<イギリスに密留学した長州藩の若者たち>

長州ファイブ
鉄道の父・井上 勝


― メイド・イン・ジャパンへのこだわり ―

井上勝(長州藩士・井上勝行の三男)は天保14年(1843)に生まれ、幼少のころに野村家の養子となり野村弥吉を名乗りました。その後、実家の籍に復帰しているので、ここでは英国留学中は野村姓を、帰国後は井上姓を用いることにします。彼は16歳のとき、藩命で長崎に行きオランダ人から兵学を、翌年には江戸に出て砲術、洋学を学びました。1年半後にいったん帰藩しますが、江戸での勉学を希望して再び江戸へ。横浜の外国人居住地で英語を勉強しました。したがって、外国への関心は他の藩士以上に強かったことがわかります。

■ 留学の夢を叶える

文久3(1863)年3月、長州藩が横浜のマセソン商会から購入した帆船・癸亥丸(きがいまる)が兵庫に入港しました。藩から船将を命じられたのは野村でした。測量方を務めたのが山尾庸三で、ふたりは洋学者・武田斐三郎(あやさぶろう)の塾に通っていました。その間にふたりは西洋の学問、技術を本格的に学びたいと思うようになり、偶然、桂小五郎と井上聞多も同じ思いを抱いていることを知り、4人は国禁を犯してのイギリスへの留学を決意します。彼らは外遊許可を藩に申請し、改革派の上司・周布政之助に実現に向けての尽力を請いました。しかし、藩の要職にあった桂だけは重要な外交を担っていたので許可がおりず、代わりに伊藤俊輔と遠藤謹助が加わることになりました。

留学の夢が実現したのは同年5月12日。野村、山尾、伊藤、井上、遠藤の5人を乗せたマセソン商会の蒸気船・チェルスウィック号は横浜から上海に向けて出航しました。そのとき野村は5人のうちでは最年少の20歳。上海からは2隻の船に分乗して、目的地のイギリスに向いました。野村、山尾、遠藤の3人を乗せた「ホワイトアッダー」号がドーヴァー海峡に入ると、やがてロンドン南部に広がる白亜質の崖が白く輝く雄大な景色が見えてきました。異国の風景、人々の姿、生活や習慣も含めて、初めての海外留学はきっと驚きの連続だったに違いありません。
日本を出発してから約4箇月後、「ホワイトアッダー」号はロンドンに到着しました。3人はウィリアムソン博士(化学教授)の家に下宿し、ユニヴァーシティ・カレッジに通うことになります。野村はそこで分析化学、のちには地質鉱物学、さらに数理物理学を専攻しています。彼はロンドンの交通機関の発達ぶりをみて感嘆し、日本にも鉄道が必要だと感じるようになりました。
大学で学ぶだけでなく、自ら体験しようと鉄道や鉱山の現場を視てまわり、実際に機関士の見習いとして働きもしました。
元治元年(1864)4月、長州藩が外国船を砲撃して報復を受けそうなことを新聞で知った伊藤と井上(馨)が藩を救おうと急遽帰国。翌年には遠藤が体調を崩して帰国することになりました。やがて山尾も造船技術を学ぶためにグラスゴーに移っていきました。ひとりロンドンに残された野村ですが、すでに渡英後3年が経って留学資金は底をついていました。彼はウィリアムソン教授の手伝いをして、なんとか生活費を稼ぎながら勉学を続けました。

■ 帰国のとき

日本を離れてから5年の歳月が流れたある日、野村は一通の手紙を受け取りました。差出人は長州藩の桂小五郎でした。すでに日本では薩摩藩と長州藩の提携によって徳川幕府が倒れ、天皇の下に新政府が発足していました。新政府の指導者のひとりとなった桂はただちに野村と山尾の帰国を促したのです。古い封建体制から新しい政治・社会体制へと改革を進めようとする今こそ、西洋の高度な知識や技術を身につけた人材が必要だったに違いありません。野村はまだ勉強し足りない、もっと完璧に技術を身につけたいという思いはありましたが、山尾とともに帰国することになりました。
明治元年(1868)11月19日、二人は5年半ぶりに横浜港に降り立ちました。もはや徳川幕府は消滅し、密航の罪に問われることはありません。二日後には東京に木戸孝允(旧姓・桂小五郎)を訪ね、互いに再会をよろこび合いました。酒を酌み交わしながら、昔話や留学中の話など、話題は尽きなかったことでしょう。
その後、野村はいったん故郷の萩へ帰って鉱業管理の仕事に就いていましたが、木戸の強い要望によって東京に呼び戻され、新政府で働くことになりました。

