12. 西郷隆盛と木戸孝允 − 薩長同盟の駆引き

幕末のメイン・イベントといったら、なんといっても慶応2年(1866)1月に結ばれた薩長同盟だろう。徳川幕府を倒し、歴史を大きく回天させる原動力となった薩摩藩と長州藩の秘密軍事同盟である。文久3年(1863)8月18日の政変(堺町門の変)以来、薩摩と長州は犬猿の仲だった。とくに長州は薩摩への憎しみが激しく、下駄の裏に「薩賊・会奸」(会は会津藩のこと)と書いて、露骨な敵愾心を燃やしていた。翌年6月の「池田屋の変」、7月の「蛤御門の変」によって長州藩は朝敵となり、同藩士は天下に大手を振って歩くこともできなくなった。しかも幕府軍による第一次征長戦では、藩内抗争で尊王攘夷派の藩士たちが処罰され、長州は多くの人材を失っている。
不可能と思われた両藩の同盟を仲介したのが土佐の脱藩郷士坂本龍馬と中岡慎太郎だった。前後の事情については、幕末ファンなら大抵はご存知だと思うので省略させていただき、舞台はいきなり京都の薩摩藩邸に跳ぶ。木戸孝允(当時は木戸貫治)、それに木戸に随行した長州藩士品川弥次郎と三好軍太郎は1月8日に京都に到着以来、西郷隆盛を代表とする薩摩藩の歓待を受け、連日ご馳走を食べて過ごしていた。しかし、10日経っても薩摩側から同盟の話はまったく出されなかった。これ以上滞留していても意味がないと思った木戸は、帰国を決意する。そこに坂本龍馬が登場し、幕末ドラマの見せ場となる。龍馬は木戸の話を聞き、未だ同盟が結ばれていないことに驚く。

「天下を敵にしている長州藩から提携の話をすれば、援助を乞うかたちになるので、こちらからは切り出せない」という木戸の弁明に、龍馬曰く、
「なぜそんな藩の体面や意地にこだわるのか。この同盟は長州や薩摩のためではなく、日本のためではないか」と、大抵のドラマでは龍馬は怒っている。そして、なんとも煮え切らない女々しい(?)木戸をそのままにして、龍馬は西郷のいる所に飛んで行く。長州藩の苦しい立場を察して、薩摩のほうから提携話を切り出すべきではないかという龍馬の助言を、打てば響く西郷が受け容れて、木戸に対して両藩の同盟を申し入れることになるのである。

ここでは龍馬を英雄視するあまり、ドラマでも木戸の言う言葉を省略することが多い。実際には木戸は最後にこう言っている。

「たとえ長州が滅びても、薩摩が朝廷のために尽くしてくれるならば、天下の幸である」

この一語に木戸の志の高さが顕われている。薩摩との同盟が成らなければ長州は滅びるであろう。それでも木戸は自ら頭を下げて薩摩に援助を乞う気持ちなどさらさらなかった。桂小五郎がなぜ長州の代表であり得たかという明白な答えがここにある。長州の滅亡を恐れるあまり、卑屈に自分から薩摩に同盟を乞うような男なら、薩摩を憎悪する長州藩士らが木戸をリーダーと仰ぐわけがなかった。 さらに言えば、交渉の駆引きにおいては、相手にけっして弱みをみせてはいけないのである。木戸は手強い交渉家であると同時に、肝のすわった優れた政治家でもあった。だからこそ彼は藩主や藩士らに信頼されたのだろう。

他にも彼は交渉開始前に、それまでの薩摩の非を同伴の品川らが狼狽するほど痛烈に批判している。立場が弱くても、言いたい事ははっきり言うのが代表者としての務めである。大久保が木戸に一目置くようになったのは、この時からだったかもしれない。西郷もまた「ごもっともでごわす」と言って、木戸と少しも争わず、肝の太いところを見せている。千両役者である。

ところで龍馬に説得されるまで、西郷が同盟の話をしなかったはなぜだろう。やはりこれも駆引きで、長州側から乞われるかたちで提携したほうが、のちのちのためにも良いと考えた、というのが真相ではないか。それは西郷の意思というよりも、薩摩藩全体の総意だったと思われる。木戸もまた将来において、長州藩の立場があまり不利にならないようにという配慮をもって交渉に臨んだのだ。そこは先を見通す予見者である。薩摩が兄貴分の立場になるのは仕方がないにしても、薩摩になんでも服従する弟にはならないぞ、という気概を示したのである。

龍馬もまた木戸の立場はすぐに理解できたから、それ以上木戸を責める愚を冒さなかった。また、木戸は口約束では薩摩を信用しきれずに、同盟の内容を書面にして、龍馬にその裏書を求めたことで、我々後世の日本人はその内容を今日でも知ることができる。この歴史的にきわめて重要な文書が残ったというのも、木戸の功績であろう。用心深く繊細な木戸の感覚が、この文書を残すことによって、坂本龍馬を一代の英雄に仕立て上げたともいえる。大政奉還の立役者だけでは、単に薩長の倒幕をじゃました男で終わっていたかもしれない。 (なんだか龍馬が出張りすぎて、西郷の影が薄くなってしまいました。すみません。)


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