[小説・木戸孝允]

明治六年秋

(十) 憂鬱なる日々−小野組転籍事件

(その1)

 八月末に馬車から落ちる事故にあって以来、木戸は突発的に起こる頭痛に悩まされていた。ホフマンや長與専斎などの医師が毎日のように来診していたが、自宅には他の来客も絶えず、静養もままならなかった。山県有朋、鳥尾小弥太、山田顕義など長州派の武官や井上馨、杉孫七郎、山尾庸三などの文官、長州人以外でも渋沢栄一、福沢諭吉、陸奥宗光、中島信行など反征韓の立場にたつ者たちもしばしば木戸邸を訪れていた。
 そうした者たちに加えて、木戸邸の訪問者のリストには木村源蔵、槇村正直、谷口起孝、山本覚馬という名がみられた。彼らは東京在住者ではなく、当時は京都に住んでいた。つまり、京都からわざわざ来訪していたことになる。彼らの身分を明かせば、槇村は京都府参事、木村は京都府権典事、谷口は京都府七等出仕、そして山本は京都府顧問である。京都府の要職にある者たちが同時期にそろって京都をはなれ、東京に集まっているのはただごとではない。なかでも木村源蔵は頻繁に木戸邸を訪れており、朝鮮使節派遣をめぐる閣議が開かれた十月十四日にも訪ねていた。
 国家の一大事が決せられようとしている時期に、木戸はまったく別の問題に悩まされていた。京都府と、司法省が後ろ盾となっている京都裁判所の間に紛争が生じていたのだ。その紛争の中心人物になっていたのが槇村(半九郎)だった。当時の京都府知事は公卿出身の長谷信篤だったが、実権は参事の槇村が握っていた。槇村は長門国美祢郡に生まれ、木戸より一歳下の長州人。木戸の推挙により明治元年に京都府に出仕、以後京都府権弁事、京都府権大参事、京都府参事と順調に昇進してきた。

 幕末の戦乱で京都は焼け野原となり、さらに東京遷都によって衰亡の危機に直面した。槇村は荒廃した京都の復興に全力をそそぎ、豪腕をふるってきた。その槇村を陰の軍師として補佐した重要な人物がいた。旧会津藩士・山本覚馬(かくま)である。彼が明治新政府に差し出した建白書『管見』には、議事院(二院制)の設置、人材育成、殖産振興、佩刀の廃止、女子教育の必要性、二十四時間制、太陽暦の採用などが盛り込まれており、その豊かな学識と開明的な思想は注目に値した。会津人にも徳川幕府一辺倒ではなく、近代日本の青写真を描いていた人物がいたのである。
 この『管見』を読んで感心した京都府大参事河田佐久馬が、明治三年、山本を京都府に顧問として招いた。以後、大参事を継いだ槇村が山本と二人三脚で京都府政を主導してきた。その山本覚馬が木戸邸を初めて訪れたのは八月末だった。山本は一見おだやかな表情をしていた。前髪を後ろに梳き上げているので、露わな額は広く見えるが、鼻梁は女性のように細く、白髪まじりのあご鬚もこじんまりとして上品な印象を与えた。
「東京政府においては、ただ今容易ならぬ事態が生じていることは存じております」
 山本はすわり心地のよさそうな肘掛椅子にやや浅く腰をおろして、両手で杖の柄を握っていた。両眼を閉じているのは盲目だからである。彼は維新前の内戦で目を負傷し、鳥羽・伏見の戦闘中に薩摩軍に捕らえられたときには、ほとんど視力を失っていた。そのため捕虜となっても丁重に遇され、その見識の豊かさに敬意を払われもした。失明したことが、かえって彼を生かすことになったのかもしれない。

「そんな大変な時期に、まことに恐縮の至りではありますが、京都府もまた容易ならぬ事態に陥っておりまして、ぜひともお力添えを願いたいのです」
「私のほうこそ、半九郎のためにわざわざ東京までご足労いただき、申し訳なく思っております」
 五歳年上の相手をいたわるように、木戸はやや憂いをおびた声で答えた。「それにしても」と彼はすぐに言葉を継ぎ、
「司法省のやり方もずいぶん性急ですし、あまりに強権的ではありませんか」
「まったく同感ですな。京都府の庶務課長をつとめる関谷生三なぞは、先月、京都裁判所に呼び出されたその日に拘留されてしまい、いまだに戻ってこないのです。実に乱暴な仕業と言わねばなりません。このままでは槇村参事も危ないものです」
「彼はあのとおりの性格ですから、それが災いしているのかもしれません」
 やり手ではあるが、傲岸不遜なところがある槇村を、木戸は心配していた。

