2. なぜ要職に就くことを嫌ったのか?


明治政府では、木戸は何度も辞表を提出して大久保を困惑させているが、木戸の辞表癖は維新から始まったわけではないようだ。
文久三年の「堺町御門の変」(八・一八政変)で長州が京都から追放された後も、木戸(当時は桂小五郎)は朝廷工作のために京都に潜伏していた。だが、薩摩や会津の妨害で思うようにいかず、結局、藩命によって長州に戻ることになった。木戸のこの時の身分は直目付、奥番頭格である。しかし、先の政変で長州が「朝敵」同然となってしまったことに木戸は責任を感じており、とても藩にとどまっている気はしなかった。彼は辞任の意思を伝えるが、藩庁はこれを受け容れない。再度京都に潜入して長州藩の復権に努めたいと願う木戸は、脱藩さえ考えるのである。
その後、藩主の命によって長州藩の立場を釈明するために佐賀に使いに行き、帰藩すると、再び辞任を願いでて、今度は萩の実家に閉じこもってしまう。これには藩も閉口して、ついに目付辞任と京都行きの許可を与えて、山口に出頭するよう藩主自ら木戸に頼んでいる。

禁門の変(蛤御門の変)後に、但馬出石に潜伏していた木戸が長州に戻ったあとにも、彼は辞任騒動をやらかしている。その頃には木戸が藩の外交、軍事、政治の実権を事実上握っていて、長州征伐をもくろむ幕府軍をこれから迎えようかという時期だから藩庁は慌てた。
木戸は薩摩との提携を進める方針に対する非難の声に嫌気がさして、長州藩を離れて浪人として働こうと本気で考えていたらしい。即刻、佐幕派の処罰が行われ、藩主父子が木戸を呼んで辞任の撤回を求めている。その後も、木戸は武器の調達のことで海軍局の妨害にあった際に、「萩に帰って静かに暮らしたい」といって辞任を願いで、この時も藩主が木戸の説得に努めている。

こうしてみると、まるでだだっこのように思えるかもしれない。だが、彼は自分の政策、方針を実行できないのなら、要職に就いていても仕方がないという考え方で、それが明治10年に亡くなるまで終始一貫していたことが、その後の行動をみてよくわかるのである。地位や名誉などよりも、自分の理想に向かって突き進むことが、木戸にとっては一番大事なことだったのだ。

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