■ 鉄道建設への道

明治2年11月、鉄道建設の決定がなされ、翌年には東京・横浜間で測量が開始されました。明治4年、鉄道建設を担当する鉄道寮が設けられ、野村は鉱山頭兼鉄道頭に任命されました。このときから彼の鉄道一筋の人生が始まったのです。
野村は積極的に現場を視て歩きました。もちろん技術者はお雇い外国人たちであり、なかにはいいかげんな指示をする者もいました。枕木にかんなをかけている日本人をみつけた彼は、そんな必要はない、と説明しました。また、資材をみるとすべて外国製です。作業現場ではいろいろと無駄なことが多く、外国人まかせでは費用も多大にかかります。いつか日本の資材を使って、日本人だけで鉄道を完成させたい――そんな思いが野村の心にわきあがってきました。

明治5年9月、新橋・横浜間(約29km)に日本初の鉄道が開業。列車は9両編成で、4箇所の停車場(品川、川崎、鶴見、神奈川)がありました。午前10時、明治天皇を乗せた列車は新橋を出発し、野村も同乗しました。
「鉄道を拡張し、全国に広げてほしい」
という天皇のお言葉に野村は感激し、いつか全国に鉄道を張り巡らそうという決意をあらたにしました。
明治7年5月に大阪・神戸間が開通。明治9年9月には京都・神戸間が開通しました。明治11年に工事が始まった京都・大津間には逢坂山があり、トンネル工事が必要でした。ここは日本人だけで完成させたい、と思った野村はその実現に向けて計画をたてます。外国人技術者は「それは無理だ」と言いましたが、彼の決意は変わりませんでした。
このトンネルは数々の困難を克服して、明治13年6月に無事完成しています。
明治22年、20年の歳月をかけて東京・神戸間の東海道線が全通しました。その間にも東京・青森間の工事が開始され、野村以外に工事を指揮できる者がいなかったので、彼は東北にも出かけていき、東西の鉄道建設の完成に向けて多忙な日々を送りました。東北では鉄橋や起伏の激しい場所での工事が困難を極めました。
明治24年に上野・青森間の鉄道が開通。東京の帝国ホテルで盛大に全通式が催されました。明治23年には鉄道庁の長官に就任しています。

■ 小岩井農場の誕生

ある日、井上は視察で岩手県を訪れ、岩手山中腹にある温泉宿に泊まりました。そこに広がる大地を見て、彼は考えます。
「自分はこれまで鉄道建設のために多くの美田・良圃を潰してきた。その償いにこの広大な荒地を開墾して農場を造れないだろうか」
その思いは3年後に実現し、岩手県雫石に小岩井農場が誕生しました。創設者は日本鉄道会社副社長・小野義真、三菱社社長・岩崎弥之助(創業者・岩崎弥太郎の実弟)、そして井上勝で、農場の名称は3人の頭文字をとって付けられました。しかし、この農場の経営は最初から困難の連続でした。もともとこの土地は周辺11村のまぐさ刈りの入会地であったので、村民たちは農場建設の計画に反対していました。そこで、県議会の議長らが間に入って、未開墾の場所ではまぐさ刈りができること、土地の借料は農民の負担にならないことなどを約束して、なんとかこの問題を解決させました。
農場では職員10人を地元から雇い、残りは日雇いで補充しました。最初に、計画どおり桑の木を十数万本植えました。しかし、寒風が吹き抜ける土地ではほとんど育たなかったのです。その後、漆を数万本植林しましたが、これも失敗。8年後には井上は諦めて、農場経営から手を引きました。
井上から経営を引き継いだのは岩崎久弥(弥太郎の長男)でした。彼はトーマス・グラバーから助言を受けて酪農事業に切り替え、オランダからホルスタイン種牛、スイスからブラウンスイス種牛、イギリスからは羊を輸入しました。そして乳牛20頭、牛70頭、羊68頭を飼って再出発。
おりから東京を中心に洋食が広がりはじめ、パン食にバターの需要が増えていきました。明治35年に本格的なバターの販売を始めて、その後チーズなどの乳製品を開発して市場を広げていきました。製品は時代のニーズを満たし、やがて国内最大規模の農場へと発展していったのです。

