17. 奥原晴湖と木戸孝允 − 女流画家との友愛

木戸孝允はどうも異能あるいは規格外れの人物を好み、そういう者たちをよく理解する人だったようである。吉田松陰しかり、高杉晋作しかり、大村益次郎しかり、坂本龍馬またしかり。

もう一人、ここに奥原晴湖という人物がいる。明治初期に一世を風靡した女流南画家である。彼女は下総古河藩の藩士池田政明の娘で、天保8年(1837)に生まれた。父親が道雪流の弓術の名手であったせいか、幼少より武道に関心をもち、聡明でもあった。絵画は同藩の枚田水石(谷文晁の高弟)に学んだが、渡辺崋山の画風にひかれていたようである。 晴湖(幼名はせつ)が尋常な女子でなかったのは、父に内緒で佩刀を注文したり、水戸流の大義名分論に傾倒して、さかんに攘夷論を唱えていたことからでも察せられる。

木戸との出遭いは山内容堂公の雅会であったとも、長州藩出身の画家西島青浦の紹介であったとも伝えられている。いずれにしても、二人は初対面のときから互いに感じ合うものがあったらしい。以後、木戸と晴湖の交流は木戸が明治10年に亡くなるまで絶えることなく続くのである。木戸の日記には、上野松源亭で文人たちと会合する記述がしばしばみられるが、そこに晴湖の名が記されていることが多い。
二人は特別な関係であるらしい、と巷で噂もされていたが、真意のほどはわからない。非常に気が合っていたことは確かである。晴湖は木戸の推挙によって、宮中にあがり皇后陛下の御前で揮毫をしている。

明治4年8月に断髪令が出されると、晴湖はまっさきに断髪してしまった。だがこれは男子を対象とする許可令で、女子の断髪は認められなかったから世間は騒ぎ、注目の的となった。しかし晴湖は保守的な輩の嫌がらせにも屈せず、けっして髪を伸ばそうとはしなかった。結局、彼女は一生、断髪を通すのである。そんな晴湖を木戸はよく支え、理解した。彼女の南画家としての名声は、木戸の後援によるところが大きかった。木戸はたびたび晴湖の家を訪れ、揮毫などもしている。政治に疲れた心を癒すひとときだったのだろう。

木戸が亡くなった翌年に晴湖は墓参りに京都を訪れ、木戸の未亡人松子と会った。最初はともに涙にむせび、しばらく言葉も交わせなかったという。木戸孝允を愛した二人の女性は亡き人を偲びつつ、その後どんな話をしたのだろうか――想像すれば興味は尽きない。


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