7. なぜ平等思想を持ち得たのか?


木戸の人民平等の意識は但馬出石での亡命時代に養われたものだろう、と最初は思っていた。
「禁門の変」以降、木戸は幕吏に追われる身となり、乞食や商人に姿を変えてあちこち逃げ回らなければならなかった。自藩の保護も受けられず、幕府・朝廷に対する反逆者として、捕えられれば極刑に処せられる身となった。もちろん実名も名乗れず、顔を上げて歩くこともできなかったのだから一般の民以下の悲惨な状況で、どん底まで落ちたといえるだろう。人はいつ、どんな境遇に陥るかわからない。このときに木戸の人民意識が強烈に芽生えたとしても不思議ではない。だが、彼の平等思想はどうやら長州藩の歴史的な背景にその源があるようである。

これより以前、伊藤博文がまだ吉田松陰の松下村塾に学んでいた頃のこと。彼は身分が低かったために、他藩士との交際のうえでも制約があった。そこで、伊藤を足軽から長州藩士とするために、木戸が彼を自分の従士として藩に届け出たのである。
「届け出のうえでは私と君は主従ということになるが、それはあくまで形式であって、君は私を同志と思ってもらいたい」
当時の木戸、桂小五郎が伊藤に対して言った言葉である。司馬遼太郎によると「桂は歴とした上士で、そういう身分の者がこうしたことをするのは他藩ではまったくあり得ず、長州だけの現象」だそうだ。
そういえば吉田松陰も松下村塾の生徒たちに「僕と君たちは師弟ではなく、朋友である」と言い、10歳の少年にさえ自分と同位置にみて扱ったという。
土佐藩の山内容堂公はある会合の席で、長州はこれだ、と逆さひょうたんを書いて長州藩士にみせたことがあった。上下が逆さまで、下の者が威張って藩を牛耳っているというのだ。この容堂公と長州の周布政之助や久坂玄瑞らのやりとりがなかなかおもしろいのだが、別の機会に語りたいと思う。
「関が原の合戦」後、毛利家は中国10か国の領地を周防と長門の2国に削られた。それでも多くの藩士が減俸されても藩主についていき、生活に窮した者は百姓や町人になった。幕末期において農民を主体とする奇兵隊が結成されて武士団以上に活躍したのも、もとは武士だという矜持があって藩への帰属意識が強く、他藩ほど身分差を感じることもなかったからなのだろう。戦国時代に毛利藩の基礎を築いた毛利元就が、家臣団の結束を図って丸い輪の外側に署名させた「傘連判状」も序列を問わない平等意識の証左かもしれない。

「政府は人民のためにあるのであって、政府のために人民があるのではない」とは木戸の言葉である。国権を確立し、強力なリーダーシップで人民を統治しようとする内務卿大久保利通に、伊藤博文や山縣有朋ら長州人さえ従ってゆくなかで、木戸孝允は一人孤立しながらも、民主主義の灯を廟堂に点し続けた孤高の政治家であった。

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