[小説・木戸孝允]

明治六年秋

(十六) 新たなる対立

 征韓論政争に敗れた翌日、西郷は辞職願を正院に提出した。板垣、江藤、副島、後藤の四人も西郷にならって辞表を提出、ここに維新政府は大分裂をきたすに至った。先に提出していた木戸、大久保、大隈、大木の辞表は不受理、征韓派参議の辞表は受理されることになったが、西郷については参議と近衛都督の辞任だけを認め、陸軍大将の任はそのままとした。西郷辞任の報を聞いて、薩摩藩出身の将校、下士官に動揺が生じているさ中、西郷は所在を部下に明かさずに自宅から姿を消してしまった。その後、新内閣が発足、木戸、大久保に加えて参議には新たに大隈重信(大蔵卿)、大木喬任(司法卿)、伊藤博文(工部卿)、勝安房(海軍卿)、寺島宗則(外務卿)が任命され、それぞれの省卿を兼務することになった。伊藤の昇格には、二階級特進ということで岩倉や大久保が難色を示していたのだが、木戸の熱心な推挙によって認められると、彼は安心したのか、病を理由に参朝を控え、閣議にも出席しなかった。

 新内閣の陣容はひとまず整ったが、軍隊、とくに近衛兵中に容易ならぬ事態が生じていた。西郷配下の桐野利秋(陸軍少将)、篠原国幹(近衛局長官)が辞表を提出したのをはじめ、百人以上が職を辞して、近衛から将校の姿があらかた消えてしまったのだ。この状況をみて、土佐の兵士にも動揺が広がって、辞表を出す者、説得に応じる者などに分かれたが、板垣は彼らを集めて冷静になるよう諭していた。その間、辞職した参議たちは東京に留まるよう命じられていたが、西郷は十月末には横浜から海路鹿児島に向かい、帰国してしまった。東京政府は発足以来の危機のただ中にあった。近衛兵の蜂起以外にも、地方鎮台の不穏な動きが懸念されていた。もちろん木戸はそうした非常事態を想定して、山田顕義(東京鎮台司令長官)や三浦梧楼(陸軍少将)らに油断なきよう注意を促していた。大久保も同様に黒田清隆、西郷従道に適切な指示を与え、大隈、とくに伊藤は木戸・大久保間にあって各方面に遣いするなど、相当な働きぶりを発揮していた。

 だが、新政府は木戸・大久保の結束を担保にして発足したわけではなかった。征韓論に拠る留守政府が瓦解し、ひとたび内治派が勝利するや、木戸と大久保の間には意見の相違が明らかになり始めていた。ひとつには人事の問題があった。岩倉と大久保は陸軍卿の山縣有朋を参議に推薦したのだが、木戸はこれに頑なに反対した。軍事と政事の分離は、木戸の以前からの持論である。たとえ同郷の山縣であろうとも、例外を許すつもりはなかった。他の省卿はすべて参議を兼ねているのに、山縣一人が取り残されるのは体裁上もよろしくないと大久保は考えていた。伊藤をして木戸の説得を試みさせたが、それでも木戸は容易に首を縦に振らない。それどころか、自分が省卿を兼ねることさえ堅く辞する有様だった。
 近衛には西郷を慕って大勢の帰国者が出ていたので、近衛の立て直しは緊急の課題だった。西郷に代わって近衛都督の任に堪え得る人材は、誰が考えても大久保か木戸しかいない。残留の将校・下士官は長州人が多かったから、これをまとめる指揮官としては木戸が適任だろうということで、彼に白羽の矢が立ったのである。
「私が軍・政分離論者であることはわかっているだろう」
 と、この人事を伝えにきた伊藤に、木戸は不機嫌な声で応えた。
「覚えているかね、我々が外遊中に西郷が近衛都督と陸軍元帥(のち大将)に任命されたことを。私ははるか海外から書を送り、文官が武官を兼ねることの弊害を伝えて猛反対した。にもかかわらず、廟議は我が意見を容れずに西郷の文武両官の兼務を認めてしまったのだ。その結果がどうなったか。西郷が職を辞したとたんに、配下の士官らは天子の親兵たるを忘れ、法規を蔑ろにして勝手に職を投げ出してしまった。一西郷の私兵と化してしまったではないか」
 語っている間にも木戸の怒りは激してきた。ほっと息を継ぐと、すぐにまた話し出した。
「外遊前に私は西郷とともに廟堂に並び立ち、その責任を分かって薩長の協力を約してからは、幾多の困難を乗り越えて廃藩置県を断行した。それが今はどうだ。西郷は意見の相違を理由に忽然と職を去って、郷里に帰ってしまった。数年来の盟約は破られ、あとに騒擾を惹起する事態に立ち至っている。自らの挙動によって軍紀は乱れ、彼の本意ではないにしろ世上は動揺し、不穏な空気が生まれている。幕末以来、長州は薩摩の動静にはずいぶん翻弄されてきたからね。危うく滅亡の淵に追いやられ、多くの同志を失い、私自身も辛酸をなめ尽した。また、繰り返すのか。また、我慢しろというのか。いったい、いつまで我慢すればよいのだ、えっ、博文よ」

