14. 新島襄と木戸孝允 − 教育への情熱

「新島襄は成功した吉田松陰だった」と、ある明治の歴史家は評した。
松陰は密航・渡米に失敗したが、新島は見事成功して米国にわたり、運の良いことに密留学中に母国に革命が起って旧体制が崩壊した。そのうえ岩倉使節団の滞米中に脱藩の罪が赦されて、正式な官費生になるのである。

新島は天保14年(1843)に安中藩(群馬県)の下級藩士・新島民治の長男に生れた。藩校では優秀な生徒だったので、藩主の板倉勝明にその学才を認められ、特別に蘭学を学ばせる3人の若者のひとりに選ばれた。下級士族としては異例の抜擢である。だが新島が15歳のときに名君として知られる勝明が他界する。勝明の弟勝殷(かつまさ)が新藩主になるのだが、学者を重用した兄と違って、この弟は学問に関心がなく、兄がやろうとしていた教育改革を無視したので、多くの学者が学問所から離れていった。向学心旺盛な新島も藩務に就き、思うように学習できなくなって、内心の不満をつのらせてゆく。

以上が脱国するまでの簡単な経緯だが、新島が函館から密航を決行するのは元治元年(1864)6月である。それにしても彼はなぜ国禁を犯してまで渡米しようと決意したのだろうか? 息子を束縛し、既成の枠内に閉じ込めようとする父や家からの独立、新しい価値観を求めての、古い封建社会からの離脱であったことは容易に想像できる。
福沢諭吉は「日本人が数千万人おりながら、一人一人が箱に入っているような生活をしているのが江戸時代である。三人寄ると疑われるといけないから、どぶさらえの相談もできなかった」と「文明論之概略」で語っている。江戸時代は平和であったが、停滞の時代でもあった。どんなに学問をしても下級藩士には出世の限界があり、自藩内にとどまって行動の自由がなかったのだ。いつの時代にも若者は自由を求めて旅をしたがる。

新島もまた形を変えた幕末の一志士だったのかもしれない。
木戸孝允が新島と初めて会ったのは明治5年2月で、使節団全権副使として米国文部長官らの案内で、コロンビア大学を訪れたときだった。新島は岩倉使節団がワシントンに到着後に呼び出されて、教育制度の調査を手伝うことになったのである。初対面ではあったが、二人は互いに惹かれあうものがあったらしい。当時、木戸は「軽薄浅学の輩がみだりに開化を唱えている」と洋行経験者の行き過ぎた欧米礼賛を苦々しく思っていた。ところが新島は違っていた。渡米して8年になるというのに、そうした一方的な欧化主義に染まらず、非常に穏やかで誠実な印象を木戸は受けたようだ。新島がキリスト教に帰依していたことも、プラスに作用したのだろうか。
一方、木戸は地位や身分にこだわらず、誰とでもわけ隔てなく接する質だったから、新島も最初から打ち解けて話すことができたようだ。その後、新島は文部大丞田中不二麿の通訳として欧州の教育事情の調査に一足先に渡欧することになる。二人はドイツで再会し、品川弥二郎と三人で公園などを散歩している。

木戸と新島が短期間に親交を深めたとしても不思議ではない。木戸は明治元年12月に、はやくも普通教育の振興を建言している。
「国家の富強は国民の富強が基礎である。国民が無職貧弱の境域を脱離しなくては、王政維新の美名が空名となって、世界の列強と対峙の目的も、必ずその実が失われる。そこで一般国民の知識進歩を期し、文明各国の規則を参考にしてわが学制を定め、徐々に学校を全国に振起して、盛んに教育を普及することが急務である」
欧米巡視中に木戸が最も力を入れて調べたのが教育と法典だった。
周知のごとく、新島は帰国後、京都に同志社英学校(同志社大学の前身)を設立する。各地で伝道活動を行いながら、その私立学校を創るために奔走していたころ、明治8年1月に、ちょうど木戸が「大阪会議」のために山口から大阪に出てきた。新島は木戸の旅宿を訪ねて、学校設立の希望を語ったのである。維新当初から教育の普及こそが国の急務としてきた木戸が、新島の志に感じないはずがなかった。費用を有志の助力に頼って集めたいという新島に、木戸は賛成し、当時の大阪府知事渡辺昇と会って、新島に協力するように周旋した(渡辺は木戸がかつて塾頭を務めていた斎藤道場「練兵館」の後輩である)。また、大阪の富豪磯野小右衛門が2万円を投じて公園を作ると言っていたことを思い出して、その2万円を新島の中学校建設計画のために使うように説得した。

新島は木戸の尽力を非常に喜び、9月に東京に出て再び木戸を訪ねた。当初、建設地を大阪に予定していたのを京都に変更したい旨を告げ、翌日、再び木戸邸を訪れてから京都に帰っている。新島が私立学校開業の公許をえて同志社英学校を設立したのは明治8年(1875)11月29日。帰国したのが明治7年11月26日だから、わずか1年後に新島の夢は実現したことになる。時勢の波に乗り、運も良かった。「明治14年の政変」以降、明治政府は反動期に入る。7年後、新島は大学設立を目指して募金運動に奔走するが、心臓病を患い明治23年(1890)に亡くなっている。同志社大学設立の趣意書には次のような一文がある。

「明治8年1月、大阪において故内閣顧問木戸孝允に謁し、君に向って平生の宿志を吐露せしに、君深くこれを称賛し、専ら政府の間に斡旋し、余が志を貫徹するに力を尽され、前文部大輔田中不二麿君、前京都府知事槙村正直君また賛助せらるる所あり」

木戸孝允と新島襄を結びつけた教育理念とはなんだろうか?
国は2〜3の俊英が動かすのではなく、国民すべてを教育して、その能力に応じて人材登用することが大事である、と木戸は考える。つまり公平な競争をさせよ、ということなのだ。そこに将来を見据える木戸の視点がある。新島は国から干渉されない私立学校の存在が重要だと考える。自由と自主独立の精神を守りたいという思いだろう。
木戸のいう「人民のための政府」と、新島の目指す「市民国家」とは、限りなく近い相似性を秘めている。


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