松菊日記から転載 |
2009.07.11 木戸公の言論・学校機関への貢献 徳富蘇峰著「木戸松菊先生」から、新聞など言論機関への木戸さんの関わりについて、ご紹介しようと思います。 * * * * * これも歴史に大書さるべきことでありますが、言論を以て世の中を指導するところの新聞に眼と手をつけたのも木戸公であります。木戸公は新聞の必要を感じでそのために、曙新聞ができ、日々新聞の福地氏なども、木戸公の門下生として働いたのであります。 明治十年、成島柳北が「讒謗律」(ざんぼうりつ)に引っかかったことがあります。牢に入る時に成島先生は、 「自分は旧幕府でも大身に生れている。まだ牢屋のモッソー飯を喰った事がない。長く入っていると自分は死ぬかもしれない。なんとか助かる道はないか」 と人をもって、これを木戸公に持ち込んだのであります。木戸公は承知したともしないとも何とも云わずに、ただ、 「成島もいま少し大人になれ」 と云われたということであります。 やがて成島は縲絏(るいせつ)から免れたのでありますが、これはまったく木戸公のおかげであったのであります。 私どもは同志社の出身者でありますが、同志社も木戸公の援護によって、創立せられたのであります。日本に耶蘇教の学校を明治七、八年頃造るのは、容易の事ではありませぬ。しかし、新島先生が木戸公によく話し、木戸公の助力によって、ついに出来たのであります。木戸公なかりせば、同志社は出来なかったとは申しませぬが、新島先生をしてこれを成さしめたのは、木戸公の力であります。 (一部を省略、旧かなを直しています) 註: 縲絏(るいせつ) − 「縲」は黒縄、「絏」はしばること。罪人をしばる縄。また、獄につながれること。 2009.06.25 久々に維新の話 このごろ、あまり幕末維新関係の話をしていないので、伊藤痴遊の著書からご紹介しようと思います。同氏の著書には史実の不正確な記述もみられますが、歴史的事象や人物の洞察には注目に値する記述もみられます。 * * * * 幕府を倒して、新政府が成り立って、政治文物、その他一切のものが、旧から新に移ってゆく。こうした時代には、必ず新旧思想の衝突が起こって、それが「意外の変」に爆発して来るものである。同じ政府内にいる者でも、その暗闘で始終ごたついている、というのはどこの国にもある事であるが、ことに明治初年においてわが国内に、新旧思想の暗闘は、実にひどいものがあった。 木戸、大久保・人物論 (征台論について) 全体、木戸という人は、極めて公平な考えをもっていたから、自分は長州出身でありながら、長州人のする事だ、といって、何でもよいとは言わなかった。薩人のする事でも、よいと信ずれば、平気でこれに同意する、というような人であった。 もとより人間のことであるから幾分、長州人に偏する点が絶無という訳ではないが、まず大体において、木戸は公平な人であった。 それから国家の事について非常に親切に、よく考えて経営を試みようとした人であるから、台湾征討論が起こると、朝野の人がそれに付和雷同するにもかかわらず、木戸は毅然として、あくまでも反対を唱えて、どうしてもこれに同意しようとしなかった。 しかるに大久保は、この際において強いて征台論を抑えれば、必ず征韓論と同じような結果になる、と観ていたから、心の底から征台論に同意ではなかったろうけれど、とにかく政略上から、不平党を治めるひとつの方便として、征台論には同意していたのである。 (国会開設について) 大久保は保守的の政治家として、一部の人に頑冥不霊の人なるが如く伝唱されていたが、けっしてそういう人物ではなく、政治的には目覚めていたのである。 ただ非常に大事取りの人であったから、手っとり早く事をきめず、よく考えて強く断ずる、という風があった。 木戸にいたっては、行政上の知識に、不思議の天分がある、よく論じて、よく行なうの人であった。政治は公儀を基とし、人民を対照として行なうべきである、というのが木戸の政治に対する意見であった。 板垣らは一足飛びに、国会を開け、というのに対して、木戸は、町村会から始めて、府県会におよび、徐々に国会へおよぼそうという意見であった。 結局は木戸の言ったとおり、町村会が開かれ、進んで府県会となり、最後に国会が開設されている。 (町村会に関する木戸孝允の意見書の冒頭には 「政府は人民のために設くる所にして、人民は政府の使役に供するものに非ず。大権、武門に帰せしより、人民常に政府の圧倒を受け、休養視息することあたわざる者、ここに七百余年〜 顧みるに封建の治、諸侯各自に土地人民を私有し、徳川氏、その上に専制することすでに久しきを以て…」と記されている) ことに木戸は憲法をつくり、法典を設けることの急務なる旨を、しきりに説いていた。その点から考えても、木戸の意見には秩序の整然たるものがあった。 西郷は、偉大な人物であったが、こうした事については一切空である。大久保には木戸ほどに緻密な才識が無かった。法制に関する意見も、あまり深いとはいえなかった。この点、独り木戸の壇場である。 * * * * * 要するに、列車を走らせるには、まずレールをしっかりと敷いてから、ということですね。途中で列車が転覆しないように準備をしっかり整え、あとでできるだけ不都合が生じないように、最前の対策を講じようとする優れた計画性をもっていたわけです。現在の政治家諸君も、見習ってほしいものです。自分の頭で考えられるように、常に勉強し、知識を高めて、保守的な官僚には振りまわされないようにしてください。 2008.11.28 吉田松陰の遺体と桂小五郎の血判 小五郎にとって首のない死体を見るのは、おそらく初めてだっただろう。それも病死ではなく刑死である。四斗だるの中に屈折した血まみれの裸体。物言わぬ土気色の唇。永遠に閉じられた瞼。艶をうしなった乱髪。 あの夜、あれほど熱く語った松陰の生気は静寂の底に消滅し二度ともどることはない。体温のおちた冷たい屍に自分の襦袢を脱いでまとわせたとき、どんな思いが彼の胸を満たしていったのだろう。 小五郎が水戸藩士と「成破の盟」に署名、血判したのは翌年(1860)の夏だった。松陰の死から1年も経っておらず、その間に「桜田門外の変」が起きて大老井伊直弼が暗殺されている。幕府権力を一掃し、新しい日本の世を築け! そんな松陰の声を小五郎は聞いただろうか。 「〜ご相談の儀、違背これあるまじく、違背これあるに於ては神罰を蒙るべく、よって血判くだんのごとし 万延元年八月」 松島剛蔵 桂小五郎 孝允 (血判) 冷静に考えれば、これは親藩の藩士と外様藩士との恐るべき決断である。松陰の志は小五郎の覚悟によって確かなかたちを成して、勤王志士たちが結束する端緒となった。 吉田松陰の死体と桂小五郎の血判が、やがて幕藩体制を揺るがし、この国を明治維新へと爆走させていく数々のドラマを生み出してゆく。 2007.02.18 長寿では敵に負けた維新三傑 考えてみれば、佐幕派に勝利した薩長の巨頭たち、いわゆる維新三傑(木戸、西郷、大久保)は、違った意味で悲惨な死に方をしており、勝者である彼らもまた激動の時代の犠牲者だったのだなあ、とつくづく思います。現在では想像も及ばない、すさまじい時代の嵐の中で生死をかけて活動し、ようやく倒幕・維新にこぎつけてはみたものの、貧乏な日本を富ませるにはまだ時間も掛かるというのに無責任な保守派、好戦派、革新派などからの攻撃にさらされ、まるでサンドバック状態。 一方、アウトサイダー的立場にたった旧幕府指導者や佐幕派幹部は精神的にも楽だし、刺客に狙われることもなかった。近代国家に脱皮する過程で、内乱の、あるいは過労による犠牲者になってしまったのは三傑のほうでした。ちなみに、木戸が44歳、大久保 48歳、西郷 50歳で亡くなっているのに対して、佐幕派は、 徳川幕府: 徳川慶喜 76歳、 松平容保 57歳、 勝海舟 76歳 五稜郭関係: 榎本武揚 72歳、 大鳥圭介 78歳 新選組隊士: 永倉新八 76歳、 斎藤一 71歳、 島田魁 72歳 となっており、いずれも三傑最後の大久保が亡くなった明治11年以降も生き延びています(いずれも満年齢)。ちなみに封建制にもどせ、と言って西郷、大久保をさんざん困らせた島津久光は70歳(明治20年)までしっかり生きています。 2007.02.21 奇兵隊の名誉と長州藩を救った木戸孝允 明治二年に起こった諸隊叛乱については、いずれページを設けて公平な視点で書こうと思っていますが、ここで少しだけ触れてみようと思います。叛乱が起こったのは、諸隊の兵を精選して親兵(2千人)を編成したことがきっかけでした。藩が財政難で肥大化した軍隊を養えなかったのですね。