「木戸さん、槇村参事はいまの京都府には必要な人物です。ようやく近代化の端緒をつけたばかりですから、彼がいなくなれば鉄道建設など、諸々の改革計画は大幅に後退するでしょう。実際、小野組の転籍は京都府にとっては大きな痛手ですが、すでにこれを認めて、転籍の手続きを済ませているのです。このうえ『違式令の罪』(法令違反)などとして、強引に司法権を行使して槇村らを裁く必要がどこにあるのでしょうか」
「それは新制度で裁判の実績を積む必要があるからでしょう。とにかく我々が留守中に改正された法制度ですからね。既成事実化することが目的なのです。しかし、できてしまった以上、我々も法律は守らなければならない。まことにやっかいです」
 ワイングラスをかたむけながら、木戸はひとつ大きなため息をついた。ふたりが話題にしている小野組転籍事件は、この年(明治六年)四月八日に京都の豪商「小野組」が京都府庁へ転籍願いを出したことに端を発している。小野組は慶応三年(1867)の王政復古以来、三井組、島田組とともに朝廷に多額の献金をして新政府の財政を支えてきた。そのため国庫金を無利子で運用できる特権を得ていた。当時、用達商人が新規に金銭取扱をはじめる場合、そのつど戸籍謄本を必要とした。しかし、いちいち京都から取り寄せていたのでは業務に支障をきたすという理由で、七代目小野善助が総支配人小野善右衛門(西村勘六)と連名で東京への転籍を、大阪と神戸店の支配人小野助次郎が神戸への転籍を願い出たのである。だが京都府庁は資金調達や財政の悪化をおそれてなかなか許可しなかった。さらに、善右衛門と助次郎を白州に呼び入れ、粗むしろの上にすわらせて、転籍の理由を尋問し、その中止を強要した。

 これに怒った小野組は府庁を相手どって京都裁判所に訴訟を提起したのである。京都裁判所を管轄する司法省は明治四年七月に新設された。明治五年四月に司法卿となった江藤新平は司法改革を推し進めるため、全国に裁判所を設けて地方官から裁判権を接収することを決定した。十一月の司法省布達第五十六号には、「各人民この地よりかの地へ移住し、あるいはこの地よりかの地へ往来するなど人民の権利を妨げる時は、各人民よりその地方の裁判所または司法省裁判所へ訴訟苦しからざること」という一文があった。小野組の訴状はこの条文に基づいて提出されたのである。

 槇村は古都復興のため、東京遷都を受け入れるかわりに、新政府から二十五万両(十万両は返金無用の下賜金)もの資金を獲得することに成功した。さらに富裕層から寄付金を募り、明治二年五月には日本で最初の小学校を開校。中学校、洋学校、盲亞院、女紅場(女学校)もあいついで開校された。また産業基金から需要激減で衰退していた西陣各社に融資をし、さらに舎密局(化学関係)、製革場、勧業場、牧畜場、養蚕場、製靴場、製紙場などを次々に開設して、京都の近代化を積極的に推進した。
 その矢先であったから、槇村は小野組の転籍をなんとしても阻止したかったのだろう。それでなくても太政官の東京移転にともない、大勢の豪商たちが新都に移ってしまったため京都の人口は激減していた。小野組は多額の公納金の負担からのがれるために転籍を望んだという面もあっただろうが、やはり発展する新都東京で手びろく商売をやりたいという思いが強かったのだとおもわれる。

 六月十五日、京都裁判所長北畠治房は「原告素願のとおりなすべき旨、裁判(判決)におよび候条、至急送籍これ有べくこの段あい達し候也」と申し渡した。
 これに対して京都府は「小野善助送籍の事については、願い出に疑惑があるので目下検討中である旨を、谷口七等出仕をもってご説明申し上げたにもかかわらず、その義に反する裁判には承服致しがたく、よって執行におよばず」と返書し、「送籍の許否は行政の権内に在り、司法の関与すべき限りにあらず」と主張した。

