小五郎が吉田松陰の兵学門下生となったのは嘉永2年10月1日(1849)で、そのとき彼は17歳、松陰は20歳の若き師範だった。松陰は翌年8月に九州に遊学、12月にはいったん萩にもどるが、翌4年3月には藩主に従って江戸へ行き、同年12月に東北に旅立っている。遊学許可書を持たずに出発したために、東北旅行から江戸にもどると亡命の罪に問われて、萩に送られ士籍を剥奪される。しかし、松陰の才を惜しんだ藩主が10年間の諸国遊学の許可を与えたので、再び松陰は江戸に行くことになる。江戸遊学中の小五郎と再会するのはこの時で、ペリー艦隊来航のすこし前のことだった(松陰と小五郎との詳しい交流については「木戸孝允への旅」をご覧ください)。したがって小五郎が松陰に学んだ延期間はそれほど長くはないようだが、この師弟の出遭いは運命的な色合を帯びている。 偶然あるいは必然なのか。この時代に生れ合せた二人の運命とは実に不思議なものである。長年にわたる幕藩体制が疲弊の時を迎え、西欧列強による開国圧力によって早急な変革を必要とする時代に、なお強大な権力を保持する支配者に真っ先に立ち向かう者は、どの時代、どの国においても真っ先に命を落とす者である。革命の魁となる者は一個の火の玉にひとしく、自ら燃え、彼に接触する周囲の者たちをも焼き焦がす。弾丸の如く全身で時代にぶつかり、焔を発して砕け散ることも厭わない。一点の惑いも未練もなく、ただ死にむかって突っ走ってゆくのだ。それ故に、この先駆者は後世において輝かしい光を発し、注目を浴びるのだろう。 だが、もちろん彼だけではその志を成就することはできない。現実的な革命の達成者が必要なのだ。幕末の長州藩の幸運は、革命の先駆者と達成者たるにふさわしい人物をほぼ同時期に持ち得たことだろう。達成者は一見、先駆者とは正反対の性格を備えているように思われる。彼は自らの焔を内に秘め、冷静に状況を判断して慎重に行動する。彼は目的を遂げるまでは命を惜しむが、だからといってけっして臆病ではない。いざという時には果敢に行動し、危機にあっては適切な指揮能力を発揮するのである。大向こうを唸らせるような大それたことはしないで、じっと時期を待つ。勝利の可能性がもっとも高い「時」と「状況」を自ら創出しようと、根気よく他者を説得し、味方を増やすことに全力を傾注する。きわめて地味で目立たない努力だけれども、目的達成を第一とする現実的な対処法といえるだろう。 吉田松陰は桂小五郎の指導者としての資質を見抜いていたようだ。安政5年8月に小五郎が江戸藩邸の大検使役に任命されたのも、松陰の運動によるところが大きかった。直目付の清水図書や周布政之助に小五郎の登用を推しており、弟子の久坂玄瑞にまで桂招命の要を説いている。 「桂、赤川(淡水)は吾の重んずるところなり。無逸(吉田稔麿)、無窮(松浦亀太郎)は吾の愛するところなり。新知の杉蔵(入江杉蔵)は一見して心興(くみ)せり」 と松陰は江戸に発つ高杉晋作への手紙で語っているが、小五郎と並んで来原良蔵(小五郎の義弟。実妹治子の夫)をもっとも信頼していた。同5年に松陰は幕府へのクー・デタ計画の一端として、支藩にもその参加を呼び掛けようとした。その使者として挙げたのがこの二人だった。 「来原、桂ならばこの上なし。桂、来原一点の権謀なし、これ妙たる所以なり」と、松陰は小五郎が計画に反対するかもしれないと懸念しながらも、使者として選ばずにはいられなかった。同じ時期に小五郎は松陰の叔父玉木文之進に会って、松陰をすべての門弟、友人と絶交させてほしいと頼んでいた。文之進は松陰の兄梅太郎に、小五郎の言葉を松陰に伝えるよう告げたのである。松陰は非常に衝撃を受けて、 「ああ、われの敬信する所の者、ひとり桂と来原のみ」と入江杉蔵への手紙に書き、それなのに来原は老中間部の暗殺計画に反対し、桂もひそかに計りてわれを撓(たわ)むることかくの如し、と嘆いている。それでも高杉晋作への手紙には、 「桂は厚情の人物なり。この節、同志と絶交せよと、桂の言なるをもって勉強してこれを守るなり」と松陰はおとなしく小五郎の助言に従っている。松陰自身の純粋さや一面の素直さもあろうが、やはり小五郎への信頼の厚さが知られるのである。 長州の維新革命は吉田松陰にはじまり、桂小五郎におわった。二人が歴史上果たした役割はまことに大きかった。松陰の桂に対する信頼、桂の松陰に対する敬愛もまた、余人の想像以上に深かったのだろう。 |