それで東京政府に預ければ身軽になるが、選に漏れた兵は失業することになる。それで怒って叛乱を起こしたわけで、たまたま木戸が帰郷していたことから、これを鎮圧する役割を担うことになった。だから、叛乱の鎮圧者としての木戸をことさら強調する者たちもいる。 実際は、その時期、優秀な人材はみな東京の新政府に取られてしまって、長州藩内にはしっかりした指導者がおらず、藩庁の役人は無能者扱いされていたようです。ですから会計に不正な面もあったらしく、木戸は「賞典も速やかに行うように」とか、「民望を失っている者はご詮議のうえ早々罷免してはどうか」と忠告しているほどです。 諸隊のほうも「元来、諸隊兵卒驕慢跋扈する弊、一朝一夕のことにあらず」と前原一誠が言うほど礼儀、軍律を軽んずる者が多かったようです。 詳しい話は別の機会にゆずるとして、これは遊撃隊を中心とする叛乱だったのですが、奇兵隊が有名なのでそのようにみられているようです。とにかく彼らは木戸を殺すつもりでした。木戸を殺して、暴力的手段で藩庁に自分たちの要求を呑ませようとしていたのです。もし木戸が殺されていたら、薩摩、土佐を主力とする政府軍に攻め込まれていたか、逆に士族の叛乱が燎原の火のごとく日本中に広がって、各藩が割拠状態になっていたかもしれません。西欧列強の植民地化にも繋がっていく――。 そうした意味では木戸が奇兵隊の名誉と長州藩を救ったことになるでしょう。木戸は暴力に拠らず、平和的に自分に窮状を訴えてくる者に対しては心から同情して協力を惜しまなかった。私財を投じて救ったりもしています。政府内でも、誰よりも窮乏する士族に同情的で、士族を苦しめる政策に対してはひとりで反対していました。それを考えれば、萩博物館が「木戸孝允、叛乱諸隊の指導者を徹底鎮圧」とだけ記すのは極めて公平を欠くのではないでしょうか。 2007.03.24 大隈重信、木戸孝允を語る 大隈重信って、意外と木戸さんのことを正しく理解していたようですね。あの当時の一部の保守的な長州人よりも余程木戸の本質をわかっていたようです。木戸孝允について彼が語ったことを一部ですが簡単に要約してご紹介しますね。 私は木戸公にはずいぶん世話になったものである。公の精神はただ皇室に一時の忠節を尽くすというのではなく、天皇の下で国家を根本から一洗し、尽瘁(じんすい)せんとする理想を抱いていた。そこで毛利氏も、島津氏も、徳川氏も眼中になく、公の精神は国家の統一を図るというのが基礎であった。しかるに、その偉大なる精神を諒解できない者もいて、長州の内部にも公を喜ばないものがあった。公は毛利敬親父子に対しても熱烈なる同情を有しておられたが、一部の頑固党には、長州藩が公のために崩壊せられたかのように考えるものもあった。 その一例として、慶応二年の幕長戦で長州が勝利した際の占領地(小倉など)を公が奉還しようとしたことに反対して争うものがあった。公は大いに憤慨して、何のために王政復古をしたのか、将来日本は、世界万国に対峙して行かねばならないのに内輪で些細なことを争うとはと嘆いた。そんなふうに維新の初めにおいて、普通の人々は公の真実の精神を理解し得なかったのである。 長州内部さえそうなのだから、薩摩のことも公は心配していた。薩摩は真心忠節を尽くすのか、あるいは自己の権力を拡張せんとするのか、あるいは覇権を掌握せんとするのではないかということを憂慮されたのが、その身体を衰弱された基をなした。これをもって見ても、公は一点の私欲なくして熱烈なる忠実心なることを、証明するに足ると思うのである。 よく言ってくれました、大隈さん! でもね、今でも木戸さんは郷里においてさえも、十分に理解されていないようなのですよ。ある意味で、高杉晋作や吉田松陰以上にすごいことをやってのけたのですけれどね。かえって、外国人のほうが木戸孝允を正しく評価しているようです。 2007.04.05 (抜粋) 木戸孝允の不幸は、彼の真の研究者がおらず、門外漢が小説なり、評論なりの依頼を引き受けざるを得ないことにあります。だから人物の理解が足らず、とんでもない私見を述べていたり、「木戸孝允」と題した本なのに、別の人物の話に多くのページが割かれていたりする(「雑記帳」の書評を参照)。この現状は故人にとって本当に気の毒なことで、はやく若手の優れた研究者が育ってほしいものです。 |