本項の題名は「孝明天皇と長州藩」としたほうがよいかもしれない。 桂小五郎は無官の一外様藩士にすぎないから、孝明天皇に直接対面したことはない。しかし長州藩の外交代表として、朝廷工作に深くかかわっていたので、このテーマで書いてみようと思う。 そもそも一外様藩にすぎない長州藩が歴史の表舞台に登場するのは、開国策を採る徳川幕府に対抗するため、絶対攘夷を唱える朝廷が長州藩を利用したことが発端である。それまで長州藩は「安政の大獄」前に政争となっていた将軍継嗣問題にはまったく関与していなかった。勅諚に背いて外国と通商条約を結んだ幕府と朝廷との対立は、この条約調印を厳しく批判し、諸侯の幕政参加を匂わせた密勅が水戸藩、長州藩などの有力諸藩に配布されたときから激化していった。しかし他藩と同様、長州藩もこの時点ではただちに勤皇・反幕の旗を掲げるようなことはしないで、慎重に対処したのである。 この密勅降下を知って、敏感に反応したのが廷臣や下級の尊攘志士たちだった。反幕勢力の拡大を恐れた幕府側の大弾圧が京都で開始される。志士たちは京都から一掃され、味方を失って孤立した朝廷に処罰の手が伸びてくる。幕府の圧力にも屈せず、孝明天皇はあくまでも鎖港攘夷を主張してつっぱていた。しかし頼みとする近衛忠熙(ただひろ)、鷹司政通など15人の廷臣たちが辞官においこまれ、忠熙・輔熙父子、政通、三条実萬(さねつむ)は落飾、謹慎に処せられるのである。 万延元年(1860)3月、大老井伊直弼が水戸浪士らによって桜田門外で暗殺される。息を吹き返した尊攘派の勢いを削ぐため、幕府は朝廷におどしをかけて、強引な手法で和宮降嫁を承諾させることに成功する。反対する孝明天皇を説得したのは岩倉具視であったらしい。和宮の降嫁をゆるす代わりに、攘夷実行の期限を約束させればよいという進言だった。幕府側にとって公武合体の実は成ったが、天皇の破約攘夷の意思は不動であり、攘夷の実行を約束させられたのである。 ここで話は文久3年(1863)、「八月十八日の政変」にとぶ。 これは薩摩藩と会津藩が連携して、三条実美、沢宣嘉(のぶよし)ら尊攘・反幕派七卿の参内を差しとめ、長州藩士らを九門外に締めだした事件である。宮廷内は公武合体派で占められ、尊攘派は一掃された。このクーデターには幕府側の危機感とともに、天皇の意思が働いていたようである。これより前、8月13日に攘夷親征の祈願をする大和行幸、伊勢参拝が発表されたが、その裏では討幕の計画がひそかに練られていた。その黒幕は久留米藩士・真木和泉守である。真木は毛利慶親を巧みな弁舌で説得して攘夷親征を承諾させてしまった。慶親から京都での工作を任された真木は三条実美ら尊攘派の廷臣たちの説得にも成功した。 彼は慎重居士の桂小五郎の説得に乗り出したが、案の定小五郎は懐疑的であった。馬関で外船砲撃をしている最中に、討幕の兵を起すなど無茶である、という小五郎を、真木は「攘夷の権が朝廷にうつれば長州が孤立することはない」と言って説き、朝廷の支持を得てから、さらに日を改めて小五郎を説きに説いた。小五郎も朝廷がそこまで決意を固めているなら、これ以上、反対してもしかたがないと思ったのだろう。真木の案を呑み、奉勅討幕の覚悟を固めることになる。いったん決意すると、小五郎の気持ちは高揚した。彼は真木とともに「建武の中興」(注)の再現を夢見たのである。 だが、彼の思惑ははずれた。孝明天皇は後醍醐天皇にはなりえなかった。天皇が望むのはただ平穏無事であって、討幕の戦いの中に身をさらすなど考えられもせず、その勇気もなかった。すでに義理の弟となっている若い17歳の将軍家茂を敵とみることもできなかったのだろうし、攘夷を実行しないからといって家茂の罪を問えば、和宮はどうなるのか。和宮をも討つことになるではないか。そんな残酷なことがどうしてできようか――和宮を人質にとった幕府の政略はみごとに効を奏したようである。天皇はあまりにも忠実に自分の意思を実行する長州藩が怖くなったのだ。 こうして長州藩は天皇から疎まれ、退けられた。最初は幕府と対抗するために長州藩を利用しておきながら、和宮の降嫁で天皇の心理は微妙にゆれうごき、公武合体を望むようになった。とにかく自分の身辺が平穏無事でありさえすれば、その後、長州藩がどうなろうと構いはしなかった。外国から袋叩きにあおうと、幕府に滅ぼされようと、自分が戦に巻き込まれなければ、それでよかった。「貴人、情けを知らず」ということなのか――。 破約攘夷を唱えたときから、孝明天皇は自分の言葉に責任を持つべきだった。それを実行した結果がどうなるか、その結果責任を自己が負う覚悟が天皇にはできていたのだろうか。天皇は通商条約ばかりでなく、勅許した下田開港の和親条約まで破約せよ、と主張していたのだ。正親町三条からそれを聞いたとき、最初、小五郎は信じられなかった。一切の条約を破棄して、港を閉ざし、外夷を追い払え、即今攘夷だと言うのである。これは諸外国に対する事実上の宣戦布告にひとしい。過激派筆頭の久坂玄瑞さえ、和親条約を破棄せよとは主張していない。彼らの攘夷とは、勅許をまたずに締結された通商条約の破棄を意味したのである。和親条約の破棄は外交上、信義の問題になるであろう。 事実の確認をするために長州藩が質問書を提出すると、下田条約の破棄もまちがいなく天皇の叡慮(意思)であるという回答が返ってきた。それでも納得しない藩は中村九郎兵衛を中山忠能の邸にさしむけて、もう一度しつこく確認するのだが、答えは同じだった。小五郎はなおも納得できず、近年の勅書、宸翰の閲覧を乞うた。そして、文久2年4月の次のような宸翰を発見する。 「もし幕府が10年以内に攘夷の師を起さないのなら、朕じつに断然として、神武天皇、神功皇后の遺蹤にのっとり、公卿百官と天下の牧伯をひきいて、親征せんとす」 これを読んで、小五郎はもはや叡慮が不動であることを納得した。奉勅攘夷を決定した長州藩としては、即今攘夷がどんなに無謀であろうとも、これに従うほかなかった。幕府が従わなければ、攘夷の権を自分で握るというのだから、征夷大将軍の否定であり、天皇には討幕の覚悟ができていなければならない。 孝明天皇は幕末最大の攘夷論者だった。その天皇の叡慮に誰よりも忠実に従ったのが長州藩であった。天皇はその長州を裏切ったのである。 しかし孝明天皇を責めるのは酷かもしれない。伝統行事と学問をするだけで、政権担当能力を奪ってきた徳川幕府の対禁裏政策の勝利といえば皮肉にすぎるだろうか。 (注) 建武の中興 − 後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒して京都に還幸し、天皇親政を復活したこと。 |