 どうもまずいな、また昔のことを思い出してしまった。伊藤はもはや木戸の近衛都督就任の受諾は無理だろう、とあきらめざるを得なかった。伊藤はもちろん、岩倉も、大久保も、木戸が自宅に引きこもって容易に出仕しようとしないことを問題視し、困惑もしていた。病中ということであまり強いるわけにもいかなかったが、かといって、このままではしっかりした新政府の陣容を固めることはできない。木戸が大久保とともに内閣の要となり、“薩長連合揺るがず”の姿勢を明白にしなければ、政府内外の動揺を鎮めることは難しい。木戸には他の参議と同様、是が非でも省卿を兼ねさせる必要がある、ということで、大久保らの意見は一致していた。

 では、大蔵卿ではどうだろう。大蔵省は大隈が事務総裁として留任していた。彼は留守政府の下、予算編成をめぐって大蔵省と司法省が対立した際に、当時の司法卿・江藤に味方して、井上馨(大蔵大輔)と部下の渋沢栄一を辞任に追いやった裏切者だという思いが木戸にはあって、大隈留任の人事には不満をもらしていた。そこで、岩倉は大隈を他省に移動させ、木戸を大蔵卿にして参議と兼任させることを考えた。彼は木戸邸を訪ねてその人事案でどうか、とたずねたが、木戸は首を縦に振らず、難色を示した。なんどか説得しても歩み寄る様子はなく、埒が明かないので、今度は伊藤が岩倉の意を受けて、木戸の説得を試みた。
「断るよ。大蔵卿は大久保がやればいいじゃないか」
 自分はやらない、と彼の返事はにべもなかった。結局、大蔵卿の就任については伊藤の説得も徒労に終わった。
 では陸軍卿は? と恐るおそる窺えば、相手はぎろっと睨んでこんどは返事もしない。木戸の信条は知っていたが、もう、どの省でもいいから木戸の好きな職務を選んでくれ、という思いで伊藤も焦っていたのだろう。あんまりしつこいので、木戸は話をさえぎり、
「薩人には壬戌、癸亥(文久二、三年)以来、愚弄されてきたことも少なからずあった。仏の顔も三度とか、最近、無念に思うことも多く、おもしろく思ったことなどひとつもない。情勢も落ち着いてきそうなので、しばらく身を引きたいと思っている。君だから気を許して慰めに言うのではないから、決して止めないでほしい」
 木戸の返事を聞いて伊藤は唖然とした。これじゃあ、やぶへびではないか。なに言っているのよ、木戸さん。まーた、隠退病、発病ですか。昔から「辞める、辞める」作戦は得意だったですからね。もう、小五郎ぼっちゃんはわがままなんだから。あたしの身にもなってくださいよ。それ絶対、許しませんからね。第一、大久保さんが承知するわけないですから――心で不平をもらしながら、伊藤はなんとかこの扱いにくい先輩を廟堂に引っ張り込む作戦の練り直しを始めるのだった。

 伊藤が木戸の説得に四苦八苦している間に、山縣がひょっこり木戸邸を訪ねてきた。山縣は西郷従道とともに欧米を視察して以来、保守的姿勢が一変して、国民皆兵論者になっていた。山縣がすすめる西洋式の訓練や軍の階級制度をめぐって、薩摩士族の間に不満が募り、山縣の排斥運動が生じたことがあった。もともと近衛兵には薩摩出身者が多く、保守的でもあったので、改革派の山縣に対する反感が高じて、「叩き殺してしまえ」と叫ぶ物騒な徒も現れ危険な様相を呈してきた。そうした過激に走る者たちをなだめて、鹿児島に帰らせ、窮地にあった山縣を救ったのが西郷だった。西郷は当時、天皇に供奉して西国方面に出張中だったが、山縣の懇請をうけて急きょ帰京し、この騒動に対処したのである。山縣は近衛都督を辞して、西郷が陸軍元帥に任じられ、近衛都督を兼ねた。
 その後に起こった山城屋事件でも、山縣は窮地に陥った。彼は陸軍省の官金を同郷の山城屋和助(本名:野村三千三)に貸し付けたのだが、派手に遊びまわった挙句に事業に失敗した和助が借金を返せなくなり、明治五年十一月二十九日、陸軍省の応接室で割腹自殺するという容易ならぬ事態を引き起こした。この事件を当時の司法卿・江藤新平が部下に命じて調査させていた。薩長が牛耳る現政府に不満を抱いていた江藤は、この事件で長州人をたたき、薩長を離間させる好機ととらえていたようだ。
 和助は自害する前に関係書類や証文などをすべて焼却していたため、事件の真相は解明されずに終わったが、薩摩の士官らが黙ってはいなかった。この時も西郷は山縣を庇ったが、彼らの非難の嵐に耐えきれずに翌明治六年四月、山縣は陸軍大輔を辞任した(六月に陸軍卿として軍務に復す)。そして、今回の西郷以下、薩摩士族の帰国騒動である。こうした事態を回避できなかったことに対して、山縣はまたしても糾弾されていたのだ。三たびの危機であった。

