[小説・木戸孝允]
反征韓派をまじえての最終的な閣議の開催は十月十四日に決したが、その前の反征韓派の動きは慌ただしかった。まず大久保は、ひとりで参議に任じられることを避け、副島を同時に参議にあげることを望んだ。副島はこれまで大久保とは政見を一にすることが多く、盟友といってもよかったが、今度だけは違っていた。副島は征韓派として、西郷を支持していた。ただ彼は、国が侮辱を受ければその侮辱をはらすという、外務卿としての立場にたっており、けっして無謀な征韓論者ではなかった。もちろん大久保も、今度ばかりは副島を容易に味方にできるとは考えていない。ただ、参議の就任には、だれか征韓派の道連れがいたほうが対立者への刺激をやわらげるし、朝鮮問題のほかに、台湾・樺太問題もいっしょに外務省の手に帰することを大久保は意図していたのかもしれなかった。それに、征韓論で沸騰する軍部や不平士族に対する大久保の用心深さもあったのだろう。 副島以外に、もうひとり参議候補がいた。伊藤博文である。伊藤については、木戸が推薦して、自分に代わって大久保を補佐させようと考えたようだ。この案には岩倉と三条が積極的に賛成した。征韓派には板垣、江藤、後藤など手強い論客がそろっており、参謀にして弁も立つ伊藤を加えれば、大久保ひとりで対抗するよりは、かなりの戦力の補強になる。しかし、伊藤は工部大輔であり、いきなり卿をこえて参議にさせるのはいささか不自然で、征韓派には露骨な人事ともみられかねず、伊藤の参議就任には大久保が難色を示した。伊藤自身も驚いたようで、 「私身上の儀は大久保へ容易にご相談などしては、かえって大事を害することにもなるので、けっしてお話になりませぬよう、お願い申し上げます」 と木戸への手紙に書いている。自分はまだ軽輩で、その任につくべき立場にないと思ったのか。それに加えて、ひょっとして木戸は自分を参議にしたうえで、本気で引退するつもりではないか、という疑念を抱き、自分同様、大久保もそんな懸念を抱きはしないかと推測して、大事なときに反征韓派の結束が緩むのをおそれたのかもしれなかった。 そんな事情から伊藤の参議就任の件は実現には至らなかった。ただ、反征韓派がどうみても劣勢だったので、三条と岩倉のあいだで伊藤を事務官として閣議に同席させることが検討された。だが、閣議は二日後に迫っていて周旋の時間もなく、この計画も流れてしまった。結局、閣議前に参議に新任されたのは大久保と副島の二名のみとなった。 もはや、来るところまで来た、と大久保は思っていた。西郷とはこの先いかなる妥協もできまいという覚悟をもって閣議に臨まねばならず、その結果如何によっては、最悪の事態も想定しなければならない。つまり西郷が掌握する軍部、とりわけ近衛軍がクーデターを起こす可能性があり、もしそうなれば、自分の生命は終ってしまうかもしれない。大久保は冷静にそのことを考えた。そして、立ち上がって机に向かい、筆をとった。彼は米国留学中の長男と次男に宛てて遺言ともおもえる手紙を書いたのである。慶応三年のご一新からの事情を語り、以下要約すると、 「参議就任については辞退することも考えたが、ただ今の情勢は皇国の危急存亡の秋(とき)と察せられ、この難を逃れるわけにはいかないので、断然当職を拝命した。死力を尽くし、無量の天恩に報いようと決意している。自分でなければこの難局にあたる者がおらず、残念ながら決心した次第である。自分は実にいい時代に遭遇し、一身上においては一点も思い残すことはない。ただ希望するところは、わが憂国の微志を貫徹して、おのおの奮発勉強、心を正し、知見をひらき、有用な人物となって国のために尽してほしい。もしかしたら異国にあって、自分の変事を聞くこともあろう」 まさに、大久保の決死の覚悟がうかがえる。 一方、三条はいまや両雄対決の事態にたちいたり、双方から言質をとられ懊悩していた。彼は岩倉をさそって西郷を訪ね、なんとか朝鮮行きを思いとどまらせようと考えた。中止ではなく延期だと言って、西郷を慰撫できないものかと、わずかな望みをかけたのだ。西郷の動静が兵隊におよぼす多大な影響を、三条はなによりも怖れていた。それは内治派の面々が共有する懸念でもあった。西郷の下には篠原国幹、桐野利秋など幕末以来、百戦錬磨の兵(つわもの)が集(つど)っている。 三条と岩倉の西郷訪問の計画については、大久保が「十四日の閣議前に西郷と内談することは無用」として反対したので、実行されなかった。そうした小細工はかえって逆効果になると大久保は思ったのだ。その代わりに、十三日、三条は板垣と副島を私邸に招いて、岩倉をまじえ四人で事前協議を行った。翌日の閣議に西郷を出席させずに、他のメンバーだけで話し合い、意見を調整しようという案が出され、これには板垣、副島を含め全員が賛成した。 実際、この提案をしたのは板垣だった。西郷が渡韓すれば、開戦の可能性は間違いなく高くなる。岩倉から、勝海舟(海軍大輔)が海軍力の不備を理由に即時の使節派遣には反対しているという話を聞いて、両人ともあっさり延期論に賛同したのである。西郷からみれば、寝返ったともいえるが、「勝ち目のない戦はしない」というのは道理であって、なにがなんでも今すぐ朝鮮へ、という西郷ほどの熱意をこの二人が持ち合わせてはいなかったことがわかる。現実的に対応する理性が働いたわけだが、問題の当人を抜きにしたほうが、彼らにとっても意見を述べやすいことは明らかだった。 手紙で協議の内容を知らされた大久保も、その案には賛意を表した。西郷以外の参議の意見が「使節派遣の延期」ということでまとまれば、あるいは西郷も渋々ながら納得する可能性があるかもしれない。しかし、西郷がこんな欠席裁判のようなことに同意するはずもなかった。このことを聞きつけた西郷は、当然ながら憤慨した。これまで何度も閣議開催の催促をしながら、その都度延期されてきたのである。ようやく十四日に開催されることが決まって待ち焦がれていた矢先に「欠席せよ」では、彼が感情的になるのも無理はなかった。 閣議当日の朝、西郷は自ら三条邸を訪れて、憤りを顕わにしながら、断固出席する旨を三条に伝えたのである。まことに三条はいずれの勢力にも責められ放しで、気の毒な立場ではあった。 このように十四日は朝から波乱ぶくみで、両陣営対決の第一幕があけようとしていた。ここに閣議の出席者を列記してみる。
主役は西郷と大久保に相違なく、西郷はもとより生命を賭しており、大久保もまた死を覚悟してこの日の閣議に臨んでいた。 |