 六月二十三日、京都裁判所は「裁判に不服なら司法裁判所に上告するがよい。そうしないなら請書(承服状)を出すべし」と通告した。
 だが府側は上告もせず、請書も提出しなかった。裁判所側はこれを法廷侮辱ととらえ、「違式令違反」と判断した。したがって七月二十九日、長谷信篤府知事の名代を呼び出し、次のような命令を下した。
「上告もせず、請書も出さざる科は、違令律条例の違式重に擬し、笞二十(懲役二十日)とすべきだが、官吏私罪贖令に照らして、贖金八円を申しつける。五日以内に差し出すべし」

 八月五日には槇村正直府参事の名代を呼び出し、同様の命令(贖金は六円)を下した。しかし両者とも五日以内に贖金を納めず、「ただ今、太政官へ伺い中につき、請書を提出することはできない」と返答した。
 京都裁判所から呼出状が届いたとき、長谷知事は少なからぬ衝撃をうけた。判決拒否によって罰せられるとは予想しなかったのだろう。当時の司法大輔福岡孝弟は、「人民ならば即時に処分できるが、勅奏官にかかわる事なので、口供を用いずに直ちに処分してよろしいか、それとも法律により一応推問を経て、口供結果(自白)をもって罪を科すべきでしょうか」と太政官正院に問い合わせた。参議の江藤新平は「口供結果案を待つにおよばず。各人民現行犯罪の例をもってたちどころに罪を科すべし」と意見を述べ、そのように決定された。これは天皇の裁可を受けた特命であった。

 長谷は怖気づいたが、槇村は強気だった。太政官に直接訴えましょう、と長谷に決断を促した。だがその太政官の参議は現在、西郷(薩摩)を除けば土佐二名(板垣、後藤)、肥前三名(大隈、江藤、大木)からなり、長州人はひとりもいない。西郷は病欠が多いうえに遣韓使節のことのみに夢中であり、三条はほとんど議長職に祭り上げられている。司法省も土佐、肥前出身者が多く、京都府の主張が受け入れられる見込みはほとんどなかった。みな薩長藩閥政治に不満をもっており、とくに江藤は自分の作った法律によって狡猾な長州人を懲らし、さらに愚鈍な薩摩人をも一掃して、自らの国家構想を実現させたいという野心をもっていた。司法省は警察権をも握っていたから、長谷が怖気づいたのも無理はなかった。
 それでも槇村は長谷を説得し、谷口を上京させて、七月二十二日、正院に「とかく京都裁判所は公権を口にしながら、私意をたくましくしており、その専横は目にあまるものがあります」などと、裁判所の非を訴える陳情書を提出した。
「もうすぐ木戸参議が帰国するではありませんか。それまでの辛抱です」
 槇村はそう言って長谷知事を励ました。ことは民事から刑事裁判に変わっており、両人とも木戸の帰国を一日千秋の思いで待っていたのだろう。

(その2)

 京都裁判所は明治五年十月に開設されている。だが、その開設について、太政官から府庁への事前通達がなかったことから、槇村は「確認がとれるまでは事務の引継ぎはできない」といって拒んだ。その後、府知事が太政官へ問い合わせると、「事務の引渡しをするように」との指示があったので、そのとおりに実施した。だが、事務をひきわたしたあとも、これを不満とし、「地方官として、人民の訴えを聴き、その獄を処断することができないのでは、なにをもって人民を教育し、治めるべきでしょうか」と長谷、槇村連署の上書を太政官正院へ提出した。このように府庁と裁判所には、そもそもの始まりから対立があったのである。

 司法と行政の分離はいずれ実行されるとしても、府民への負担も大きく、反対者もいるなかで改革を進めていかなければならない現状では、時期尚早と府庁側は考えていたのだろう。小野組転籍事件が起こる以前にも、二、三の事件の裁判権をめぐって京都府と裁判所のあいだで紛争が生じていた。そして今回の事件でも、槇村は裁判所の呼出しには応ぜず、さっさと旅行にいってしまうような態度をみせたことから、北畠裁判所長を憤激させることになった。彼が司法大輔へ提出した上申書がある。

