11. 伊藤博文と木戸孝允 − 後継者の深慮

長年にわたって主従というよりは兄弟に近い関係にあった木戸孝允と伊藤博文の間がおかしくなったのは、明治4年に二人が岩倉使節団の全権副使として渡航したときだった。

米国で予想以上の歓迎を受けて、使節団は徳川幕府時代に欧米諸国と結んだ不平等条約を改正する予備交渉を正式な交渉にして良い結果を得たいと思いはじめ、これにもっとも熱心だったのが当時の駐米少弁務使、森有礼だった。伊藤はこの森の影響もあってすっかりその気になり、正式交渉に必要な全権委任状をわざわざ大久保利通とともに日本に取りに戻ったほどである。伊藤が大久保と親密になったのはおそらくこのあたりからだろう。船上では木戸に関する昔話もいろいろと大久保に語ったかもしれない。

予定外の時間をかけたにもかかわらず、日本側の国際法に関する無知もあって条約改正の交渉は、伊藤と大久保が委任状を携えて米国に戻ってくる前に中止されていた(詳細はいずれ別項で述べる予定)。木戸は、欧米文明を賞賛する一方で外国人のまえでも平気で日本の悪口を言う森など洋化派官僚を苦々しく思っていた。伊藤が彼らに迎合することも、昔の苦労を忘れて派手に振舞うことも気に食わなかった。洋行の経験を鼻にかけて調子に乗りすぎているとみたのだろう。ここは伊藤の鼻をいったんへし折っておかなければ本人のためにも良くない。
木戸にきびしく叱責された伊藤は近づきにくくなったのか、急速に大久保に接近していった。木戸にはそれがまたおもしろくなく、大久保に対しても腹を立てていた。大隈(重信)の場合もそうだが、どうも大久保は木戸が親しくしている人物に手を出す傾向があった。それやこれやで感情がいよいよこじれてきて、帰国するまでに木戸と伊藤・大久保の悪化した関係はついに修復されなかった。

伊藤は欧米視察から戻った翌日には、先に帰国していた木戸の邸を訪れて弁明にこれ努め、結局、木戸も機嫌を直したので、二人の関係はようやく修復された。そこは長い付き合いだからお互いに気心は知れているし、双方とも互いを必要としていたから、日本に戻ればこじれた感情もさらっと氷解したのだろう。その後、伊藤が大久保の秘書官みたいになっても、木戸は伊藤に対する評価を変えることはなかった。やはり自分の後継者は伊藤以外にいないと思ったのか、留守政府との「征韓論」紛争の最中に病気になったこともあって、伊藤を参議に推挙している。

伊藤が大久保に接近したのは以上の事情がきっかけだったが、伊藤にもいろいろと思うところがあったのだろう。一つには木戸の病弱である。やはり長州閥の一人として不安だったに違いない。ここは大久保と誼を通じておいたほうがいいと思ったとしても不思議ではない。いま一つは木戸の辞表癖である。大久保は木戸が政府から離れるのを憂慮しており、木戸を繋ぎとめるのに非常に苦労していた。薩長融和のためにも間に入って木戸を説得するのは自分しかいない。自分が二人の間を取り持たなければ東京政府はきわめて不安定になって、不平士族らに攻撃され易くなるという政治的な配慮。

もちろん伊藤は、木戸の後継者は自分だという密かな思いや、大久保に従っていれば木戸亡きあとは自分が政府のナンバー2になれるという意識もあったに違いない。そして木戸を隠退させないように大久保と協力しなければならないとも――。かつては勤皇志士のリーダーだった長州閥の筆頭木戸孝允は、大久保にとっても、伊藤にとっても、けっして手放してはならない革命政権の象徴であったのかもしれない。


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