■ メイド・イン・ジャパンへのこだわり

明治26(1893)年、井上は51歳で鉄道庁長官を辞めました。でも、鉄道への関わりが断ち切られたわけではありませんでした。当時、鉄道は順調に延びていましたが、車両が不足して輸送力は鈍化していました。汽車の製造会社を創りたい――井上は思い、協力者を募るために多くの人に訴えました。
「現在、鉄道は2000マイル(3200km)に達しているが、汽車、レール、橋梁の資材は外国製品です。外国に支払うばかりで国内の技術も向上しない。西洋の技術を超えるものを日本人の手で作らなければならない」

明治29年、毛利家や岩崎家、渋沢栄一らの協力を得て、汽車製造合資会社が設立され、井上が社長に就任しました。明治32年に運営を開始し、工場は大阪に建設され、機関車の注文を受けながら次第に設備が整えられていきました。さらに、明治37年に起こった日露戦争が同社の発展を促し、鉄道公有法の制定により新車両は国産品とすることに決まりました。その後、別会社が設立され、競争によって機関車の製造技術が向上していきました。
明治39年、名古屋で「鉄道5000哩祝賀会」が催され、井上は伊藤博文、大隈重信とともに鉄道建設における功績を称されて、表彰されました。
大隈の話に、井上の性格をうかがう言葉があります。
「勝は子どもの時から強情な男で、誰彼となく衝突し、工部省ができたころは、勝と衝突しない上役はいなかった〜 山尾、井上馨とも衝突し、山県有朋も野蛮な奴だと食ってかかられた。それなら勝を追い出してしまえ、と言っても、代わりがいるはずがない。そうしているうちに勝が鉄道を造ってしまった。そんな中、木戸孝允だけは勝を敬服していた」

■ ロンドンに死す

明治42年12月、鉄道院顧問となった井上はヨーロッパに視察に行くことになりました。シベリヤ鉄道経由で、最初に訪れたのはイギリスでした。50年前、決死の覚悟で密留学した地に、井上は再び立ちました。ロンドンで彼はさっそくかつての恩人・ウィリアムソン教授の家を訪ねました。教授は亡くなっていましたが夫人が存命で、井上を温かく迎えてくれました。長い年月を経て再会した二人は井上の留学時代を懐旧し、時を忘れて語り合ったことでしょう。
でも、夫人は井上の顔色が良くないことに気づき、心配しました。
「だいじょうぶです」
彼はそう自分にも言い聞かせて、1箇月のヨーロッパ視察の旅に出かけていきました。ロンドンに戻ったとき、彼は衰弱していました。病の床についた井上は回復の兆しもみせず、10日も絶たない8月2日、ついに亡くなってしまいました。パディントンの駅を見て、日本での鉄道建設の夢を抱いた青年は、まさにその地で鉄道一筋の人生に終止符を打ちました。井上の仮葬儀はイギリス滞在中の日本人とウィリアムソン夫人によって、その急逝を惜しまれつつ、しめやかに行なわれました。

井上勝(英国の鉱山にて)
井上が生前、大切にしていた一枚の写真があります。それは、シャベルを手にした工夫姿の彼自身の写真で、イギリス留学中に写していました。青年時代の志を忘れないように、彼はしばしばこの写真を見て自らを励まし、教訓として後輩たちにも配ったそうです。
日本全国に鉄道を敷くために身を粉にして働き、日本の近代化に大きく寄与した鉄道の父・井上勝は現在、品川東海寺の大山墓地で永遠の眠りについています。周囲を鉄道にかこまれて――。


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