「槇村正直の法権を侮辱する態度はこのうえなくはなはだしく、朝憲は立つところがありません。ここにおいて治房は切歯扼腕に堪えられず。よって信篤、正直を当法廷に呼び出し、徹底的に糾問して、もしその実を陳述せずに、答弁において傲慢なところがあれば、直ちに監倉に拘留する権を、当裁判所にしばらくご委任いただきたく、懇願申し上げます」

 いっぽう槇村は「こちらの事情を太政官において直接ご説明したい」として、上京願いを提出するのだが、太政官はこれを許可しなかった。ここにおいて京都府側は危険を感じて、「太政官へ伺い中ではあるが、御朱書(指令)の次第もあるので納付する」といって請書と贖罪金を納付した。裁判所は「贖罪金は預かりおくが御朱書とはなにごとか。京都裁判所の判決に従ったのではないということか。その弁明がなければ拒刑(法令違反)の罪は免れがたい」と言いはなち、両者はともに譲らぬ状況となった。もはや槇村らが東京で裁判の被告人になることは時間の問題だった。
 一刻もはやく木戸参議と逢わねばならぬ。木戸がすでに帰国していたことを知っていたので、槇村は私的に京都を発ち、ひそかに東京へむかった。彼が木戸と逢い、この事件に関して詳しく報告したのは八月二十日のことで、その後、長谷府知事の特命をうけて山本も上京してきたのである。

「司法省は彼を裁判にかけるつもりでしょうか」
 手にした赤ワインの色をぼんやりながめながら、木戸が思案げにつぶやく。
「どうも、槇村の猪武者ぶりは改革を推進するうえでは役にも立つが、こうした裁判沙汰では敵の恰好の攻撃対象にもなる。とくにあの大口――言葉遣いには気をつけろ、と注意はしておきましたが」
「今のところ、逮捕だけは免れているようです。それもあなたの存在がかなり重石になっているからでしょう」
 山本が冷静に現状を分析して言う。たしかに木戸の帰国以来、太政官では三条ががぜん踏ん張りだしていた。長谷知事と槇村参事にたいする京都裁判所の拘留権の委任請求を、太政官正院は認めなかった。木戸の不機嫌を三条は気にしながら、なんとかこの問題を穏便に解決したいと苦慮しているようだった。しかし京都裁判所と司法省側には傲岸・無礼な槇村を懲らしめてやろう、という私情が多分に窺われ、法律を武器に逮捕も辞さずという構えをくずしてはいない。
「いずれにしても、裁判となれば最高裁の司法省裁判所になりましょう。もしこの事件がそこに持ち込まれれば、槇村らは敵陣のなかで裁かれるようなものです」
「うーん。それはまずいですね」
 木戸は左手でおもわず口をおおった。なんとかそれだけは避けねばならぬ、という思いは木戸も山本も変わらなかった。

 ほかには臨時裁判所があり、そこでは国家の大事に関する事件と裁判官の犯罪を扱い、臨時判事が審理することになっている。明治六年五月に、この臨時裁判所に関して、「およそ裁判上の重大な訴獄は内閣において審議し、内閣議官(参議)が臨時裁判所へ出席して監視できる」という規則が新たに追加された。これは江藤新平の提案であった。つまり行政が司法に介入できる道を開いたことになる。これについて疑問を投げかけた者もいたが、江藤の巧みな弁論ですんなり決まってしまった。のちにこの一条は江藤自身にとって命取りとなるのだが、そのときには夢にも想像しなかっただろう。

 木戸邸にもどるが、京都府と京都裁判所の権限争議は臨時裁判所に持ち込んだほうが有利であるとの結論に達し、木戸と山本はその対策について話し合った。その後は朝鮮問題、台湾問題などにも触れ、朝野に高まっている好戦的なムードを互いに嘆きあったりもして、ふたりの意見は概ね一致したようだった。
「ずいぶん長居をしてしまったようです。今日はこれで失礼して、後日またお伺いしたいと存じます」
「そうですか。それで、付添いの方は?」
 木戸は立ち上がって、山本に手を差しのべるような仕草をしながらたずねた。
「妹の八重を別室に待たせております」

