にかこまれた陣営に町屋を作って、内外の商人や職人を招き入れ、芸人も呼びました。また、湖と中ノ海とを結ぶ川に白潟橋をかけて補給路を確保し、長期間生活できるようにするとともに、敵方の補給線を遮断する作戦を推し進めました。その間、尼子方の城が毛利方に内応するようになり、富田城はしだいに孤立化していったのです。


永禄8年(1565)4月、元就は故隆元の嫡子輝元を呼び寄せて、18歳になる元春の長子元資とともに、初陣として富田城の総攻撃を開始しました。この戦闘で一定の成果を得たとみるや、全軍を撤退させ、再び包囲態勢を敷いて兵糧攻めを続行しました。兵糧が欠乏してくると投降者が出てきましたが、彼らが惨殺されるのを見た籠城方は動揺し、強硬派と投降派が城内で同居する状況となって結束が乱れてきました。両派の対立は元就の思う壺で、城内での上意討ちなどもあって疑心暗鬼となり神経をすり減らした尼子義久は、永禄9年(1566)11月、自身の自刃、領地の返還、籠城衆の助命を条件に、ついに降伏を申し出たのです。元就はこれを受け入れて、富田城は開城され、ここにおいて毛利氏は山陽と山陰にまたがる中国地方の大半を支配下におさめ、中国最大の戦国大名として名を轟かすことになりました。


元就は降伏した尼子義久を自刃させませんでした。他の2人の兄弟とともに助命し、毛利氏の本領安芸に住まわせることにしたのです。これまで多くの合戦で敵性勢力を抹殺してきた元就には異例の措置だったといえます。なぜでしょう。嫡子隆元を失い、自らも一時病気になっていましたが、そのとき、京から招いた名医曲直瀬道三の影響が大きかったようです。病気の治療が終わってからも、元就は儒学に通じた道三から政道の理念などの教えを請うていました。道三は富田城に籠る尼子方の人々の飢餓状態を憐れみ、「寛宥慈憐」(かんゆうじれん)の情をもって救済するよう元就を説いたのです。幼少時から儒学に親しんだ元就でしたから、道三の人道主義には素直にしたがえたのでしょう。元就に本来そなわっていた仏心が湧き上がって、寛容な処置につながったようです。


元就の最期


永禄10年(1567)2月、吉田郡山城に凱旋帰還した元就は、久しぶりにつかの間の休息をとりました。でも、翌年には九州の大友宗麟との和平が破綻して、備後、筑紫一帯で両勢力が武力衝突し、元春、隆景にも出陣の命令が下されました。そうしたなか、今度は尼子氏の遺臣山中鹿之助(幸盛)らが尼子勝久(晴久に殺害された新宮党・尼子誠久の末子)を擁して出雲に乱入したことから、元就は大友勢との戦闘に向けていた軍を撤収せざるを得なくなりました。「御家再興」を旗印とした尼子氏残党の蜂起は、その後も久しく毛利氏を悩ませることになります。富田城陥落のおりに籠城者をすべて解放したことが、元就にとって裏目に出てしまったようです。山中鹿之助はその解放された籠城者のひとりでした。


元就は一時治癒した病が再発しており、自身の高齢(73歳)も自覚していました。彼は勝久を背後で支援していた織田信長に働きかけ、一時的に尼子勢の敵対行動を阻止することに成功しました。支配地域が拡大しても、その統治がまだ十分に行き届いていないのが現状だったのです。


元亀元年(1570)9月、元就の病が重くなり、知らせを受けた孫の輝元と小早川隆景が遠征先の出雲からいそぎ帰還しました。2人の懸命な看病の甲斐あってか、元就は一時もちなおしましたが、翌元亀2年5月、再び重態となります。6月13日には危篤状態に陥り、翌14日午前10時、ついに帰らぬ人となりました。享年75。元就の病は今でいうと、老人性の食道がん腫であったとされています。しかし、当時の寿命からみると、十分に天寿を全うしたといえるでしょう。(「中国の覇者、毛利元就」完)


次回からは、藩祖・毛利輝元の話に入ります。


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