<連載小説>
(16) 廟堂の虜 黒田清隆率いる朝鮮使節団は明治8年12月末から動き出し、交渉は翌年2月までつづいて、2月26日にようやく日朝修好条規が調印された。この頃までには木戸の病気も快方にむかい、外出もできるようになっていた。木戸は3月初めに伊藤博文を訪れて、朝鮮問題がひとまずかたづいたので、昨年来の内閣諸卿分離の件を早急に実行するべきであるとの意見を述べて、大阪会議での約束が反故にならないように大久保をけん制した。しかし、大久保は伊藤から木戸の意見を聞いても、「考えてみよう」と言うだけで、いっこうに実行する様子はなかった。元老院の規定も改訂されており、木戸の宿願である立憲体制への準備も事実上凍結されていた。政治は以前どおり大久保のペースで動きだしており、そうである以上、もはや木戸にはするべきこともなかった。京都の地で隠棲する願望が再び大きくなり、政府が安定してきたころを見計らって改めて辞表を提出した。 井上は朝鮮から帰国早々、木戸から辞職の願いが達せられるように周旋を頼まれ、どうしたものか苦慮していた。木戸の気持ちには少なからぬ同情を寄せてはいたが、彼が今、下野することによって政府に与える影響の大きさを考えれば、もろ手をあげて賛成するわけにもいかなかったのだ。一方、伊藤のほうは木戸の隠退を大久保がけっして認めるはずもないことを知っていたし、かといって木戸の大久保を忌避する思いは強まりこそすれ、弱まることは期待できまいとも思って、井上と同じように思案にくれていた。二人とも木戸のぎりぎりの忍耐が切れることを怖れていたので、腫物に触るような思いで木戸を扱わねばならなかった。 伊藤と井上はそれぞれ別の日に大久保邸を訪れて、木戸の様子を伝えて相談した。彼の辞意は昨秋とまったく変わらず、両者とも参議の辞職は認めてやるよりほかないという意見で、大久保も「やむをえまい」と同意せざるを得なかった。問題はどうやって木戸を政府にとどめるべきかだが、今回はそうとう慎重にことを運ばないと、この西方(京都)を恋う鳥は政府という駕籠の中で狂乱しかねない。大久保は熟慮のうえ、木戸に手紙を送って、いずれかの邸での会談を乞うた。できれば誰にもじゃまされないように、夜間にお逢いしたいという希望を手紙で述べておいた。 大久保の手紙を読んだ木戸は、逢わねばなるまい、と思った。そして、これを最後にしたい、いかなる甘言にも、もはやけっして惑わされるまいと、全身を決意の鎧でかためて、3月下旬のある夜、木戸は私邸に大久保利通をむかえた。さすがに相手の邸に赴く気にはなれなかったのだ。 「ああ、これがかの有名な水晶瓶ですか?」 応接室に入るなり、いきなり大久保は花台に飾られていた美しい彫刻を施した大瓶を見て言った。この水晶瓶は骨董収集家には垂涎の的で、木戸も誰彼に話して随分と自慢にしていたのを客は知っていたのだ。古書画、古器物の鑑賞は最近における木戸の唯一の娯楽であった。 「えっ、ええ」大久保が気づいたことを意外に思いながら、木戸は答えた。 「本当に立派ですねぇ。あなたはよほど芸術的なものがお好きなようだ。私の囲碁一点張りとはちがって、高尚な趣味をもっておられる」 「あいにく花を切らしてしまいまして――それよりも、大久保さん、私の辞表のことは聞いていらっしゃいますよね」 「ええ、聞いております」 まあ、どうぞお座りください、と言って木戸が椅子をすすめると、大久保はゆったりと気持ちの良いソファーに腰をおろした。木戸も客の向かい側に座ると、まもなく松子がコーヒーを持って入ってきた。客はなにか松子にご愛想を言い、松子も笑顔で受けると、話のじゃまにならないようにすぐに盆をもって退出した。お酒のほうがよかったですか、と木戸が気を遣って聞くと、いや、今夜は遠慮しておきましょう、と客が答えたので、さっそく本題に入った。 「話は辞表のことなのでしょう?」 木戸の早急な問いに、大久保は正直に、 「そうです」と答えた。 「昨秋以来、私の気持ちは変りません。