7. 坂本龍馬と桂小五郎 − 自由への旅立ち

坂本龍馬と桂小五郎――なぜかこの二人の組合せが好きである。
二人は一見、対照的なようでいて、あきらかな共通点がいくつかある。まず両人とも「剣の使い手」だということ。龍馬は北辰一刀流・千葉道場で、小五郎は神道無念流・斎藤道場で一時期、ともに塾頭を務めている。第二に、二人は剣を抜かない、つまり人を殺さない剣客である。尊攘派の天誅、佐幕派の新撰組などにより、敵対する人物への斬殺があたりまえのように日常化されていた幕末期にあって、龍馬にも小五郎にも血の匂いがしない。どこか温かい人間味を感じるし、実際に彼らには志士たちから頼られる包容力があり、面倒見もよかった。どちらも新奇なものに対して好奇心が強く、柔軟な思考をもっていた。
たしかに性格は違った。何ごとにも緻密で繊細な感覚の持ち主である小五郎と、いつも楽天的で豪放磊落、ときにはひょうきんな俗物性をも垣間見せる龍馬だが、激動の時代にあって、二人は周囲の人々を導くリーダーたるにふさわしい資質を備えていた。

では、龍馬と小五郎はなにが違ったのだろうか?
相似する二人の、決定的に相違する運命は、彼らの出生の特異性なしには語れない。長州藩と土佐藩。正規の藩士と軽格な郷士という境遇の違い。外様藩である長州に生れたことで、桂小五郎は最初から尊攘派のリーダーになる運命を担っていた。一方、身分差別の激しい土佐藩では、郷士の二男坊は脱藩する以外に、自己表現する術がなかった。逆に脱藩することによって、龍馬は行動と思考の自由を得たのである。

もし龍馬が長州に生れていたら、「日本をいま一度せんたくいたし申し候――」(姉乙女宛ての手紙)という、第三者的で暢気ともおもえる有名な言葉は生れなかっただろうが、この能天気さが龍馬の魅力でもある。一方、長州藩では「せんたくする」どころか、その後、明治維新にいたるまで、藩の存亡をかけた戦いに突入していくのである。小五郎もまた生と死の境界に身を置くことになった。

小五郎はもしかしたら龍馬のように自由な生き方がしたかったのではないだろうかと、ふと思うことがある。彼は吉田松陰と同時期に海外脱出を企てていたし、その後も、留学させてほしいという希望を藩政府に伝えている。しかし藩の外交を担当している小五郎の密留学を藩が許すはずがなかった。代りに英国に行ったのが伊藤俊輔や志道聞多(井上馨)ら5人の藩士である。海外渡航の可能性は龍馬のほうにこそあっただろう。貿易商社「亀山社中」を設立し、海援隊の隊長となって「ユニオン号」を操り、薩長間の貿易や下関の幕長戦にも、高杉晋作に頼まれたとはいえ参加している。
長州との関わりで最も重要だったのは、もちろん薩長同盟締結時に立会人となったことだろう。龍馬は同盟の内容を記した桂小五郎の手紙の裏書をしている。それにしても、薩摩はなぜ文章化してやれなかったのかと思う。不安にかられて、薩摩と合意した内容を必死に書きとめ、龍馬に裏書を求めた桂小五郎の心中は察して余りある。その後も小五郎が薩摩に対して不信感を抱き続けたのは当然であったかもしれない。
安政の大獄に起因する井伊直弼暗殺の年に結んだ水戸藩との「水長盟約」では、小五郎はただひとり、自らの命の危険をおかしてその議定書に署名、血判しているのである。結果的に西郷隆盛が龍馬の説得を受けいれたかたちで小五郎に同盟を申し込んではいるが、文章化する意思があればできたはずなのに、しなかったのだから、薩摩は最後まで小五郎には冷たい印象を残してしまったといえる。
そのとき、小五郎がすがれる者は龍馬しかいなかった。龍馬の朱色の裏書にも普段にはあまり見られない厳粛な気持ちが表れている。

表にお記しになられ候六条は、小(松)、西(郷)両氏、および老兄(小五郎)、龍(馬)等もご同席にて談論せし所にて、毛(すこし)も相違これなく候。後来といへども決して変り候事これなきは、神明の知る所に御座候。

その後、龍馬は寺田屋で幕府の捕り方に襲われるが、お龍の機転で薩摩藩邸に逃れる。その時の様子を龍馬は手紙で小五郎に報じた。小五郎は驚いて、龍馬を気遣う見舞文を送っている。

大兄伏水(見)のご災難、骨も冷たく相成り驚いておりましたところ、ご無事とのことで喜びに堪えません。(中略)狐狸の世界か豺狼の世間か、さらに相分らぬ世の中ですから、少しく天日の光が見えるまでは必ず必ず何事もご用心なさってください。(意訳)

小五郎は龍馬を友として、同志として信頼し、頼りにしているし、今後も頼りにしたいと思っていただろう。それだけに、維新革命実現の最終段階で龍馬が将軍慶喜の「大政奉還」に荷担して、一部、幕府の組織を残そうとしたことは残念でならない。徳川に恩を感じている土佐藩父・山内容堂のなお諦め切れない公武合体策の固執。その意思に従おうとする後藤象二郎との関係もあっただろう。脱藩を赦された瞬間から、龍馬は土佐藩に属してしまったのかもしれない。最後における龍馬の不透明な言動を擁護する者はたくさんいる。その主な理由は平和主義だが、なかには龍馬の英雄像を維持したいあまり、薩長を悪者に仕立てようとする者もいる。しかし、龍馬が今日、幕末の英雄として認められるのは、大久保利通や岩倉具視の権謀術数、西郷隆盛の強固な討幕の意志による明治維新の実現があったからこそである。

龍馬が維新後も生きていたとしたら、どんな人生を歩んだのだろうか。政治家となって、大久保らと丁々発止やりあっている姿は想像できない。やはり龍馬には海が似合う。彼は大船に乗って、日本を代表する貿易商として世界の海に乗り出すのだ。そして、その横には木戸孝允がいる。自由に恋焦がれながら、誰も彼を放そうとはせず、ついに心身を衰弱させて逝ってしまった彼は、時をもどして、龍馬がいる奔放な世界に生きるのだ。すべての責任から解き放たれ、自由な個人として、龍馬とともに、はるか大海原を越えて世界を巡る旅にでるのである。二人の明るい笑顔が輝く陽にまぶしい。


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