 まもなくして木戸家の執事が八重を客間に案内してくると、木戸ははっと目を見張った。八重は思ったよりずっと若く、顔はふっくらとしてかなり大柄な女性だった。兄の覚馬とは十八歳もはなれていたから、このときは二十七歳ぐらいだっただろうか。
「はじめまして、八重ともうします。お目にかかれて光栄でございます。木戸さまのことは槇村さまからかねがねお話を伺っております」
 そう言って、八重はていねいに辞儀をした。
「山本先生に、このようにお若い妹さんがいらっしゃったとは知りませんでした」
 なにか強い印象を受けたのか、木戸はじっと目の前の女性に見入っている。
「母親と八重、それに娘のみねが会津から京都の拙宅を尋ねてきたのは二年ほど前でした。ちょうど木戸参議が米欧視察で日本を発つころだったでしょうか」
 兄がすこし感慨深げに説明した。
「ええ、私たち、知らなかったのですよ、兄が生きていたことを。もうあの戦争で亡くなったものとばかり思って、諦めていましたので」
 兄の言葉をうけて、妹が言い添えた。
「そうでしたか。で、あの頃、あなたはどうなされていたのですか」
 好奇心にかられて、木戸が八重にきいた。
「私たち、斗南には行きませんでした。うちに奉公していたものが会津の中心よりすこし離れた山間地に住んでいましたので、その家の世話になっておりましたの。針仕事や農作業を手伝って、辛うじて生活できるだけの米や野菜は分けていただいていたのです」

 会津藩は落城後、明治二年に松平容保の子容大(かたはる)に家名再興が許され、陸奥国斗南三万石を拝領した。だが、実際には七千石にも満たない不毛の土地で、旧会津藩士と家族たちは悲惨な生活を強いられた。籠城戦では、男まさりの八重は男装して大小の刀を差し、城壁の銃眼から七連発式のスペンサー銃を発砲した。また洋学者の夫・川崎尚之助とともに大砲隊をも指揮し、断髪して夜襲隊にも加わった。彼女は少女の頃から男子のように銃に関心を示し、兄の覚馬から銃の撃ち方や大砲の操作などを教わっていた。夫の川崎は他国人だったので、降伏・開城に先立って城を出て会津を去った。川崎の将来を考えた八重の強い希望だったようだ。

 時は流れ、かつての仇敵同士が、こうしてひとつ部屋の中にいる。
「長州を恨んでおりますか?」
 八重の眼をじっと見て、木戸がきく。相手はちょっと意外な表情をしたが、すぐに、
「もう時代は変わったのです。会津も、長州もありません。そうではありませんか?」
 穏やかな微笑をたたえて答えると、
「木戸さまこそ、会津を恨んでいるのではありませんか?」
 逆に聞きかえした。木戸は相手から視線を逸らさずに、
「私もあなたと同じ気持ちですよ。長州も、会津もない。いまはみな、ひとしく皇国の民です。だからこそ兄上とも互いに協力し合って、皇国の安寧、人民の幸福のために努めているのですからね」
 木戸もまた八重に微笑をかえした。
「それにしても、あなたはどこか他の女性とは違いますね」
「他の女性とは違う? まあ、どういう意味でしょう。子供のころから男まさりのお転婆娘とは言われておりましたけれど。木戸さまは千里眼でしょうか」
 八重はほがらかに笑って言った。
「いえ、もちろん良い意味ですよ。やはり兄上の影響をうけていらっしゃるのでしょうか。どうも、うまく言えないのですが」
「私は木戸さまを、もっと恐い方かと思っておりました」
「ほう、そうですか」
「でも、想像よりよほどおやさしくて気さくなお方だと、いまわかりました。昔は勇名を馳せた江戸随一の剣客だったのでございましょう?」
「さあ――でも、なぜそれを?」
「練兵館の塾頭、桂小五郎の名は会津にも伝わってきましたもの。それに吉田松陰さまのお名も」
 木戸の顔色がさっと変わった。それをすばやく察知したのは、八重よりもむしろ盲目の兄のほうだった。
「これ八重、おしゃべりが過ぎるぞ。黙って聴いていれば、調子に乗って」
 兄の覚馬が口をはさんで、妹を叱りつけた。
「いえ、よろしいのですよ。妹さんは実に明るくて、堂々としていらっしゃるので、私は感心しているのです。八重さんなら西洋の社交界に出しても、むこうの女性にけっしてひけをとらない。これは私の直感です」
「これはおそれいります。これ、八重。木戸参議にお褒めいただいたのだから、洋学にも励まねばならぬな。もう銃などいじりまわす時代ではない。これからは女子もみな学問を身につける必要があるのだから、女子教育振興の一助になれるよういっそう努力してほしいものじゃ」
「まあ、言われなくても八重はもう、銃などいじりまわしてはおりませぬ」
 最後は山本兄妹のにぎやかな談笑で、この日の木戸・山本会談は終った。

