4. 維新後、なぜ辞職をくりかえしたのか?


2.の問題と重複するところがあるかもしれない。また、「幕末・維新の諸問題」でも触れているが、薩長同盟の当然の帰結として維新後に誕生した薩長政権と呼ばれるものが、当初、木戸が思い描いていた新政府のあり方と一致していたかという疑問がある。
土佐藩と佐賀藩の去就が、戊辰戦争の始まる前後まではっきりしなかったことが、維新後の権力構造のあり方を決定づけてしまったと言えるだろう。
木戸の不幸は、同盟の相手が最も士族支配の徹底した封建色の強い薩摩であったということだ。すでに武士、農民、商人といった身分制が崩れかけていた長州では、藩主の権力もまた弱かった。高杉晋作が主導した奇兵隊の創設など、長州内ではすでに画期的な改革が始まっていたのだ。
木戸はだれの力もかりずに、開明的な思想を持ちえた人物だから、武士という自らの身分を否定することに、なんの抵抗も持たなかった。大村益次郎を起用して、国民皆兵の理念を実現させなければ、西欧列強に対抗し得ないことも十分に認識していた。だがあまりにも士族意識が強すぎる薩摩藩士はそれを理解できなかった。
大久保が木戸の政策の正しさを理解するのは時間が掛かったし、きわめて権力志向の強い男だったので、改革を急ぐ木戸派の突出を押さえつけようとする行動にでることもたびたびであった。

木戸にとって一番堪えがたかったのは、やはり大村益次郎の暗殺事件だっただろう。明治2年9月4日、大村は京阪地方巡視中に京都木屋町の旅宿で賊に襲われ重傷を負い、2ヵ月後に死亡する。この事件の背後には当時、京都弾正大忠の任にあった薩摩の海江田信義がいたと言われている。大村の兵制改革に不満をいだく浮浪士族らを使嗾して、大村を襲わせたという疑いが濃厚なのだ。のちに凶徒は捕えられるが、その処刑を海江田が差し止めて、再び獄舎に戻してしまった。これにはさすがに大久保もあわてたらしく、自ら指図して、海江田に処刑の執行を命じている。
その後の兵部省では、改革を推し進めようとする長州人とこれを阻止しようとする薩摩人の争いが続いた。明治3年に山縣有朋(長州)と西郷従道(薩摩)が欧州の軍事・兵制視察旅行から帰国して、二人の協力によってようやく兵制改革は軌道に乗るのである。

薩長の対立はこの一事をみても相当に深刻だったことが推し量れる。薩摩に対する不信感、警戒感を木戸は死ぬまで緩めることができなかったようだ。「もしも」という言葉は使うべきではないかもしれないが、幕末において長州の最も強固な同盟の相手が土佐、あるいは佐賀藩だったら、維新政権内で健康を害するほどに木戸が苦悩することはなかったかもしれない。現実的な想定ではないが――。だが、板垣にしても維新当初はかなり保守的だったから、木戸の革命的改革を理解できたかどうか疑問は残る。
木戸は行動の人であり、名利の人ではない。2.の問題でも述べたように、やはり自分の政策、理想を実現できなければ、要職に留まっている意義など見出せなかったのだろうし、参議の地位などなんの未練もなかったのだ。ただ、長州閥のトップとしての責任と憂国の想いだけが、求められるままに東京政府に留まることになった理由だったのかもしれない。

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