あなたにもそれは、おわかりになっているはずです」木戸の頑なな態度に、大久保はすこし間をおいてから、 「そんなに防備を固められては、どうも話がしにくいですね」 「引き止めても無駄です。どうかもう、私のことは諦めてください」 まるで取りつく島もなかった。大久保はコーヒーカップを取って、一口コーヒーを啜った。 「いい匂いだ。使節団の旅を思い出しますね」 そう言われても、木戸にとっては思い出したくもない旅だったので、返事もしなかった。客はコーヒーカップをテーブルにもどすと、両手を組んでじっとこの家の主人を見た。相手は視線を下に向けたまま、客のほうを見もしなかった。 「木戸さん、私はあなたに辞表を撤回してもらいたいのです。どうしても政府にとどまっていただきたい。それにはどうしたらよいか考えました。それで、結論はこうです」 木戸は初めて顔をあげて相手を見た。大久保は木戸が次の言葉を待っている様子をみてとってから、ゆっくりと言った。 「私が潔く身を引くべきではないかと――」 木戸の眼には驚きの色があらわれていた。その驚きの眼で相手を見つめたまま、しばらく口を開かなかった。やがて、彼の口元にうっすらと笑みが浮んだ。 「大久保さん。あなたはずるい人だ」 ずるいと言われた客は黙って、相手の反応を窺っているようだった。木戸は言葉を続けた。 「確かに私とあなたはなかなか意見が合わない。しかし、この国を西欧列強から守り、政治を安定させ、近代化を進めていくという点では同じ思いを共有しています。つまり、二度と武家支配の封建体制に戻してはならない、ということです。ところが我々はまだ日本中に敵を抱えています。未だ刀を捨てきれず、昔の武士の身分に誇りと郷愁を抱いている者たちは、国家の土台もしっかり築かずに急進的にうわべだけの改革を進めようとする徒と同じように厄介です。現在もわが政府は四面楚歌の状況から脱却できずにおります。その最大の原因がどこにあるか、あなたにはおわかりのはずだ。その問題を解決する責任があなたにはある。それに――」 木戸はそこで言葉を切り、ためらうように眼を伏せたが、すぐにまた思い切ったように話しだした。 「あなたがいなければ、この政府はもたない。いろいろ不満はあっても、私はあなたの政治家としての力量を、その決断力を誰よりも高く評価しております。あなたが廟堂にしっかり腰をすえて責任を全うしておられるから、私も安心して政府を離れることができる。今まで、この嵐の海に浮ぶ小船のように大揺れに揺れる政府が、なんとか倒壊せずに存続できたのも、あなたのお力の大きかったことを、私は率直に認めます」 「……」 「どうです、満足ですか。あなたは私にこれを言わせたかったのでしょう?」 皮肉な笑みを浮かべて、木戸は再び相手に視線をもどした。 「あなたが今言われたことの大半は、そっくりあなたにお返ししましょう」 今度は大久保が口をひらいて話しはじめた。 「この政府を支えているのは、私だけではありません。特にあなたも、です。私だけではとても支えきれるものではない。私はかなり大勢の人たちの怨嗟の対象になっていますからね。あなたがいなければ、その印象を緩和することができません。それに政治家として、あなたを畏敬申し上げていると、以前にお話したことはけっして偽りではないのです。確かにあなたには先見の明がおありになる。戊辰戦争がまだ終わらない前に、あなたは版籍奉還を提案して、三条、岩倉両大臣を慌てさせました。あの頃と比べると、だいぶ漸進的にはなってきましたが、まだ多少急ぎ過ぎるきらいがあります。そう、今は、私の意見をかなり通させていただいておりますが、いずれあなたの望みどおり、議会を開き、立憲政体に移行していくことになるでしょう。私の政体構想もあなたの意見を反映しておりますよ。ですから、どうか、もう少し辛抱強くお待ちいただきたいのです」 「もう少しって、いったいいつまで待てばよいのですか?」 「先ほどあなたが暗示されたように、鹿児島の問題がまだ解決されておりません。私に責任があるとおっしゃったのはそのことでしょう?」 「では、あなたもわかっていらっしゃるのですね。いつまでも鹿児島だけにあんな特権を与えていては、将来に禍根を残すどころか、現政府の運命も左右しかねない、と。