9. 広戸甚助と桂小五郎 − 無私の献身

広戸甚助は但馬出石の商家の息子だった。対馬藩出入りの商人だったとする文献もあるが、「醒めた炎」(村松剛)によると対馬藩の多田荘蔵の下僕になっていたという。対馬藩と長州藩は藩主が縁戚関係にあったので、もともと親交が深かった。その対馬藩に世子をめぐるお家騒動があった際に、反乱を起こした藩士たちが江戸にいた小五郎に援助を請うた。小五郎は調停に乗り出して、彼らが戴く世子善之允の立場を安泰させるべく尽力したのである。それ以来、対馬藩にとって小五郎は特別な恩人となっていた。その反乱派は対馬勤王党となり、そのうちの一人、大島友之允と小五郎は特に親しかった。当然、甚助とも顔見知りで、甚助をかなり可愛がってもいたらしい。
禁門の変後、長州軍が敗北してからも小五郎はなお京都に留まっていたが、もはや工作のし難いことを悟り、甚助に援助を求めた。甚助は最初、多田の小屋に隠れていて出てこなかった。小五郎の依頼で弾薬を因州藩士の家に届けていたことから、幕吏に捕まって拷問されることを恐れたのだ。だが幾松の母親自身が藩邸にしのんで来るにいたり、甚助も「林先生は、ご無事でしたか」と小五郎を気遣うように訊ねた(当時、小五郎は「林竹次郎」という偽名を使っていた)。小五郎が無事であり、自分の援助を必要としていることを知ると、甚助は意を決して立ち上がり、夜になってから小五郎が隠れ潜んでいる今出川の東の小屋に行った。小五郎の窮状を見て胸打たれたのか、甚助は小五郎を病にかかった船頭に化けさせ、関所をうまく通り抜けて無事、郷里の出石に連れて行った。

それ以来、甚助は実に献身的に小五郎に尽すのである。出石に着くと、甚助は知人の家の一間を借り受けて、そこに小五郎を住まわせ、13歳の妹おすみに小五郎の身辺の世話をさせた。会津、桑名の藩士らが小五郎を探索にきたという噂を聞くと、すぐにこの幕府のおたずね者を出石から湯島(現在の城崎)の宿に移す。時には広戸家の檀那寺である昌念寺に預けることもあった。その後、甚助は小五郎になにか商売をさせたほうが良いと考えて、親戚の重兵衛に家を借りてもらい、宵田町で荒物屋を開かせた。屋号を「広江屋」といい、彼は広江屋孝助と名乗る。ここでもすみに小五郎の世話をさせ、父親と弟の直蔵にも小五郎をひきあわせている。
小五郎が京都にいる幾松のことをしきりに心配して、甚助に助力を請うと、今度は京都まで出かけていって、幾松が馬関に逃れたことを確かめてくる。さらに小五郎が馬関の様子を知りたいというと、またまた馬関まで赴いて、幾松と村田蔵六に会うのである。小五郎も甚助に甘えっぱなしだが、甚助も労を厭わず、小五郎の望むとおりによくも尻軽く働くものである。明日はどうなるともしれない幕府の罪人にここまで尽し抜くとは、健気というか、いじらしくさえある。

小五郎が無事なことを知った長州藩は、なんとか一日も早く小五郎を帰藩させようとする。結局、幾松が甚助といっしょに出石に小五郎を迎えに行くことになった。
ところがその旅中で問題が起る。これほど善良で献身的な甚助にも弱点があった。博打癖である。大阪で賭博に手を出して、蔵六から預かってきた50両の路銀をすってしまうのだ。甚助は金策に窮して「なんとも申し訳なく、あなたさまにも旦那さまにも合わす顔がない」という手紙を幾松に届けて、逐電してしまう。幾松はその後、非常に苦しい思いをして、なんとか小五郎のいる宵田町までたどり着く。3月の節句の晩だった。この小五郎と幾松のその後の話は別項で述べたいと思う。
長州へ帰るためにはやはり甚助と直蔵兄弟の助けが必要だった。直蔵は大阪に行き、甚助を探し出して出石に連れ帰ってきた。甚助は小五郎と幾松の前で土下座して謝ったが、小五郎は喜んでも幾松はそっぽを向いていた。しかし、その後も甚助の無私の献身は続く。大阪に入ると甚助は幕吏の尋問にあう。直蔵には目で「逃げろ」と合図して、自分はおとなしく縛についた。小五郎を逃がすための時間稼ぎであった。小五郎と幾松のいる商人宿に駆けもどった直蔵は二人に事情を説明する。彼らは直ちに対馬藩の藩邸に入って難を逃れ、4月26日には馬関に到着する。幸い甚助も釈放されて、あとから下関にやってきて小五郎らと再会する。禁門の変からこの時期にいたる小五郎の人生は実にドラマチックである。

小五郎は甚助・直蔵兄弟の恩を終生忘れず、明治2年に甚助が大阪で商売を始めたときには資金を提供し、彼の請いをいれて「広江屋」の商号を許し、さらに孝助の名も与えている。大阪に行くときには、木戸はいつも「広江屋」に泊まったという。


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