明治10年5月18日、明治天皇は内閣顧問・木戸孝允の病状が悪化し、もはやその生命の危うきことを知らされると、自ら孝允を見舞うと告げて、翌日には鴨川べり土手町にある木戸邸に駆けつけた。 木戸の病気が再発したのは1月末だったが、その後、いくぶんは持ち直していた。2月半ばに西南戦争が始まると、 「西郷を説得したいので、ぜひ鹿児島に行かせてほしい」 と京都から手紙で懇願した。その頃、東京にいた岩倉具視はなにかに憑かれたような木戸のしつようさに困り果てて、彼に諦めさせるために、天皇にその説得を頼まなければならないほどだった。 前年にも木戸は洋行の希望を申し出て、政府首脳を困惑させている。京都隠棲がなかなか許されないので、海外に脱出しようと考えたらしい。自分の意見が通らない政府になど、いたくなかったのだろう。このときも木戸は宮中に召されて、「洋行を諦めて、宮内省に出仕常勤せよ」という勅諚を受けている。木戸の洋行を岩倉や大久保が許すはずもなかった。木戸を政府につなぎとめるためには、その命には逆らえない天皇の役割が重要になっていたのだ。 天皇の木戸への信任は誰よりも厚く、とくに木戸が宮内省出仕を命じられた明治9年秋以降は、二人が接する機会はいっそう多くなった。もはや木戸も政府を相手にする気はなく、自分の意見を直接天皇に申し上げるという、上奏のかたちを採るようになった。岩倉らにしてみれば迷惑なはなしで、木戸を参議に再任させようとする動きが活発になってゆく。伊藤博文が再三にわたって木戸の説得につとめたが、木戸はかたくなにこれを拒みつづけた。なんとか木戸を閣内に取り込もうとして、三条、岩倉両大臣も木戸の説得に乗り出すが、木戸はけっして首を縦に振ろうとはしなかった。 翌年になって、鹿児島の挙兵に西郷隆盛が関与していることが明らかになると、明治天皇はある種の気鬱状態におちいった。毎朝、太政大臣三条実美から戦況報告を聴く以外は、公の場に現れようとはせず、常御殿(私生活を営む場所)にこもって誰とも会いたがらなかった。大臣、参議でさえ九等出仕を通さなければ天皇の御前には出られなかったのだ。 西南戦争はすぐに決着しそうになく、京都市内には倦怠の空気が漂いはじめていた。木戸はこの状況を憂慮し、また天皇の鬱を散じる必要もあると考え、騎馬での市内散策を天皇に勧めている。以前には乗馬に熱心だった天皇が、戦争開始以来、馬場には2回しか出ていなかった。天皇は木戸の進言を容れて、3月下旬に京都市内を騎馬で巡幸した。木戸には天皇の気持ちがよくわかっていたし、天皇も木戸を過度に心配させないように配慮したのだろう。というのも、これより以前に、木戸は天皇の西郷に対する思いを聴いていたからだ。 明治4〜6年にかけて、ちょうど岩倉使節団一行が米欧回覧の途についていた時だが、西郷は留守政府の責任者として東京にあり、明治5年には明治帝の西国巡幸に供奉して天皇と近しく接触していた。天皇は西郷に好意を抱き、その時の想い出が忘れられなかったのだろう。西郷を朝敵とする戦いに苦痛を感じていたらしく、自らの心情を木戸に打ち明けたのだ。なぜ、このようなことになってしまったのか、なんとか和解できないものなのか。ともに明治維新を成しとげた同じ仲間同士が、今は敵と味方にわかれて戦う不幸を、誰よりも天皇自身が感じていたのかもしれない。天皇は木戸にだけはその思いを訴えたかったらしく、また、木戸にしか語ることはできなかったのだろう。木戸もまた同じ思いであった。 「西郷と直接会うことができたら、説得できたのに――」という口惜しさ。怨恨を超えて互いに手を結んだ薩長同盟以来、今日にいたるまでの西郷との交わりを思い出しもしただろう。このような不幸な結果になろうとは――木戸は天皇の前で落涙し、天皇もまた涙を滲ませた。ともに互いの心情を思いやる君臣であった。 天皇が見舞いに訪れたとき、木戸はもはや自分では動くこともできず、杉孫七郎(宮内少輔)に助け起されると、首をもたげ、眼に涙を浮かべてその洪恩を謝した。天皇はやせ衰えた孝允の姿を見て、一瞬声を呑んだ。もはや助かるまいという思いを払いのけて、天皇はこう語り掛けたかったのではないか。 「死ぬなよ、孝允。汝がいなくなれば、いったい誰にわが思いを語ることができるのか? 朕を一人にしてはならぬ」 互いに見交わす眼で、木戸は天皇の意思を読み取っただろう。しかし、もはやそれに応えることはできなかった。天皇の還御を見送ったあと、最後の力を消失したかのように、木戸は弱々しい声で孫七郎に呟いた。 はやく白雲に乗じて去りたい―― 明治10年5月26日午前6時、木戸孝允死去。享年44。 同年9月24日 西郷隆盛自刃。享年50。 二人の功臣の死を聞いたとき、天皇の胸に去来する思いはいかなるものであっただろう。波瀾の時代に国の運命を担った25歳の若き明治帝の苦悩はなおもつづいてゆく。 註: 木戸孝允の病気・死因に関する関連記事は「木戸孝允をめぐるなぜ ― 維新後、なぜ多病になったのか」をご覧ください。 |