<連載小説>
(17) うたかた 鷲津毅堂(わしづきどう) 尾張丹波の出身で、代々儒家。日本学士院会員、司法権大書記官。小説家永井荷風は毅堂の孫にあたる。 小永井小舟(こながいしょうしゅう) 尾張侯の明倫堂・教頭。のちに転居した浅草新堀で濠西塾を興す。万延元年には幕府の国信使の随員として咸臨丸で渡米した。 市川万庵(いちかわばんあん) 書家米庵の子。明治三年大蔵省の命を受け、新製する紙幣の文字を書いた。篆刻、点茶、弾琴の名手。 川上冬崖(かわかみとうがい) 信州の人。日本における洋画開祖のひとりで、第一回勧業博覧会の審査主任を務め、文人画も能くした。 そして、奥原晴湖はただひとりの女性として社中に加わった。文芸界のそうそうたる大家にまじって、晴湖の南画家としての地位も不動になりつつあったが、彼女は自己の立場に満足せず、常に学ぶ人だった。前時代的とすこし軽んじていた安田老山の画法が、松葉の描き方などでは伝統的な技巧に優れていることを知ると、迷わずに老山流を採りいれた。また、晴湖に弟子入りした菅原白竜についても、その軽妙な筆法にかえって学んでいたという。 昭和初期に奥原晴湖について徳富蘇峰が評した新聞記事がある。それを抜粋してみると、 「本文の記者が、まだ十歳に達せぬか否かの頃、日本の西端である九州の片田舎において、すでに東海晴湖の名を聞いていた。(略)記者が明治九年、また明治十三年東京にありし頃、絵画界における奥原晴湖の名は、世間に轟いていた。どこにおいても晴湖の額ならざれば、晴湖の幅があった。而していずれも傍若無人の、疎枝大葉の達筆もて書きなぐりたるものであった」また、 「世間では晴湖をもって野口小蘋と対照す。されど記者はむしろ富岡鉄斎と比較するをもってより妥当であろうと思う」とも述べ、さらに、 「予は彼女の覇気満々たる明治上半期の作を愛す。吾人は維新興国の気分をこの書中に看取する。彼女は一生不犯(?)の老嬢として暮した。木戸松菊の眷顧(けんこ)に浴し、傍人には松菊と特殊の関係ありとさへ猜せられたに拘らず」 「そは兎も角も彼女は維新の諸豪と几席の間に、相ひ周旋して決してひけを取らぬ女性であった。彼女曰く、木戸の智、五代の略、而して叩頭禁じ難きは、鍋島閑叟公のみと。記者はつひに彼女の山内容堂公に対する品評を聞き漏らした」 晴湖に関する興味深い逸話もかなりあるが、ここらへんで話の本筋にもどったほうがよさそうである。明治8年の秋は晴湖にとって忘れられない季節になった。季節というよりも、あの日、あの時、限られた時間といったほうが良いかもしれない。それは突然訪れた静かな嵐だった。諦めようとした恋がまた新たな熱をもって燃え上がるのを、抑制することはもはや彼女にはできなかった。だが、松菊があの晩正気だったのか、晴湖には確信が持てない。いや正気でなくてもいい。もし彼の身体が健康で、自由に動いたのならば、おそらく晴湖は彼の手をとって二度ともどらぬ旅へと誘っただろう。翌朝、馬車を呼んで木戸を自宅に送り返したりなどしなかったはずなのだ。 しかし、気持ちを落ちつけて振りかえれば、すべてが夢であったような気もする。夢のつづきはもう見るはずはなく、木戸孝允が木戸孝允でなくなることは現在、将来においてもけっしてあり得ない。少なくとも政府の中枢にいる者たちは、たとえ木戸をどこに隠そうとも、国の威信をかけて彼を探し出そうとするだろう。晴湖は絶望的にそんな結論に達するのだが、そう思うことすら現実的ではなかった。この恋は八方塞で、どの方向にも前進することができない以上、動かぬ時のなかで自ら消滅していくしかない、やはりうたかたの一夜の夢なのだ。そう思わなければ、晴湖は自分の燃えあがる情熱を醒せそうもなかった。 「おい、どうした晴湖。この頃ずいぶん、ぼんやりしているようだが」 ある雅会の席で、大沼沈山が沈黙しがちな晴湖を気遣って話しかけた。 「えっ。ああ、そうでしょうか」 ぎこちない返事をする晴湖に、 「なんだか気もそぞろだな。心配事でもあるのか。