松菊日記から転載 



司馬作品関連記事

2007.05.16   「攘夷」は革命のエネルギー
現在、「きど旅」の更新作業中なのですが、村田蔵六の動きが知りたかったので、参考までにちょっと「花神」を開いてぱらぱらと読んでいました。すると攘夷に関する司馬さんのご意見が的確に表れている文章に遭遇したので、ここに引用してみますね。

「攘夷」についての余談をつづけたい。
福沢諭吉のような開明派からみればおよそ愚劣な、
――私は首をもがれても攘夷のお供はできませぬ。
と福沢がそうまでののしったその攘夷主義とそのエネルギーが明治維新を成立させたのである。福沢のような開明主義では明治維新は成立しなかった。攘夷エネルギーで成立した明治維新が、世界史上類のない文明開化方針をとったのは皮肉なようにみえるが、歴史はこの点、化学変化のふしぎさに似ている。福沢のような開明主義では、本来国家を一変させるエネルギーをもっていないのである。

ついでながら佐幕開明主義というグループが存在したが、これではとても歴史は動かない。というのは、この時代、むしろ幕府方のほうに開明家が多かった。(略)「とすれば」という議論がある。

「薩長による明治維新がなくても、幕府中心で結構、開明国家になったはずである」
という議論だが、これでゆけば、清帝国のままで孫文の中華民国もできたし、さらには毛沢東の中国もできたという議論にひとしい。(略)
幕末の攘夷熱は、それが思想として固陋なものであっても、しかしながら旧秩序をやきつくしてしまうためのエネルギーは、この攘夷熱をのぞいては存在しなかった。福沢は蔵六や長州の「攘夷熱」を嗤ったが、しかし、これがもし当時の日本に存在しなかったならば武家階級の消滅はきわめて困難で、明治開明社会もできあがらず、従って福沢の慶応義塾も、あのような形ではあらわれ出て来なかったことになる。 (司馬氏の「攘夷論」はさらにつづきます)

さらに反幕攘夷家たちは、日本の中心を天皇という、単に神聖なだけの無権力の存在に置こうとした。天皇を中心におきたいというこの一大幻想によってのみ幕藩体制を一瞬に否定し去る論理が成立しえたし、それによってさらには一君万民という四民平等の思想も、エネルギーとして成立することができた。「攘夷」というものが福沢のいうようなばかばかしいものではなく、攘夷が思想というよりエネルギーであればこそ、この時期以後、激動期の歴史の上でのさまざまな魔法を生んでゆくのである。

(私が大汗かいて言わなくても、ちゃんと司馬さんが理路整然と語ってくれていました。攘夷派ばんざーい!)

200706.22  土佐侯と長州藩士の喧嘩
幕末がおもしろいのは、歴史の過渡期ということもあり、通常ではあり得ないことが次々に起きてくるというのも理由のひとつでしょう。殿様と家臣の関係なんか、これほど無遠慮だったのかと驚くこともありますが(とくに長州藩)、それも一藩主が違う藩の家臣と喧嘩をする話を読んだときにはいっそう驚いたというか、あっけにとられたものです。
例の土佐藩主山内容堂の描いた「さかさ瓢箪」(長州の下級藩士の勢力を皮肉った)に尊攘派の長州藩士らが激昂したという話。司馬遼太郎の短編なんかに、実におもしろく書いてあります。容堂侯を主人公にした小説は筆がかなり滑っていてどんどん読めてしまう。周布や久坂が容堂に仕返しをするのですね。久坂が得意の詩吟で、

「われ方外に居てなほ切歯す。廟堂の諸老なんぞ遅疑するや」
朗々と吟じると、すかさず周布がぱっと手をあげ、容堂を指さし、
「そこにおわす方もまた廟堂の一老公」
と言ったので、容堂は顔色を変え、(激徒め)とおもった。(略)
数日たって長州藩邸から酒一樽を送ってきた。酒の銘をみると、「日本魂」とある。長州志士らが、容堂に日本魂があるかとからかったしゃれらしい。容堂はふんとあざわらい、紙をとってなにか礼状を書き付けたので、家士が長州藩邸へもって行った。周布と久坂らがひろげてみると、
「大べら棒」と書いてあった。
(大名とは思えぬ。まるで市井のやくざのようだ)
と周布政之助はおもった。
と、この話はまだ続いて、ついには酒癖の悪い周布が暴言を吐いて土佐藩士の恨みを買い、謹慎させられてしまうのですね。その間、世子定弘や家老らが土佐藩邸まで容堂にあやまり行くという始末。容堂は土佐の郷士連中が長州藩邸に入り浸っていたのも気に入らなかったようです。

