3. 「禁門の変」後、なぜ長州に戻らなかったのか?
「逃げの小五郎」という異名をもって、木戸をいつも危ない場面から調子よく逃れる男、と批判がましく言う輩がいる。それはものの表面しか見ていない、見ることができない者たちである。 木戸は単なる一兵卒ではない。京における長州藩の外交代表であり藩士を監督し、尊攘志士らを統率するリーダー的存在であった。いわゆる大将である。たとえ戦に敗れても、大将さえ生き残っていればその軍はいつか勢力を盛り返し、必ず復活することができる。 だから大将はその戦いに「勝ち目なし」と見極めれば、逃げるのが最大の任務なのだ。だから、負け戦では信長も懸命に逃げたし、歴史をさかのぼれば頼朝もまた逃げた。天下を取らんと志すものは、けっして敵より先に死んではいけないのである。 木戸の先を見通す能力は抜群で、誰もおよぶ者はない。 「禁門の変」(蛤御門の変)の敗退が長州藩におよぼす影響を、彼はあきらかに予知していた。つまり「正義派」(尊攘派)に替わって「俗論派」(幕府恭順派)が藩権力を掌握し、木戸は「禁門の変」の責任を問われて処罰される可能性が高いこと――。木戸にとって、京都はもちろん、自藩の長州でさえ安全な場所ではなかったのだ。 そして、長州はそのとおりになった。幕府の長州征伐が決定されると、無条件恭順を主張する椋梨藤太一派が攻勢に出て、孤立した周布政之助は自殺した。井上馨が帰宅途中に襲われて、瀕死の重傷を負ったのもこのときである。椋梨派が政権につくと、支藩である岩国の吉川監物を仲介に、藩主親子を蟄居させ、四参謀、三家老の首を差し出せば征長軍を解散させるという条件を受け容れた。さらに幕府側は桂小五郎と高杉晋作の居所を追及している。高杉は危険をいち早く察知してすでに亡命しており、小五郎が出石に潜伏していたことは誰も知らなかった。 幕府にとって一番恐ろしいこの二人が生き残ったことが、のちの長州藩の復活を決定づけることになったのである。 |