13. 大久保利通と木戸孝允 − 天の配剤

明治維新からこの二人の関係について順を追って詳述すれば、一冊の本ができ上がってしまうだろう。従って、標題のとおり主題を絞らなければならない。

下級武士であった大久保は主君島津久光に取り入って側役となり、久光を巧みに操って倒幕を実現させた。志士というよりも、権力志向の強い藩官僚といった印象を受ける。長州の桂小五郎のように藩外に突出して、野を駆け、洛中を跳びまわり、戦火に身をさらし、幕吏に追跡され、地下に潜るといった、文字どおり勤皇志士として全身で活動したという士ではない。

維新当時の大久保の政治思想ははっきりしない。せいぜい盟友岩倉具視が望む王政復古の政治体制を漠然と構想していたに過ぎないように思う。一方、木戸は明治初年2月には早くも版籍奉還を建言し、さらに朝鮮への使節派遣についても意見書を提出している。木戸がいかに国防について考え続けていたかがわかる。彼は日本の近代化に向けて、洋化政策を積極的に推進する立場をとった。

これに対して大久保がやや慎重であったのは、公家である岩倉の保守的姿勢への配慮もあったと思われるが、やはり木戸に政治の主導権を握られてはならぬという気持ちが強かったのだろう。大隈、伊藤など改革に積極的な木戸派の政治家を次々と味方につけて、木戸を圧迫しはじめるのである。国権重視の大久保と民権意識の強い木戸とは所詮、思想的に相容れぬ政治家同士だった。

それでも、明治新政府を支える薩長の代表者が大久保と木戸であったということは、「天の配剤」としか言いようがない。大久保の相手は簡単に彼に同調するような姿勢がみられた藩官僚出身の広沢真臣ではよくなかったし、前原一誠では明らかに役不足で、すでに維新以前に亡くなった過激派志士久坂玄瑞でもうまくいかなかっただろう。軍事に長けた鬼才高杉晋作は政治家としての資質に欠けていた。

安易に相手に妥協せず、自分の意見を堅持して議論をたたかわせることができる政治家、大久保が一目置かざるを得ない人物――維新がなるまで木戸の生命を守った運命の女神はしかし、木戸には過酷な現実をもたらした。大久保との対立、軋轢は木戸を疲労させ、しだいに健康を損ねていく。時には相手を激しく非難し、憎みながら、逃亡に近いような形で政府から離脱する事も一度ならずあった。が、木戸は最後まで大久保を裏切ることはなかった。政府の危機にあっては大久保と固く結び、互いに協力しあったのである。

明治10年5月26日、西南戦争のさなかに木戸は病死するが、木戸亡きあと、大久保政権は1年と続かなかった。翌11年5月14日、大久保利通は紀尾井坂において不平士族により暗殺されるのである。


前へ  項目に戻る  次へ