8. 維新初期に朝鮮使節派遣を主張したのはなぜか?


歴史の専門家でもこの問題を現代の視点でしか捉えられない人がいるのはちょっと妙な気がする。やはり当時の時代背景を無視しては語れない問題ではないだろうか。
明治元年に木戸孝允が版籍奉還とともに、もっとも気に掛けていたのが朝鮮問題だった。西洋列強のアジアでの植民地戦略に危機意識を募らせて志士活動に入った者には当然の懸念であった。
木戸が最初に問題にしたのは竹島(朝鮮の鬱陵島)で、竹島開拓については興膳昌蔵という人が吉田松陰にすすめ、松陰が「幕府の許可を得て開拓するべきだ」ということを桂小五郎に手紙で伝えた。イギリスやロシアが一時、対馬の占拠を計画していたほどだから、長州の地理的近さもあって、松陰は外国による竹島の占拠を怖れたのだろう。この竹島問題について小五郎は当時、幕府講武所の教授になっていた村田蔵六に相談している。そんなわけで竹島開拓については、松陰の影響もあって安政年間から木戸の頭に残っていた問題だった。もちろん、その先には朝鮮半島があったのだから、西欧列強による侵略を懸念したのは木戸ならずとも、当時の日本人には自然なことであった。
理想は朝鮮と協力して外夷を退けることだっただろう。そこで日本は政権が天皇に戻ったことを知らせ、今後も友好を深めたい旨の手紙を送ったのだが、朝鮮の大院君政府は日本の新政府を認めず返事もよこさなかった。そこで朝鮮は非礼であるという怒りの声があがり、征韓論に発展していく。木戸も征韓を主張するのだが、すぐに討てと言っているわけではなかった。まず使節を送って説得するべきで、それでも態度を変えなければ兵を発するのだという。そして釜山港を開かせるが、物産金銀などの利益のためではない。むしろ損にはなるけれど、釜山を抑えれば日本海航路は安全に保てるというのだ。木戸もロシアあたりを相当に警戒していたようだ。朝鮮では日本のような維新革命は起らなかった。それは地理的、歴史的な背景が違うのだから、そのことで国の優劣を論じてもしかたがない。

木戸の征韓論は一時的なものに過ぎなかった。国内情勢の慌しさもあって、朝鮮問題への関心は徐々に薄れていく。米欧視察から帰国後は、まったく反対の立場を取るようになる。西欧との圧倒的な力の差を見せつけられて、朝鮮どころではなくなってしまった。まずは国内体制をしっかり固めて、国力を養う必要性を痛感するのである。ところが、今度は留守政府の征韓論である。板垣退助や江藤新平らの積極論とは違って、西郷隆盛はかつての木戸と同様に、まず使節を派遣することが先だと語っている。この時の政治情勢は単なる征韓論だけでなく、他にもさまざまな問題が絡み合っていた。そのことについては本稿のテーマではないのでこれ以上は触れない。

木戸、西郷、あるいは他の者の征韓論にせよ、その後の歴史を知っている我々が、現代人の視点でこれを批判することにたいして意義があるとは思えない。むしろそれが起った時代背景や内外の情勢を調べ、必然的事象と偶然的事象を見極め、それらが時を経ていかに絡み合い、影響しあったかを研究、考察して、今後の教訓とすることがより重要ではないだろうか。それが一流の学者のすることだと筆者は思う。

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