金のことではなかろうが」 「いえ、ええ、実はそうなんですよ。美男の役者さんにすっかり貢いじゃって、借金までこさえてしまって――」 大沼はいつになく鋭い眼差しで相手を見すえた。 「晴湖らしくないへたな冗談を言うね。わしは古河で漢詩を教えていたころから君を知っているんだ。生意気盛りの娘のころからね」 「……」 「いったい何があったのだ」 そう問われても晴湖は沈黙したまま返事をしない。大沼はなお晴湖を直視して、 「松菊のことか?」 晴湖は伏せていた眼をあげて、蒼白な面を相手にみせた。 「そうだな。わしはうすうす気づいていたよ。あの人にたいする君の気持ちをね。長い付き合いだから、君の気持ちの変化なぞすぐにわかるのさ」 「……」 「だがな、酷なようだが、あの人のことは諦めたほうがいい。どうにもならぬじゃないか」 「先生――」 「わかるだろう。わしの言っている意味が」 「……」 「君が傷ついて、ぼろぼろになるぞ」 晴湖は言葉を発せず、眼に涙をいっぱいに溜めていた。やがてその涙が両眼からあふれ出はじめると、「先生!」と叫んで畳に突っ伏し、わっと声をあげて泣きだした。隣室で揮毫をしていた文人仲間たちが、驚いたように振りかえって晴湖を見た。 (18) 果てなき攻防 実は、木戸は消極的ながらも内閣顧問を受けたころから、海外渡航を企てていた。このままでは大久保の術中に嵌っていくよりほかないという焦りから、この計画を思いついたらしく、井上や伊藤にその周旋を頼んでいた。日本にいるかぎり、とても隠棲などさせてもらえない。海外に出れば、大久保もそう簡単に追っかけてはこれまい。おとなしく大久保の言いなりになるのは、なんとも口惜しかったのだ。 この件について井上らは三条実美に相談して、視察という名目で同意を得ることに成功していた。ただ、井上も木戸をひとりで外遊させることには不安があったらしく、夫人の松子に同行をすすめたところ、松子は大いに乗り気のようすだった。井上の話を松子から手紙で知らされた木戸は、少々照れくさくはあったが、西洋流もいいだろうと考えて妻を同伴することにした。政府が許可してくれるかどうか、まだわからなかったが、松子はいちおうしたくだけはしておきたいといって、東北にいる木戸にさらに手紙で衣装代などの相談をしたりしている。ふたりともひと時のあいだ、夫婦そろっての海外渡航を夢見ていたのだ。 奥羽巡行中に木戸から外遊願いを聞き、三条も承諾済みであることを知らされた岩倉は眉間にしわを寄せて、ただ渋い顔をするばかりだった。冗談ではない。木戸は政府の中にいてこそ世間体も保てるというものなのだ。海外なぞに行かれては、木戸を引き止めて内閣顧問にした意味がなくなるではないか。第一、大久保が許すはずがなかろう。まったく三条大臣は木戸に甘くて困る――。口にこそ出さなかったが、岩倉の思いはまずそんなところだっただろう。 もちろん大久保にとって、木戸の外遊など考慮の対象外だった。彼は木戸をいつも自分の眼のとどくところに置いておきたかったのだ。木戸が突然、失踪するのではないかという懸念を、大久保は拭い去ることができなかった。それで木戸の姿を、というよりは彼の心を監視することを、常に怠らなかった。 結局、8月始めに木戸の洋行は不許可となった。それと同時に、彼をさらに政府に繋ぎとめるためか、宮内省出仕の勅諚が下った。 夫婦で渡航の夢がついえ去ると、木戸は8月中旬には静養を理由に松子とともに東京を発って箱根に向った。ちょうど皇后陛下が8月下旬に避暑のため、箱根の宮の下を訪れたので、木戸がご機嫌伺いにゆくと、後日、今度は皇后が木戸の旅館を訪ねてきて、木戸夫妻にお菓子を下された。その後、宮城野に出かけて漁猟を見学し、やもめが多く網にはいると、これも木戸夫妻と杉孫七郎(宮内少輔)に下された。その日の夕方、木戸はお礼を言いに再び宮の下へ皇后を訪ねると、御前で酒肴を賜わった。 このように、木戸に対する皇室の処遇は実に丁寧をきわめた。天皇家の木戸に対する特別な信任もあったが、その後ろには大久保や岩倉の影がちらつく。 