[小説・木戸孝允]

明治六年秋

(十三) 反征韓派の攻勢

 反征韓派の動きがにわかに慌ただしくなったのは、三条公発病の一報が入ったあとだった。ホフマン医師が診察したところによると、病は脳の血液鬱積により発症、午後には痙攣の発作を伴ったので、鎮痙嗅剤クロロホルムを投与して症状を鎮めた。三条公が急病で倒れたという情報は当然、征韓派の陣営にも伝わっていた。
「西郷を太政大臣に、副島を右大臣に任じるべし」
 すぐに板垣退助が主張した。反対派を完全に封殺し、いっきに軍事政権を樹立するつもりだったのか。西郷が朝鮮に派遣されれば、政府内外の征韓論はますます高まってくる。もはや朝鮮のいかなる非礼も開戦の口実になる可能性があった。だが、病に倒れた三条を除けば、政府の最高位にあるのは岩倉右大臣であり、西郷も岩倉を差しおいて三条の地位を襲うことはできない。今後の彼の動きが重要になってくる。

 反征韓派ですばやい動きをみせたのは伊藤、大隈、黒田らで、伊藤はただちに岩倉邸を訪れた。
「この上は右大臣自ら身を挺して難局の打開にあたるべきです」
 伊藤に言われるまでもなく、この新局面に接して岩倉に迷いはなかった。大久保に対して失った信頼を取り戻したい、という思いが彼にはあった。三条が発病した以上、自分が前面に出て、どんな役も引き受けなければならない立場にあることを、彼ははっきりと認識していた。
 岩倉の決意を確認すると、伊藤はすぐに辞去し、一直線に大久保邸にはしった。
「岩倉右大臣はもはやこちらの味方であることに間違いありません。この難局を乗り切るべく岩公とともに是非ともご奮起なさってください。私も微力ながら精いっぱいお手伝いいたしますから」
 だが、伊藤の言葉に大久保は即答しなかった。彼はしばらく考え込む様子だったが、やがて用心ぶかい眼を相手にむけて、
「私はすでに辞表を差し出した身、軽はずみな行動はとれない。三条公のご病状の経過も気になるし、しばらく様子をみたい」
 大久保の言葉の固さに、伊藤はさらにふみ込んで説得する無駄を悟った。岩倉とはこれまでの経緯もあり、すぐには懐疑心が解けないのだろう。そう思うと、伊藤はあっさり諦めて大久保邸をあとにすると、今度はわき目もふらず木戸邸に向かった。

――ぐずぐずしている場合ではない。板垣らがどんな行動に出るか。先を越されては、これまでの苦労が水の泡になるではないか。

 だが、伊藤を迎えて、先に口を切ったのは木戸のほうだった。
「三条公のご様子はどうなのだ。君はその後のご病状を聞いていないのか?」
 部屋に入るなり、家の主が心配げに聞いてきた。
「いいえ。まだ三条公のお邸には伺っておりません」
「――そうか。だが、なんということだろう」
 突然の三条の発病に衝撃を受けたのか、木戸の眼は憂いに沈んでいた。
「三条公は真面目で誠実な方だから、きっと国家を憂い、心労のためにお倒れになったのだ。おもえば三条公は文久の年より艱難をなめ、『堺町御門の変』では長州とともに都を追放され、その後は維新が成るまで我々と苦労をともにされた。大政一新後は朝廷で重きをなし、よく感情を制御なされ、ひたすら国家のために尽されてきたのに、近ごろ台湾・朝鮮征伐など無謀の論が朝野にわき起こり、一身に責任を負われて憂慮のあまりこのような結果になってしまい、実に、実に悲嘆に堪えな……」
「木戸さん、三条公をご心配するお気持ちはお察ししますが、今は昔を追想している場合ではありません」
 伊藤は焦る気持ちを抑えながら、木戸の言葉をさえぎった。
「こんなことを言ってはなんですが、このたびの状況は我々にとっては形勢逆転の好機になるかもしれないのです。右大臣はすでに決意をされております。征韓派を敵にまわす覚悟を固めていらっしゃるのです」
「岩公が、決意された?」
「はい。しかし、大久保卿がどうもはっきりしないのです」
「はっきりしない? それはどういうことだ」
 いぶかしげに木戸がたずねた。
「つまり、私が察するに、岩倉公の変節にまだこだわっていらっしゃるのではないかと。土壇場になって、西郷の遣韓使節を認めてしまいましたからね、三条公といっしょに」
「伊藤君。西郷を朝鮮に行かせてはいけないよ。軍事の最高責任者が自ら交渉に赴くなんて実に危険だ。武官が政治に口を出す道筋をつけることにもなりかねない」
 木戸はようやく現状の危機意識を取りもどしたのか、真剣な口調で自論を述べた。
「そう。そのとおりです。ですから、ここは是非とも大久保さんの力が必要ではありませんか」
「もちろん、そうだ。君も承知のとおり、私はいまも頭痛に悩まされ、体調がおもわしくない。大久保が動いてくれなければ、ことは一歩も進まないだろう」
「ですから、木戸さん。あなたに手紙を書いてもらわなければなりません」
「手紙、誰に?」
 伊藤はややあきれ返った顔つきで、
「誰にって、大久保さんに決まっているじゃありませんか。大久保の心を動かせるのは、あなたしかいませんよ、木戸さん。あなたが手紙で彼を説得してください。あなたの意思をはっきりと彼に伝えるのです、一刻もはやく。すべてが手遅れになるまえに」
 そこまで言われると、木戸の呑み込みははやかった。その日のうちに彼は大久保宛に手紙を書き、これまでの経緯に触れ、今は頼もしい唯一の盟友を誠意を尽くして激励した。

