10. 大村益次郎と木戸孝允 − 無二の片腕

明治維新を達成した志士たちの最大の功績はなにか。
それは「徳川氏の徳川氏による徳川氏のための日本政府」の樹立を阻止したことではないかと思う。もしこれが実現されていたら、日本はいずれ植民地化され、フランスを主とする西欧列強による分割統治がなされていたかもしれない。対外貿易は徳川氏が独占し、最初から言論の自由は封印される。足軽出身者が総理大臣になることも、自由民権運動が全国に広がることもなかっただろう。反政府的な集会をしていたというだけで、徳川政府の官憲(新撰組?)に踏み込まれ、参会者が問答無用に惨殺される「池田屋の変」の悲劇は幾たびも繰り返されていたに違いない。

現代人は明治維新を史実として当然のように捕えているが、上記のようになる可能性は十分にあった。そうした意味で、維新前夜に大村益次郎が果した役割は非常に大きかったといえるのではないか。「花神」(司馬遼太郎著)を読むまで、私はこの人物についての知識をほとんど持たなかった。戊辰戦争を最後まで指揮したのは西郷隆盛だとばかり思っていたからだ。こんな人物がいたのか、と驚いた。その驚きの一つひとつをここに挙げることは控えるが、もっとも驚嘆したことをひとつだけ紹介させていただく。

江戸で上野の山にたてこもった彰義隊の掃討戦を大村が計画した時のことである。これを実行すれば戦火によって、あるいは敵方の放火作戦によって江戸中が火の海になる危険性があった。大村は戦術を練るばかりでなく、火事を防ぐ方法も予め考えていたのだ。まず彼は江戸の大火の歴史を調べた。とくに焼死者10余万人を出して、振袖火事と呼ばれた「明暦の大火」(明暦3年、1657年に発生)について調べている。午後2時に本郷丸山(上野から遠くない)で出火した火がどこへ、どういう順序で広がっていったかを絵図を見て、また自ら絵図を描いて、その部分を青く着色し研究したのである(中公新書「大村益次郎」絲屋寿雄著ではこの話には触れていない)。さらに大村は火事が起ったばあいの消火と市民の避難について考え、薩長の若い幹部数人を火消し参謀に任じている。さらにまた、江戸市民が銃弾の犠牲にならないよう、上野の山から活動領域を広げて勢い盛んな彰義隊を上野の山に集中させるために「来る某日までのあいだに賊徒を追討するので、家財などを取り片付けておくべきこと」という趣意の制札場(太政官布告)をかかげて、わざわざ追討の日を敵方に知らせ、某日には彰義隊全員が上野の山に集まるように仕向けたのである。驚くべき知能というほかない。
西郷隆盛が自分に勝る大村の軍才を認めて、あっさり彼の下についたのは西郷の美質であろうが、まったく無理もなかったと納得できるのである。それに引きかえ、参謀の一人だった薩摩藩の海江田信義は敵意まる出しで、尊敬する大西郷が軽視されたという不満や憤りもあったのだろうが、大村に対して殺意さえ抱くようになる。

京都の新政府は西郷と勝海舟の癒着を憂慮していた。関東・東北での戊辰戦争の勝敗もまだ定まらず、官軍も薩長軍以外は日和見主義の藩が多かったから、江戸に跋扈して官軍の兵士らを殺害していた彰義隊をこのまま放置していたら、形勢がどう逆転するかわからなかった。大村は卓抜した軍事的能力をもって軍資金も兵力も極度に不足していた新政府の苦境を救った。
この村田蔵六こと大村益次郎を見出したのが桂小五郎であった。奇兵隊の決起によって俗論党(幕府恭順派)を一掃した高杉晋作、野村和作らが幾松に託した「ぜひとも一日も早くお帰り願いたい」という手紙を読んで、小五郎は潜伏中の出石から長州へ帰ることになる。帰国後、彼は事実上藩政府の頂点に立ち、村田蔵六を軍政の指導者に推挙するのである。小五郎は自分が出石に潜伏していることを村田蔵六には密かに打ち明けていた。軍務大臣に抜擢する以前から蔵六に全幅の信頼を置いていたことがわかる。

こうして第二次幕長戦争(四境戦争)は大村益次郎(村田蔵六から改名)の指揮下で勝利を収め、維新後においても木戸孝允のよき相談相手となり、無二の片腕にもなっていた。自分の才能の足らないところは他人の才能をもって補う。木戸は自分を知り、他者の才能を愛してよく用いた政治家だった。早くに医者である村田蔵六の軍事的才能を見抜いていた木戸孝允の慧眼は、西郷隆盛が幕末に果した役割にも匹敵する重要度を持っている。彼は西郷のように衆人が注目する舞台で華々しく演じる役者ではない。だが、木戸孝允がいなければ、幕末の歴史は変わっていたかもしれない。暗殺によって大村益次郎を失った木戸の政治力は、ただでさえ強圧的な薩摩、とくに大久保利通のまえで確実に弱体化していった。気落ちした木戸の心身はそれ以後、消耗の度合いを深めてゆき、明治10年、ついに病死する。(大村益次郎に関する追加情報は「司馬遼太郎の小説にみる木戸孝允」の「花神」と人物紹介の説明文をご参照ください)。

<追記> 私がもっとも感動した場面から少し外れるが、小説「花神」でやはり印象的だった、桂小五郎が長州に戻ってきたことを村田蔵六に知らせたときの描写を抜粋して紹介する。

「その飛脚が桂の手紙をとどけたのは4月27日の深夜だった。桂は蔵六にだけ知らせた。(略)蔵六はこの飛脚がきたその直後に家を出ている。深夜である。下関まで徒歩で二日かかる。蔵六はそれを短縮するため、途中、ハカマをたくしあげて駆けた。宿場へたどりつくと、駕籠をやとって駆けさせた。駕籠に疲れると、ふたたび足をいそがしく回転させて駆けに駆けた。(略)奇妙なものであった。村田蔵六というこの物静かな男を、狂人のようにして走らしめているのは桂の魅力であったであろう。さらに的確にいえば、ひとに認められ、信頼されたという蔵六自身の感動が、この蔵六を一個の狂人にした。狂人としか言いようのない走り方ではないか」


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