 帰りの馬車のなかで、八重は兄に、
「木戸さまは私が他の女性とは違うとおっしゃいましたが、あの方こそ他の長州の方とはどこか違いますね」 ともらした。
「それはそうだろう。あの人は双肩に日本国の運命を担っているのだ。他の者と違うのは当然じゃ。それに後輩たちの面倒もみなければらん。しかも最近は長州人の不祥事が相ついでいるからな。病身で、大きな赤子をなん人も背負っているようなものじゃろう」
 声音にやや同情をにじませて、兄が答えた。
「ええ、そういうこともあるのかもしれませんが、なにか憂わしげな眼をしておりました。あのように高い地位にのぼりつめてもすこしも驕ったところがなく、槇村さまとは大違いですね」
「これっ、めったなことを言うものではない。我々はこれから彼を救出せねばならぬのだぞ」
「わかっておりますよ。でも、なんだかお顔色もすぐれず、お寂しそうな木戸さまのご様子が気になって――」
 縁は不思議なもので、これより一年半あまり後、木戸が間接的な仲介者となって、山本兄妹は米国から帰国して英学校の創設に奔走していた新島襄と知り合うことになる。のちに八重は新島と結婚し、自らもクリスチャンとなるのである。まさに運命的な出遭いであった。

 いっぽう、山本兄妹が去ったあとも木戸はしばらく客間にいて、ぼんやりと窓外の庭の景色を眺めていた。陽は西にかたむきはじめており、庭には百日紅の紅い花が今を盛りと咲き誇っている。すこしあけ放った窓から微風がはいりこみ、晩夏にしてはおもいのほか肌に涼しかった。窓辺に立てば緑の樹木が眼を慰めてはくれるが、彼の心はいっこうに晴れない。あらゆる問題が錯綜して脳裡をかけめぐっている。いまは、そのひとつひとつについて深く考えたくもないのだが、いずれも緊急を要する事件ばかりで、放っておくこともできない。いったいなにをしているのだ、俺は、と彼は思う。国の大事が軽々しく決定され、瑣末なことが大げさに取り上げられている。嫉妬、怨嗟、あらゆる私情が国政を左右しようとしているかのようだ。思い描いていた日本の将来像を、いまは実現する手立てもないのか。なんと悩ましい毎日なのだろう。
 憂鬱なる日々よ――逃れられるものならば、今すぐにでも逃れたいが、逃れられるはずもない。わかっている、そんなことは。わかっているのに、想いはつのるばかりなのだ。明日もこんなふうに過ぎてゆくのか、と彼は絶望的に思わずにはいられなかった。

