青年時代(江戸)
● ある水戸浪士の死
「内田万之助と申します。桂小五郎どのにお会いしたいのですが」
小五郎が留守だったので、応対した長州藩士・奥平数馬がとりあえず内田を講堂に導き、そこで待ってもらうことにしました。まもなくして帰ってきた小五郎に奥平が内田と名乗る来客のことを告げると、小五郎は水戸浪士ではないかとすぐにぴんときました。すでに今朝の安藤襲撃事件のことは有備館にも伝わっていたのです。本人に会ってみると、
「自分は水戸浪士・川辺左治右衛門です」
と本名を名乗り、安藤襲撃に加わるはずだったのが、遅刻して間に合わなかったことを小五郎に打ち明けました。
「ご尊名は岩間金平よりかねがね伺っております。義挙に遅れたことは自分の失態であり、同志にたいして申しわけなく、切腹の場をお借りしたい」
川辺が斬奸状を小五郎に託して死のうとするのを小五郎は止めました。「死ぬことはいつでもできます。それよりも生を全うして尊皇の志を遂げることこそ大事ではありませんか」と小五郎は説得しますが、川辺はなにも答えず、ただ一途に思いつめている様子です。そこで、小五郎は相手の気持ちを慰撫しようと酒食を用意させてから麻布藩邸に赴き、長井雅楽と会って事情を説明しました。ことの重大性を感じ取って、小五郎はなにかあったときには個人ではなく、藩全体で対応できるように布石を打ったのでしょう。冷静な判断でした。なぜなら、有備館に戻った彼は再度、川辺への説得を試みますが、結局、川辺は自決してしまうからです。
しばらく潜伏することを勧め、必要な金はこちらで都合するという小五郎に、川辺は感謝の意を表し、したためておきたいものがあるというので、小五郎は席を外して、ひとまず講堂を出ました、ちょうど外出先から伊藤利輔が帰ってきたので、これまでの経緯を話していると、突然、講堂から「愉快、愉快」という声が聞こえてきました。すぐに二人が駆けつけてみると、川辺はすでに腹を切り、咽喉を横につらぬいて、鍔元まで刺し通して前方に伏していました。
うれしさや こころしずかに隅田川 渡るも今をかぎりと思へば
絶命した川辺はこの辞世の歌のほかに、七言絶句を自刃の直前に書いていました。小五郎がわざと席を外して川辺に自殺させる機会を与えたと言って、冷たい男と小五郎を批判する人たちがいますが、これは筋違いの批判でしょう。
むしろ川辺のほうが自己の立場しか考えない軽率な男だったといえます。彼が脱藩したのは、自分たちの起すであろう事件によって、水戸藩に迷惑をおよぼすまいとする配慮からであったはずです。それならば、長州藩の道場で自殺して、盟約の相手である小五郎と長州藩には迷惑をかけてもよいと思ったのでしょうか。彼がしたことは、まことに信義にもとる行為です。まして小五郎は「成破の盟」で乱後の改革と建設を委ねた直接的な相手です。けっして道連れにしてはならない相手、最後まで生きてもらわなければいけない人物であったはずです。川辺は己の面目を保つために切腹し、立派に死んだという証人ほしさに小五郎に甘えてしまったといえます。まだ二十歳そこそこの若者だったので、自分の成した行為によって小五郎がどんな苦境に陥るか、思いが及ばなかったのかもしれません。
一方、小五郎のほうですが、彼が川辺をわざと自殺させるように仕向けたとは思えないのです。小五郎は村塾の生徒たちについても、誰も死なせまいと、いつも配慮していたようなところがあります。小五郎は川辺にも生きて逃れてほしかったのではないでしょうか。いつかまた、日本のために働く機会はいくらでもあったはずですから。
川辺の死によって、小五郎はまさに窮地に陥りました。彼は利輔と共に北町奉行所に拘束されてしまったのです。
(注記)
「松菊木戸公伝」には、川辺左治右衛門が小五郎を訪ねてきたとき、小五郎は居留守をつかってただちに麻布藩邸に赴いたと記されています。「醒めた炎」(村松剛著)では、講堂で川辺の話を聞き、彼を待たせておいて麻布に駆けつけたという説を採っています。本「木戸孝允への旅
22」では「醒めた炎」の説を採用しました。
やはり、自分を訪ねてきた目的をしっかり川辺から聞いてからでないと、長井雅楽に十分な説明はできないし、今後に採るべき対策を練ることも難しかったと思われるからです。 |
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