16. 山内容堂と木戸孝允 − 酔狂の友

酒豪で鯨海酔侯と俗称された土佐藩主山内豊信(容堂)は、一橋慶喜の将軍擁立運動に失敗して隠退、蟄居する。しかし、「桜田門外の変」で大老井伊直弼が暗殺されて復活。公武合体策に奔走し、坂本龍馬の建策を容れて将軍慶喜の「大政奉還」を実現させるなど、終始幕末の舞台に登場し続けた。

風流人で武芸にも通じ身の丈5尺6寸あったという容堂は、維新以降は柳橋遊郭での豪遊ぶりを新政府に問題にされるほど、その遊びっぷりも最後の殿様らしい派手さで周囲を驚かせていた。その容堂と木戸孝允がなぜか非常にうまがあって、会えば飲み、大いに時勢を談じ、意気投合したという。木戸が橋場の容堂邸を訪ねれば、今度は容堂がその返礼に木戸邸を訪ねるというように、実に親密に交流している。
容堂は洋服を嫌って生涯和装でとおした人で、新政府にも批判的であったが、木戸の説く版籍奉還、廃藩置県には理解を示し協力を惜しまなかった。もはや大名の時代は終わったのだということを、頭では納得していたのだろう。
その時期に、容堂は「中秋無月 木戸松菊来訪」と題する詩を詠んでいる。

灯光水光りて揺れる
雲 長江を圧し雨気はなはだし
道(い)はず楼台無月の色を
君と同酔して良宵を便(わか)つ (原漢文)

月がなくとも何ということはない。君とこうして酒を飲んでいれば、それが良宵というものだ、と言うのだから、本当に二人は肝胆相照らして酒を酌み交わしたのだろう。

その容堂も深酒が災いして、明治5年6月21日、木戸が欧米巡視中に亡くなった。享年46歳。木戸が帰国後、箱根を訪れた際に宿で容堂の詩幅と出合って、懐旧の念にかられ、容堂を偲んで詠んだ詩がある。

亡友山内君の木賀偶成の韻に次す

東海先生 安(いづ)くに在る哉
雲煙跡を鎖し帰来せず
楼前の風景依然として好し
独り欄干に倚りて杯を挙げる懶(ものうし)

豪放で自由闊達な風流人山内容堂と繊細で気配りの達人木戸孝允は、共に詩酒を好み、風流を愛した「酔狂の友」であった。


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