胸のすく男。いよっ、高杉晋作! 思わずこう声を掛けたくなる快男子といったら、やはり彼しかいない。まさに長州の暴れ牛、乱世の似合う男だった。 「おもしろきこともなき世を おもしろく」という彼の辞世の句はよく知られているが、高杉晋作こそは幕末の歴史を一段とおもしろくしてくれた出色の人物だろう。よくぞあの時代に生まれ合わせてくれた、と思わずにはいられない。結核で亡くなった彼の生涯は満27年8箇月と短い。だが多少の曲折はあったものの、その短い一生を尊攘倒幕の志士活動に捧げて燃焼し尽くしたという観はある。 久坂玄瑞と並ぶ松下村塾の双璧、「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし」と謳われた男は、不思議なことに他藩の志士らとはあまり積極的に交わりたがらなかった。江戸の藩邸ではもっぱら桂小五郎や久坂玄瑞と議論を闘わせていたが、高杉は松陰門下の先輩、桂にはずいぶんと世話を焼かせていたようである。 桂小五郎と高杉晋作。そのどちらが欠けても維新回天の大事業は達成されなかっただろう。「禁門の変」後における幕府最大の「おたずね者」はこの二人だった。長州藩尊攘志士の双璧ともいえようが、この二人ほど対照的で、双方の欠けたところを見事に補いあう好例も珍しいのではないか。ためしに筆者の独断で二人の特徴を列記してみよう。
しかし二人はともに相手を認めあい、高杉は6歳年上の桂を信頼することが厚かったし、桂も高杉には細やかな情を示していた。暴れ牛もときには桂の保護を必要としたのである。気性の激しい彼は刑死した恩師吉田松陰の狂を受継ぎ、外国公使暗殺を企て、これを阻止されると、建築中の英国公使館の焼討ちを実行する。自分の思いどおりにいかなくなると、酒を飲んで放蕩三昧、脱藩するわ、剃髪して「東行」と称し「10年の暇をくれ」と言い出すわで、この上士のおぼっちゃまには世子さえも振り回されていた。 だが、やるときはやるのが高杉晋作だ。四国艦隊の攻撃で長州が敗れた際には藩の正使として和議の交渉にあたる。第一次征長戦前に俗論派が政権を握ると直ちに亡命し、遊撃隊を率いて下関に挙兵、内戦で勝利を収める。だが、彼は政治にはまるで関心がなく、その能力にも欠けていた。混乱した藩をまとめることができるのは桂しかいない。禁門の変以降、行方不明になっている桂を高杉は探し求める。 「ひそかにおたずね申し候。桂小(桂小五郎のこと)の居処は、丹波にてござ候や、但馬にてござ候や。また但馬なれば何村何兵衛の処にまかりあり候や」 と彼は桂の居処を知っているらしい村田蔵六に手紙で訊ねている。その翌月に 「そのうちちょっと但馬城崎湯に罷りこしたく存じおり候」 と入江和作に書いているのをみると、高杉は自分で桂を迎えに行くつもりだったのだろう(桂小五郎は一時、城崎に潜伏していた。実際にはのちの木戸孝允夫人幾松が迎えに行った)。やがて第二次幕長戦の開始前に帰藩した桂が藩の用談役(参謀)に任ぜられ、軍事、藩政の両面を指導する事実上のトップリーダーとなる。実戦においては海軍総督・高杉晋作が幕府軍との戦いで奇策縦横な活躍ぶりをみせて、長州藩に勝利をもたらすのである。 高杉は自分の役割を見事に果し、自藩の勝利を見とどけてから逝った。一方、桂小五郎は無事に明治維新を迎え、木戸孝允と改名して薩摩の大久保利通とともに、新生日本のもっとも困難な舵取りをすることになる。だが、自分の理想と外れてゆく政府に厭でも留まらなければならない苦悩は、彼の心身を衰えさせていく。若くしてその持前の陽気さを最後までみせて亡くなった高杉と、西南戦争のさ中に悶え苦しみながら憤死した木戸孝允と、いずれが幸福だっただろうか。あの世で木戸を迎えた高杉晋作の声が聞こえてくる。 「桂さん、大変だったね。ご苦労さまでした。もう苦しまなくてもいいんだよ」 |