 木戸の手紙を受け取った大久保は、読み終わって意味深げな微笑を浮かべた。
――だいじょうぶ。木戸はちゃんと俺についてきている。
 改めて味方陣営の結束を固める必要がある、と大久保は思っていた。岩倉に対しても、二度と裏切ってもらっては困る、という思いがあった。それぞれの反応をみながら思いをめぐらす一方で、彼は三条の病状を気にしていた。すぐに快癒するほどならば、うかつな行動はとれなかったからだ。
 翌十月十九日、大久保は三条邸を病気見舞いに訪れた。当日の彼の日記によれば、

今日十二時過ぎ、条公ご病気御見舞として参上、詳細ご様子承り候。全く精神錯乱のご様子に候。然し今日は昨日より少しくおくつろぎのご容体なる由。

 三条はすぐには通常の生活にもどれないことを確認すると、大久保は丁重に見舞の言葉を述べ、厳しい表情をくずすことなく帰路についた。帰宅後、まもなくして黒田が大久保邸を訪れた。黒田は伊藤とともに、今回の政争が征韓派の勝利になることを最も憂慮していた。話は当然、土俵際まで追いつめられた内治派の巻き返し策にならざるを得ない。客間に大久保が入ってくるとすぐに、黒田は自分が入手した敵味方の情報を大久保に伝え、焦燥をあらわにした。
「土佐や肥前の連中はこの際、大西郷を担いで自分たちの勢力を伸ばそうという腹づもりですぞ」
 留守政府に残った黒田は、江藤や後藤ら一連の薩長政権打倒の動きを横目で見ながら、自分ではどうすることもできずに口惜しい思いをしてきた。いつの間にか内閣が土肥出身者で固められてしまったのだから、黒田としては木戸、大久保、岩倉らの帰国をひたすら待つ以外になかったのだ。
「なんとかならんものでしょうか。このまま征韓派に突っ走られては国は滅びましょう。いずれは中国との戦になるやもしれません。それにロシアも黙ってはいないでしょう」
 大久保は眼を閉じて、寡黙に黒田の話を聴いていたが、
「もはや万策は尽きている」
 静かな口調で答えた。
「えっ、そんなぁ」
 失望の声を発した相手に、
「しかし、ただ一の秘策がある」
 大久保の眼が鋭く光った。
「一の秘策? な、なんです、それは?」
 黒田が身を乗り出して聴く。
「三条公がご病気になられた以上、太政大臣職を代行するのは順序からいって岩倉右大臣であることには誰も異存はあるまい。だが、そのまま条公の代理に納まるなら、条公の意思を継ぐだけのこと。なにも現状は変わらない」
「それでは、どうすればよいのです?」
「天皇にご動座ねがう」
「えっ?」
 黒田の眼が見ひらかれた。
「つまり、代行ではなく、代摂でなければならないのだ」
 三条から代理の依頼を受けるのではなく、天皇から直接三条の代理を命ぜられれば、太政大臣の全権は岩倉に移り、これまでのことはすべて白紙にもどる。岩倉個人の意見で物事を決することができるのだ。まず宮内少輔の吉井友実に話をつける必要がある、と大久保は言った。吉井は薩摩人であり、大久保とは十分に意思の疎通があった。だが大久保は自分の名を出して、征韓派に漏れることをおそれた。
「いいかね。これは君個人の意見として言うのだ。そして、吉井に宮内卿の徳大寺を説かせ、お上を動かすようもっていく。つまり三条公を見舞い、そのあとすぐに岩倉邸を訪れていただくのだ」
 通例ではよほどの重病でないかぎり、天皇が自ら臣下を見舞うことなどない。まして代行を命ずるのに、重臣の私邸にわざわざ赴くのは異例中の異例である。しかし、岩倉個人の意見を活かすためには、それがどうしても必要であると大久保は考えた。
 大久保の意図をすばやく悟った黒田は、
「わかりました。この任務、なんとしても成功させます」
 緊張した面持ちできっぱりと答えた。


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