我々が徳川幕府を倒したのは、けっして毛利政権を作るためではなく、山口に特別な利益をもたらすためでもなかった。そのために、かえって一部の同郷人から恨まれてもおりますが。少なくとも山口は他県となんら変るところはない。しかるに鹿児島は――」 「ええ、私も日本のなかにああした独立国があってはならないと思っています。いずれなんとかしなければならないと――それまでは議会も開設するべきではなく、政府が強力でなければならないのです。言論も多少は制限しなければなりません。未だ欧化主義に反対し、旧体制にもどそうとする勢力がある以上、すべてを自由にしたら敵に塩を送るようなものですからね。今はまだそんな段階ではない。それに山口でもなにやら不穏な動きがあるようですし――」 木戸ははっと顔色を変えた。そして、声を低めて、 「前原一誠のことですか」 「いろいろと噂が耳に入っております」 木戸は疑りぶかい眼で大久保を見た。 「大久保さん、山口のことは私が考えておりますので、事が深刻になるまでは、けっして手出しをしないでいただきたい」 「わかっております。あなたが援助を必要とするときまで、じっと控えておりますよ」 「……」 「同様に、鹿児島については、私もひとりで対処するのは気が重い。私にはあなたの支援がどうしても必要です。そのことはお察しいただけると思いますが」 「西郷との関係は同情しないでもありません」 「私たちはやはり、お互いを必要としている。今はとても袂を分かつことはできない情勢ではないでしょうか」 「あなたは本当にずるい人だ、大久保さん。身を引くといって、私を脅迫する。西国に乱が起こるといって、私を恐れさせる。将来、立憲政体を実現させるといって、私を引きつけようとする。私はどこにも飛び立つことができないのですか。あなたは私を廟堂の虜にするつもりなのか」 「なんと思おうと、私はあなたを放すわけにはいかないのです。すべては国のため、日本の将来のためです、木戸さん」 「では、いつまで、いつまで私は東京に、政府にとどまらなければならないのですか」 「国が我々を必要とするかぎり。もう後進に道を譲っても、この国はだいじょうぶだ、と確信できるまで。そのとき、我々はともに一切の公職を辞しましょう。辞めるときはいっしょですよ」 木戸はもう諦めの表情で、 「では、せめて参議の職だけはご免こうむりたい。せめてあなたが私の病身を憐れむお気持ちがおありなら」 「わかりました。参議の辞職はあなたのご希望に添いましょう。ご安心ください。私もあなたに無理をおさせするつもりはありません。なにか常勤しなくてもよい職を考えておきましょう。あなたが政府にとどまる約束を違わなければ」 木戸は黙って手を伸ばして、冷めたコーヒーを啜った。もはや大久保に抵抗する意欲もわいてこなかった。風が庭の木々を揺らして通りすぎる音がして、部屋の灯火が微かに揺れた。どうやら窓からすきま風が入ってくるようだった。 「では、私はこれで失礼しよう。あまり遅くなっては、病み上りのあなたのお身体にも障りましょう。どうです。夜はぐっすりお休みになれますか」 「ええ、この頃は脳痛もすこしおさまっているようです」 「それはなによりです。そのまま快癒されると安心ですが」 「私の持病はそう簡単には治らないでしょう」 木戸は弱々しく、口元だけで微笑んだ。大久保が立ち上がって、ドアのほうに歩きかけたとき、「大久保さん」と、木戸が呼び止めた。相手は振り返って見た。 「どうやら私はもう、長くはないような気がするのです」 「なにをおっしゃるのです、弱気なことを」 「いえ、万が一ということもありますし……ですから、鹿児島のことは早く対処なさったほうがよろしいかもしれません。不平士族が決起して、鹿児島を、西郷を巻き込む可能性もありますからね。どうせ戦となるなら、私が生きている間にはじめたほうが、あなたにとってはやりやすいでしょう」 「木戸さん……」 大久保はもどって相手の眼を覗き込んだ。その眼は深い哀しみの色を湛え、うっすらと涙が滲んでいた。 |