[小説・木戸孝允]

明治六年秋

(十二) 征韓派の勝利

 翌十月十五日、岩倉は閣議に出席する前に一通の手紙を受け取った。差出人は征韓派の参議、江藤新平であった。自室でその手紙に眼をとおすと、彼は眉間にしわを寄せ、頭をかかえて考え込んだ。むろん、江藤は征韓派として西郷を強く支持していたから、手紙でも西郷をただちに朝鮮へ派遣するべきことを力説したのである。その内容は前日の閣議で述べた意見とほぼ同じであり、彼はそれを手紙で繰り返すことによって、岩倉に決断を促したのだろう。

 西郷の要望をお聞き入れにならなければ、同人の願いどおり辞職をお許しになるほかないでしょう、と言われれば、さすがの岩倉も不安を覚えざるを得ない。これは相当な脅しにもとれる。いや、もっとも効果的な脅しであったかもしれない。西郷の決意は巨岩のごとく動かしがたく、内定を覆せば、もはや彼の辞職は必至の状況となろう。そうなれば、政府内外にいかなる混乱が生じるかはかりがたい。
 だが、これまで支持してきた大久保の反対論を、岩倉には無視できるはずもなかった。なによりも、反対の意見は変えぬ、という一札を彼に差し出しているではないか。
 実にやっかいなことになってきた。いったいどうすればよいのか――

 岩倉の気持ちも揺れていたが、岩倉以上に動揺していたのは三条だった。その日の閣議に西郷は欠席したのだ。西郷にしてみれば、もはや言うべきことは言った。あとは、最終的な決定が下るのを待つのみ、という思いだったのだろう。だが、西郷の欠席は三条にとっては無言の圧力になったようである。大久保は前日どおり、断固として反対の意見をくりかえし主張した。それに対して、板垣と副島が西郷に代わって賛成の意見を述べ、西郷の意志を尊重するように大久保らに迫った。
 意見は分かれたままであり、ここに至っては三条、岩倉両大臣が決断するほかなかった。休憩をとるかたちで、大久保以下の参議は両大臣を残して、いったん部屋を退出した。その間、三条と岩倉はふたりで相談し、頃あいを見はからって一同がもどってくると、その内容を発表した。

 西郷進退については大事なことなので、やむを得ず西郷の意見どおりに任せることに決定した。

 西郷の朝鮮行きに両大臣はゴーサインを出したのである。大久保は無言でその決定を聞いた。両大臣に決定を委ねた以上、大隈も、大木も異存を述べることはできなかった。征韓派はここに勝利し、大久保ら反対派は敗れ去った。大久保はほとんど無表情のまま、一礼して閣議の部屋から立ち去った。その靴音が両大臣の耳には不気味に響いていた。
 
 その日の夕方、黒田清隆と西郷従道が慌ただしく大久保邸を訪れ、淡く灯りがともる邸内に姿を消した。一方、三条は責任の重大さを感じて、その日のうちに岩倉へ手紙を送った。「このような結果になったのは、自分一身に罪がある。しかしやむを得なかったのです」と苦衷を述べ、「論を変えたことは申し訳なく、大久保の不満は大きいだろうが、西郷の進退については大変な問題であると心配した次第です」と正直な気持ちを吐露している。さらに三条は、「自分に陸海軍総裁職をご命じくだされば、御国に害がないように必至に尽力したい」と悲壮な決意を語っている。
 結局、岩倉も土壇場で三条の意見に同調してしまった以上、大久保に対して面目がなかった。やはり彼も、西郷が政府を去った場合の影響を怖れたのだ。三千の近衛兵は西郷の指揮下にあり、西郷辞職となれば彼らがどう動くかわからない。そんな恐怖に捕われたとしても無理はなかった。結果的に、三条同様、岩倉も大久保を裏切ってしまったのである。
 岩倉は三条の手紙とともに一書を大久保に送り、面目もない、恐縮に堪えない、と謝罪の気持ちを伝えた。翌十六日にも、岩倉はさらに、持病で苦しんでいるのでしばらく治療に専念したい、としてこの惨憺たる政治の舞台から身を引く意思を大久保に明かした。だがこの日は、伊藤と大隈を私邸に呼んで、今後の処置を相談してもいたのだ。やはり、なんとか打開策はないものか、岩倉も相当に苦慮していたのだろう。

 大久保が三条邸を訪れたのは十七日の朝だった。十六日は休日だったので、翌日、彼は辞表とその理由書を三条に差し出した。「今日の事、何様のご沙汰を拝承仕り候ても断然心決し仕り候につき、速やかにご放免くだされ候よう万祈仕り候」という文面には大久保らしい断固とした決意が読み取れる。三条は周章狼狽し、まともに言葉もかけられなかった。その打撃に追い討ちをかけるように、今度は木戸家から使者がやってきて、木戸の辞表を差し出していった。その使者は帰路に、ひそかに大久保邸を訪れて、木戸が辞表を提出した旨を伝えたのである。
「約束を守ってくれたのですね、木戸さん」
 大久保は窓辺にたたずみ、煙草を燻らせながら満足げに微笑んだ。

 同日、岩倉は大久保から辞表の写しを添えた手紙を受け取った。事の重大さに岩倉は驚き、かつ当惑した。だが、決心に時間は掛からなかった。直ちに三条に手紙を書いて、自らも辞意を表明したのである。大久保と行動をともにしなければならない、と岩倉は決意を新たにしたのだろう。幕末以来の盟友である大久保とここで袂を分かつわけにはいかない。
 一方、岩倉にまで見放された三条は一瞬、めまいを覚えたが、かろうじて踏みとどまった。三条の双肩には現在、内閣が抱えるあらゆる問題がのしかかっていた。少なくとも彼は、ただ今、己一人の責任で遣韓使節の問題を処理しなければならなかった。
 この日、西郷以下、征韓派の参議連は参朝したが、岩倉、大久保ら反征韓派はひとりも姿を見せなかった。西郷は大久保が辞表を提出したことを聞くと、
「やはり薩人一の腰抜けじゃった。辞表、はよう聞きとどけてくれやったもんせ」
 と、鼻でせせら笑った。そして、
「閣議の結果を奏上し、速やかに勅裁を得るべし」と三条に迫った。三条は困惑し、
「国家の大事であるから、右府(岩倉)以下の参朝を待って決定したい」
 とためらいを見せると、さらに西郷は、
「すでにことは決定している。右府以下の参朝を待つ必要なし」
 と断じた。三条は西郷の全身から発せられる重圧を感じながらも、なお最後の抵抗を試みた。
「これほどの重大事を奏上するには太政大臣、左右大臣、参議の三職が集まって確定するべきでありましょう。あと一日の猶予を請いたい。もし明日になって右府以下参朝しなければ、私ひとりで責任を負い、必ず決行しよう」
 だが、西郷は頑として首を縦に振らない。そこで後藤象二郎があいだに入って、
「わずか一日のことなら待ってもよいのではないですか。もう決定が変わることはないのですからね」
 と宥めると、西郷はようやく、やむをえん、というような様子でこれを承諾した。三条はやっと解放されて、ほっと一息ついたが、その懊悩は帰宅してからもつづき、深夜まで眠ることができなかった。明け方になって三条は心痛のあまり発病して、人事不省に陥ったのである。


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