そのほか、えっ、こんなことがあったの、というような話が薩摩藩の島津久光を主人公にした小説(「きつね馬」)に載っています。

京都で諸侯会議があったときに、「これから閣老にあおう」ということになって諸侯たちが立ち上がったが、久光だけ立たなかった(大久保に幕府関係者には会わないようにと言われていた)。土佐の山内容堂が気づいて引き返してきて、
「隅州(久光)、参られい」
と声をかけるが、久光は無言で表情を固くしている。
「参られい、と申すのに」
と、容堂はいきなり久光のえりがみをつかみ、ぐっとひきよせたので、久光は「なにをなさる」と、もがき、扇子で容堂の手をたたいた。容堂はぱっと手をはなすふりをして久光を突きころばした。小柄な久光は勢いよくころんだ。うまれて、こんなことを人にされたことはない。

そりゃそうでしょう。殿様だもの。容堂は薩摩の倒幕の陰謀に気づいていたので、ついこんな行動に出ちゃったらしいです。それにしても、かりにも殿様が他藩の殿様に対して、こんなことしますかねぇ。容堂侯もなかなかおもしろい人物です。この人がまた維新以降、木戸さんと気が合って、飲み友達(?)だったのですから、よくわからないですね、人の相性というのは。

2007.07.24  司馬論の矛盾 第二弾
長州人論はおもしろい、と司馬さんは言う。
「もし長州人というこの複雑な性格をもった行動集団が日本に存在しなかったなら、明治国家の成立はずっと遅かったか、あるいは違った形態になっていたにちがいない」
その後、英雄論云々(長州に西郷隆盛のような英雄は生まれない、など)を語った後に言う。
「長州人論は、おもしろい。この議論がちゃんと確立しないかぎり、近代日本史が語れないのではないかと思うほどに、語れば尽きない観がある」
矛盾した性格とは、律儀(猪突猛進)でありながら、怜悧(計算ずく)ということらしい。長州人の商人的性格についても触れている。

薩摩については、やはり西郷隆盛個人に論が集中する。西郷は城山で自刃した。「その敗北は日本国に史上類がないほどに強力な官権政府を成立させるもとになった。あるいは西郷の敗北は単に田原坂にとどまらず、こんにちにいたるまで日本の政治に健康で強力な批判勢力を成立せしめない原因をなしているのではないかとさえおもえるのだが、(略)徳川体制下においてさえ無言の批判勢力でありつづけた薩摩という独立国が、明治政府という中央集権の出現によってついに消滅せざるをえなくなった、ただそれだけのことであるともおもえるのである」

長州人論では司馬さんは明治国家の成立を肯定的に見ているように私には思えます。それに、
「明治時代はいろいろな欠点はありながらも、偉大としか言いようがない」
というような司馬さんの発言をなにかの本で読んだことがあります。しかし、後者の西郷論を読むと、同じ時代を批判しまったく否定しているようです。すると「偉大な明治」という司馬さんの言葉はなにをさして言ったのだろう、と首をかしげてしまうのです。近代化のことでしょうか。それともある時期を境にしてその評価が逆転したというのでしょうか。その時期は明治10年の西郷の死から分かれるということでしょうか。それに官権政府は悪い意味なのでしょうが、時代がそれを要求したと言えなくもない。中央集権の出現も悪く捉えているようですが、そもそも維新革命の目的は廃藩置県を経て、各藩割拠から中央集権政府を確立し、西欧列強の植民地主義に対抗することではなかったのではないでしょうか。司馬さんの「偉大な明治」とはそうしたことも評価したうえで、言ったのではなかったのか?

ついでながら、歴史家も明治政府の「有司専制」を批判しますが、「有司専制」にしてしまったのは、あの幕末の時代の日本人なのです。桂小五郎は「正藩合一」というできるだけ多くの志ある藩が集まり、各藩が平等の立場にたって新しい時代を築こうとしていました。それができずに「薩長同盟」に頼らざるを得なくなったのは、ほとんどの藩が「お家大事」で勝つか負けるかわからないような戦いはしたくなかったからです。幕府権力に頭(こうべ)をたれるか、日和見主義を決め込んでしまったからです。山県有朋が権力の権化みたいになったのも、そうなり得る条件を提供してしまったからなのです。

木戸孝允は「軍人は政治的な権力を握ってはいけない」といって、山県の野心を抑えました。彼はその先に危険な日本の進路を見ていたに違いありません。もし明治10年以降も生きていて、日本を穏やかな平和国家に導ける者がいたとしたら、それは不平士族に担がれた西郷ではなく、ひとり政府内野党であり続けた木戸孝允だったでしょう。


前へ  目次に戻る  次へ