 ふいに危険を感じて、木戸はすばやく身体をねじり、振りかえりざま目前にいた男の手首をつかんで後ろにねじ上げた。そこまで二秒もかからなかっただろうか。
「いててててっ。お、おい、僕だ、君の旧友だよ。敵じゃない」
 男が悲鳴をあげると、
「なんだ、杉村か。なぜ足音しのばせて入ってくるのだ」
 不満っぽく言いながら、旧友を解放した。
「まいったな。さすが小五郎、昔の剣客の感覚を忘れちゃいない。と、褒めたいところだが、だめだね。ドアをあける音に気づかなかった」
「ふん。自分の家だ。多少の油断があってもしかたなかろう。それより例の掛軸、どうだった?」
「いやー、先方はまだ決心がつかないみたいだ。なかなか手強い」
「値段ならもうすこし上げてもよいが」
「いや、値段じゃない。なにか君の所蔵しているものと交換したがっているようだぞ」
「交換? なんだい?」
「それが、どーもはっきり言わないんだよ。口ごもっちゃって」
「なんだろう」
 木戸は首をかしげて考えた。
「わからぬな。今度、逢ったときに訊いてみてくれ。ものによっては交換してもいいからと言ってね」
「了解。では、次回はもうひと押ししてみよう。ああ、そうだ。文人たちとの会合はどうする? 近いうちに開けるのかい」
「そうだな。すぐには無理かもしれないが、いずれ時間をつくって彼らにも逢いたいと思っている。日にちがはっきりしたら言うから、松源楼へ予約を入れておいてくれ……」
 言いながら、木戸の上体がふわっと前方に傾いた。杉村はあわてて相手を両手で支えた。
「おいっ、だいじょうぶか。松菊? 顔が真っ青だぞ」
「ああ、だいじょうぶだ。ちょっとめまいがしただけだから」
 だが、杉村は尋常でない相手の様子を案じて、彼を支えながらソファーに導いた。
「すこし横になっていろ。松子さんを呼んでくるから」
「いや、いいよ。すこしたてば治まるから」
 木戸は眼を閉じて、呼吸を整えるように大きく深呼吸した。血の気をうしなった唇がすこし痙攣している。杉村はそんな相手の様子を、傍らにすわってじっと視ていた。
「どうだい、水を持ってこようか?」
「いや、いい。すこし落ち着いてきたから」
「そうか。今日は朝から来客があり、その後外出して、帰宅したらまた来客と、休むひまがなかったのだろう? 無理をしないほうがいい。丈夫な身体ではないのだから」
「――井上がね、行ってしまったんだよ」
 杉村の言葉が耳に入ったのか、入らなかったのか、木戸は突然、関係のない話をしはじめた。
「井上が……どこに?」
 いぶかしげに杉村が聞きかえす。
「尾去沢」
「……」
「あの馬鹿、絶対に行くな、とあんなに止めたのに」
「……」
「あいつはなにもわかっていないのだ。江藤が握っている法権の威力を。すでに職は辞したが、それで終いにはなるまい。槇村の次は井上かもしれぬ。江藤とその一派はやる気だろう。それに山県も――」
「松菊!」
 杉村は木戸の話をさえぎった。
「もうそれ以上なにも考えるな。いますぐ、あれや、これやの心配事一切をその頭から追い出してしまえ」
「……」
「でないと、あんた――死ぬぜ」
「……」
 木戸は杉村から視線をそらし、どこともしれない空間に視線をおよがせた。だが、杉村の言葉は、彼の脳中に鈴のように響いていた。身体の異変はすでに、渡航するまえから感じていたのだ。
「そう、死ぬ……僕もそんな気がする。近いうちに――」
「な、なにを馬鹿な! 冗談なのに」
 だが、おもわず口に出した言葉が、杉村自身にも現実味をおびて迫ってきたのは、眼前の男の生命力の希薄さを感じたからだった。昔、あれほど凛々しく、華やかだった友の存在が、いま、透明な虚空の彼方に吸い込まれていきそうな危うさを感じて、彼は無意識に両手を伸ばし、相手の肩をつかんでいた。
「東京を去ろう、松菊。この魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界が君の生命を蝕んでいるのだ。君は自由になる必要があるのだよ、君を縛りつける諸々の鎖すべてを断ち切って」
「……」
「辞表を出せばいいじゃないか。誰にも遠慮することはない。君はもう十分にこの国のために尽くしてきたのだから。そう、最後は自由になって、好きなことをやればいいのさ。誰にもじゃまされない静かな環境で、政治以外の思索にふけるのも、ただ無為に過ごすのもいい。それまでは生きなくちゃ。死ぬのはまだ早いぜ」
 横たわっている男は再び視線を友のほうにうつして、柔らかな眼差しで相手を見た。
「そうだな……陶淵明を気取るのも、よいかもしれぬな」
 そう言って、木戸はうっすらと笑ってみせた。


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