小五郎より10歳年上の周布政之助は酒好きとして知られている。とにかくお酒が好きだった。政務座筆頭の地位にありながら、酒に酔ってトラブルを起こすことがたびたびあった。そんな先輩を心配した小五郎が、彼のために二枚の戯画を残している。 一枚には杯の絵の中に「麻田先生命」(麻田公輔は周布の変名)と書かれ、その下に「飲む勿(なか)れ 松菊」と書き込まれている。もう一枚には「君子之眼」と書いた横に「天地」の文字を丸で囲み、その右側には「小人之眼」として蚊取り線香のような渦巻状の絵を描いている(酔った眼か)。君子はしっかりと天地を見定めるが、酔眼のごとき小人はそれもできませんよ、と言っているらしい。困った先輩を諌めながらも、後輩のやさしさが伝わってくるようだ。 嘉永6年、米使節ペリーの浦賀入港時に、長州藩は幕命により大森の警衛地に出兵した。小五郎も大森に赴いたのだが、翌日には藩主の旗下に加えられて桜田藩邸に移った。小五郎の日記に、この時の周布との接触が書かれている。桜田邸で小五郎は連夜、大森の地図を見ながら、先輩や剣術の師匠(斎藤弥九郎)らの天下の形勢論、和洋長短の説を聞くのだが、彼にはまだ知識が乏しく、その是非を論議することができなかった。周布は、熱心に耳を傾ける桂小五郎という後輩を、この時から心に留めたようである。 だが翌年2月には、この後輩は友人の来原良蔵とともに外遊の許可申請書を藩庁に提出して、当時、藩政府の要職にあった周布を驚かすのである。鎖国の禁を破って二人を国外に出すことなど、とてもできるものではない。こんな申請が公に知れたら切腹ものだろう。二人が藩からも咎を受けないよう、周布はこの申請書を破棄して、何事もなかったことにした。 さらに、今度は吉田松陰の密航計画が発覚し、二人がこれに関与していたことが明らかになった。周布は藩への報告書に二人のことを書かざるを得なかった。だが、彼らを処分すればかえって幕府の疑惑をまねく怖れがある、と警告したので、結局、二人は藩から謹慎処分さえ受けずにすんだ。 翌安政2年には造船術習得のため、小五郎は浦賀奉行所の与力中島三郎助に師事したい旨を藩に願い出た。藩政府は兵制改革と船艦製造の必要性を感じていたので、小五郎の申請をすぐに許可する。周布は小五郎の志を喜んで、激励の手紙(6月23日付)を与えている。これ以降、周布は江戸のさまざまな情報を小五郎から受け、次第に小五郎を頼りにするようになっていく。 安政6年、小五郎は江戸の藩校である有備館用掛を命ぜられ、翌年4月には舎長となった。当時、有備館は規律が乱れていて、仮病をつかって道場に出て来ない者や、吉原に遊びに行って朝帰りする塾生が少なくなかった。この規則違反者に小五郎は退塾、禁足を命じ、年長の者であろうと厳しくのぞみ、悪質な者は国許に追いかえしてしまった。そのため有備館の空気が刷新され、勉学の士気が高まるなど、著しい改善がみられたのである。 周布は小五郎のこうした才能に注目し、国許の明倫館の用掛に推挙する手紙を書いて、萩に送った。国許の若い藩士たちの指導にあたらせて、江戸の藩校と同じ効果を上げてもらおうと思ったのだろう。 ところが周布はまもなく思い直すことになる。江戸の藩邸に小五郎がいなくなることに不安を感じたのだ。小五郎は周布の貴重な相談相手になっており、彼ほどの人材はほかにいなかった。結局、周布は小五郎を伴って萩に帰ることになっていた家老の宍戸備前守を説得して、小五郎を強引に江戸にとどめてしまった。宍戸も小五郎をひどく気に入っていたので残念に思い、周布を勝手な男だと呆れもしたようだ。 以後、周布と小五郎は尊皇攘夷の志を遂げるため、協力を強めていくのだが、歴史は彼らに試練を与えずにはおかなかった。小五郎は幕府の「おたずね者」として追われる身となり、周布は「禁門の変」以後、藩内の反対勢力に抗しきれずに、ひとり自刃して果てるという不幸な結果となる。 明治元年秋、新政府の一員として木戸は明治天皇に供奉し江戸に入った。その日は雲ひとつない秋晴れであった。御行列は真新しい砂利道を粛々として進む。かつては死線をさまよった志士は今、馬上にその雄姿を公然と晒す日を迎えた。だが、晴れ晴れとした表情に隠された憂いの陰に気づく者はほとんどいない。この日あることを、亡き周布政之助に知ってほしかった……いや、志半ばにして逝った大勢の同志たちにも……やがて木戸孝允として生きる桂小五郎の感慨はいかばかりのものであったろう。近代国家建設に向けて、創業の苦労をともにするはずだった良き理解者はもういない。 |