「私は陸軍卿を辞して、むしろ参議になりたいのです。しばらく軍事からは遠ざかりたいという思いです」
 憂鬱なまなざしを木戸に向けて、山縣は訴えた。
「陸軍を去って参議になりたい? 冗談言っちゃいけないよ、山縣。君は奇兵隊時代から生粋の武人ではないか。いまさら文官に転身などできるものではない」
 木戸が即座に反対の意見を述べたが、山縣は納得しない。木戸はさらに言う。
「いま、どれだけ政府内・外ともに困難な状況にあるか、君にもわかっているだろう。先に西郷、忽然と陸軍を去り、続いて君まで去ったら、中央の軍政はがたがたになる。世間の動揺も収まることはあるまい。ここが踏ん張りどころではないか。小西郷(従道、陸軍大輔)も兄とは反対の論を貫いて、東京に留まり、政府を支えてくれているからね。彼は薩人では貴重な人材だ。小西郷とともに近衛の立て直しに尽力してくれないかね」
 木戸の督励に対して、山縣は自分の立場の苦しさをもごもごと述べるのだが、どうも言葉がはっきりしない。自分をめぐるこれまでの騒動を思い起こしているのか、逃げ腰の姿勢は変わらない。彼は、陸軍卿と参議兼任について、木戸が反対していることを知っている。それについて釈然としない気持ちもあって、それならば参議をとる以外にないではないか、と苦渋の選択をしたのかもしれなかった。木戸の重ねての説得には、
「木戸さんのご意見はよく解りました。ただ、この場で即答は致しかねますので、小西郷とも相談のうえで、ご返事いたしたいのです」
 山縣も複雑な心境で、容易に決断しがたかったと察せられる。彼は長州系軍人の間でも全幅の信頼を置かれているわけではなかった。山田顕義(陸軍少将)などは故大村益次郎直系の弟子といってもよく、山縣の競争相手になりえたし、三浦梧楼、鳥尾小彌太(ともに陸軍少将)は同じ奇兵隊出身ではあったが、山縣とは微妙な距離が無きにしもあらずであった。ましてや薩摩士族は山縣がすすめた徴兵制(明治六年一月施行)にも、「百姓兵に何ができるか」と反発していたので、陸軍全体をまとめるのは容易ではなかったのだ。

 山縣の問題はともかく、木戸自らの去就についてこそ、岩倉、大久保以下、政府要人の間では依然として重要な懸案となっていた。最初に近衛都督、次に大蔵卿、その次に陸軍卿を打診したが、すべて固辞され、隠退さえ口にする始末で、皆ほとほと困り果てていた。伊藤の苦戦を知って、井上が木戸の説得役に加わった。司法卿はどうですか、と勧めれば、司法卿もいやだ、と相手が答えるので、井上は日を改めて再度木戸邸を訪れ、昨今の薩摩、肥後など不穏な情勢を語って、相手の危機意識を煽った。大久保はその時にはすでに内務卿に就任しており、木戸もこれ以上は固辞しがたく思ったのか、
「では、文部卿なら」
 としぶしぶ答えると、井上は嬉々として、
「文部卿? 結構です。結構ですとも。なんでも木戸さんのお望みのままに!」
 ついに大将を陥した、と役目を果たし終えた安堵感にひたって、井上が大きな息を継いだのは、その年も終わろうとする十二月二十七日のことだった。

 こうした人事問題が紛糾していた間にも、いや、それ以上に、木戸が傾注し、相当に頭を悩ませていた問題があった。それは京都府参事・槇村正直に対する臨時裁判の状況である。槇村は法令違反について有罪とされ、すでに身柄を拘束されていた。十月二十三日、征韓論が敗れ、西郷の後を追って司法卿・江藤新平らが辞職すると、十月二十五日、槇村は特令により釈放された。これに対して、川路利良(警保助)、坂元純煕(警保助)らが憤激して意見書を提出する一方、島本仲道(警保頭兼大検事)は槇村釈放に抗議して、職を辞したのである。彼らは疑っていた。槇村釈放の陰に、長州の巨魁・木戸孝允あり、と。


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