5. なぜ最初の結婚に失敗したのか?
木戸に最初の結婚話が持ち上がったのは安政5年(1858)夏ごろ、26歳のときであったという。相手は大組士、宍戸平五郎(150石)の娘富子(17歳)で、富子の兄は江戸の練兵館で学んでいた。翌6年2月に結婚したのだが、若い新妻は小五郎一家に馴染まなかったらしく、3ヵ月後には実家に帰ったきり、夫の家に戻ってこなかった。 村松剛氏もその著書で指摘されているとおり、主な原因はやはり小五郎の家族構成の複雑さだったのだろう。小五郎の家には三家族がいっしょに住んでいた。小五郎夫婦、実家の和田一家、それに来原良蔵に嫁いだ妹治子と子供たちである。小五郎は父親が54歳のときに後妻が産んだ長男だったが、父はすでに長女に入婿をして和田家を継がせていた。小五郎が桂家に養子に出されたのはそんな家庭の事情によった。 さらに義兄の和田文譲には3人の男子がいて、三男の勝三郎(12歳)が小五郎の養子になっていた。小五郎は子供のころ体が弱かったので、「とても長生きはできまい」と思った父の昌景が、義理の息子である文譲の子(昌景の孫)と養子縁組をさせていたのである。富子は満年齢だとまだ16〜17歳だったから、自分といくらも歳の違わない養子の世話をして、二人の小姑に仕え、家事をこなしていくなど、とてもやってられない、と思ったのだろう。 「わたくし、実家に帰らせていただきます」 と言ったかどうかはわからないが、二度と婚家に戻る気はしなかったとしても、無理はないと思える。第一、自分が嫁ぐ前から小五郎に養子がいるというのも納得いかなかったのではないか。わたしが子供を産んだらどうするのよ! と――。 実際、小五郎自身がこの複雑な家庭に育ったことで、性格がかなり変わったのではないかと思われるふしがある。意外なことに、少年時代、小五郎はかなり腕白だったらしい。それがだんだん長じるにつれ、落ち着いてきて、周囲を気遣う若者になっていた。だが、詳しい話は「きどこういんへの旅」で語ることにする。 |