現政府から逃れたいという木戸の内心の思いは、しだいに死地に赴こうとする行動へと転じていった。10月に熊本で神風連の乱、ついで秋月の乱が起こると、木戸は現地に赴いて、自らこれを鎮圧することを三条、岩倉両大臣に願い出た。さらに前原一誠を首領とする萩の乱がつづくと、改めて手紙で出張の許可をしつように求めたのである。だが木戸の希望が容れられることはなかった。どの乱も計画が拙劣で、政府軍によってあっけなく鎮圧されてしまったのだが、大久保は早い時期に反乱軍の規模が意外に小さいという情報を得ており、大事にはいたらないことを予想していた。重要なことは東京政府の体制をしっかり固めてくずさないことだった。もとより木戸の単独行動など認めるつもりはなかった。 大久保が唯一、士族の反乱を恐れていたのは、郷里鹿児島の決起だっただろう。西郷が起つかどうかはともかく、近い将来、同地に反乱が起こり得ることを彼は敏感に予測していた。木戸の最大の不満は鹿児島県の特別扱いだったから、大久保もそこを責められると、なかなか弁解も難しかったのだ。鹿児島では廃刀令も地租改正も実施されずに、依然として西郷隆盛が創設した私学校党が県を支配していた。木戸の忍耐が限界に達しないように、なんとか彼を慰撫して、政府から離れようとする試みを断念させなければならなかった。こうした木戸と大久保の「果てなき攻防」は、翌明治10年2月に西南戦争が勃発するまで続いてゆくのである。 思い出すたびに彼女は自分の頬が熱くなるのを感じた。人前で号泣するなど奥原晴湖一生の不覚だった、といまさら悔いても仕方のないことだ。それにしても大沼先生をはじめとして、文人仲間たちはみなやさしかった。好奇心を眼に表しながらも、あえて問いかけもしないで、自分をそっとしておいてくれたのだ。もちろん大沼先生が目配せをして、その場をうまく取り繕ってくれたのだろう。あれから、すぐに中座してしまったのだから、あとのことはどうなったのか晴湖にはわからない。自分の話題でもちきりになったのか、淡々と寄書きをつづけたのか――。 それはともかく、号泣したおかげで晴湖はかえって気持ちがおちついた。ふっきれたとまではいかなくても、すこし冷静になって現状を考えるようになったのだ。自分よりも今、木戸がもっとも苦しい立場にあることに、彼女は思い至った。政府では自分の意見がまったく通らないのに、その地位に留まることを強いられているのだから、木戸のような政治家にとってはまったく地獄だろう。無為に高位高官にとどまって公給を貰うことを潔しとしない、木戸孝允とはそういう人物なのだ。今すぐにでも身を引きたいという思いはまさに切実であろう。 そんな彼を救ってあげることも自分にはできない。この恋が木戸を幸福にするどころか、むしろ破滅させかねないことを、晴湖は十分に意識していた。彼女の恋の相手はただの男ではない。彼の存在自体が明治政府の安定に不可欠であることは、誰よりも大久保内務卿が感じているはずなのだ。だからこそ、内務卿はけっして木戸を放しはしない。隠退を許して、在野の野心家や狼どもの餌食にすることなどあり得ない。そして、大久保とは政府そのものであり、彼に抗えるような政治家など太政官にひとりもいやしない。黒田清隆はもちろん、伊藤博文も、大隈重信も、参議以下みな大久保卿にひれ伏しているではないか。そんな中で木戸はひとり孤立し、逃れられないまま戦っているのだ。おそらくは、私の恋の苦しみなど比ぶべくもない修羅場だろう。 今、私にできることはじっと彼を見守ることしかない。そして彼が自分を必要としたときに、精いっぱい応えてやること。彼の望むとおりにしてあげることだけだ。それ以外に、私が木戸孝允の世界に入り込む余地などありはしない。国家の安定のために、と内務卿が木戸を口説けば、一私人にすぎない女画家はだまって引き下がるしかないのだ。 書斎で墨を磨りながら、晴湖はその墨の匂いによって、なお湧き上がる自分の情念を鎮めるかのように、ふと手をとめ、呟いた。無心になって新しい絵を描こう。 |