長井雅楽という人物は嫌いではない。ある種の同情さえ感じている。 文久元年(1861)に藩命によって、長井が正親町三条実愛をつうじて朝廷に説いた航海遠略策は公武合体を推進する方策で、小五郎や久坂玄瑞など長州の尊攘派とは意見を異にしていた。だが、この説には尊攘派の理解者である周布政之助や小五郎の義弟で吉田松陰と親しかった来原良蔵さえも一時は賛同するほどに、論理的で堂々とした正論であった。 「京の朝廷は条約の即時破約を仰せ出されているが、一旦外国と結んだ条約を理由もなく破棄すれば、たちまち戦争になるだろう。そうなれば数百年太平に慣れた武士を戦に使ってもどれほどの戦力になろうか。戦争というのは十分の勝算をもってやるのが古今の名将の道である。軽々しく戦いをおこして無策の戦争をし、国を敗亡させた例は古来かぞえきれない」と長井は攘夷の愚を説き、さらに続けて言う。 「皇国のためには、京都、関東ともこれまでのわだかまりを氷解して、朝廷のほうから改めて航海を開き、武威を海外に揮い、外夷の脅迫をおしかえす方策を関東に命じれば、ご威光も保たれ、関東もこの勅命にしたがって列藩に命令を下すだろう。そうなれば国是遠略は天朝から出て、幕府がこれを実行に移すという、君臣の位次も正しくなり、たちまち海内一和となり、海軍を整備し、士気が奮いたてば、五大洲を圧倒するのは容易であろう」 皇女和宮の降嫁が決定していた時期だったので、孝明帝もこの策を喜び、江戸の安藤(信睦)老中も「これだ!」とばかりに長井の策を歓迎し、長州藩に公武周旋を依頼したのである。桜田門外で大老井伊直弼が暗殺されて、幕府の権威が急激に低下していた折から、朝廷をまるごと取り込めば尊攘派の矛先もかわせ、和宮降嫁の側面援助にもなる、と安藤は考えたのだろう。 だが長井の開国策は、倒幕も視野に入れて活動していた尊攘派志士たちの猛烈な反発を招いた。攘夷思想が沸騰している時代には、こうした正論が現実的な効力をもって機能することは極めて難しい。長井の正論と比較すると、吉田松陰が時局を動かすために「狂」にこだわったのがわかるような気がする。革命とは現政権を完全否定してこそ初めて達成されるのなら、現政権を容認する長井の航海遠略策を小五郎や久坂が激しく批判したのも当然と思われる。他藩の尊攘志士らも当然、怒りを露わにする。久坂は西郷隆盛に「大奸物、長井雅楽を斬れ」とまで言われている。実際、久坂ら過激派同志は長井の襲撃を企てている。 小五郎は別の対応を見せた。彼は文久2年1月15日に起った水戸藩士らによる安藤老中襲撃事件(坂下門外の変)に関与していたことを幕府に疑われ、北町奉行所に呼び出された。そのとき幕閣の信任を得ていた長井は幕府に働きかけて、小五郎の窮地を救ったのである。長井は尊攘派志士のリーダー的存在である小五郎に恩を売って、味方にしようと思ったらしい。最大勢力である水戸藩攘夷派への説得を小五郎にさせようとした。 だが小五郎はそんなことで自分の志を曲げるような男ではなかった。「桂は志操の堅固な男であった」と、ある著書で司馬遼太郎氏が評していたのを思い出す。だからこそ、若い過激派志士たちからも信頼されたのだろう。逆に、小五郎も長井を利用して、自分の目的を遂げようとしているのがおもしろい。のちに公武周旋役に任ぜられて、彼は長井といっしょに藩の外交を担当することになる。 「公武合体の実現には将軍の上洛が必要です」と彼は長井に説くのである。小五郎の目的は、将軍が朝廷の下にあることを明白に天下に知らせることであった。長井は自説(航海遠略策)を実現させるためには、幕府と朝廷の関係を修復しなければならず、将軍の上洛しか方法がないだろうと考え、小五郎の案に賛同した。手段は同じでも、その目的を異にしていたのだ。二人は同床異夢のなかで、お互いの価値を量って利用していたともいえる。 結論を言えば、この勝負は尊攘派が勝利し、長井雅楽は失脚した。その時期に薩摩の島津久光が兵士千余人を率いて上京したことで、攘夷派の倒幕熱がいっきに高まったことが主因になった。久光が倒幕の挙兵をしたと攘夷派志士らが勘違いしたことから(久光は長州藩に対抗して、公武合体を周旋するつもりだった)、京都に攘夷・倒幕派がぞくぞくと集まってきた。寺田屋で薩摩藩士による同士討ちの悲劇があったのはこの時である。 だが、悲劇はそれだけにとどまらなかった。小五郎の義弟、来原良蔵は長井雅楽の航海遠略策に賛成して、結果的に同志や藩に迷惑を掛けたことに責任を強く感じていたため、みなが止めるのを振り切って自刃してしまった。良蔵は長井の従兄弟だったから、両者の狭間で彼は苦しんだのである。そして小五郎の妹治子は良蔵の妻である。義弟の悲報を聞いた小五郎が天を仰ぎ、悲嘆にくれたことは想像に難くない。 翌文久3年2月には、長井雅楽が切腹を命じられた。享年45歳。長井も来原も激動の時代に翻弄された犠牲者といえるだろう。 |