[小説・木戸孝允]

明治六年秋

(十七) 肖像のゆくえ

 庭の奥へとつうじる小路に一歩ふみこむと、金木犀のかすかな芳香が鼻孔をくすぐった。枯れ残った小さな花はまだ通りすぎる者の関心を惹きつけようと、その可憐な姿から、どうよ、とばかりに芳しい匂いを発している。松や椎、イチイなどの常緑樹に混ざって鮮やかな色どりを添えるカエデ、あたりに散らばる落葉はこの庭の主がこよなく愛する桜である。桜は庭の所々に複数本植えられており、春はさぞ美しかろうと庭全体の景色が目に浮かび、杉村は、なぜここを描く機会を持たなかったのか、今さらながら首をひねった。
 ここは松菊の精神的な隠れ家だからな――染井(豊島区巣鴨辺り)にあるこの別荘は、木戸にとっては大久保との対立や敵対勢力との政争に疲れ果てた心身をいやす唯一の場所なのだ。この辺りはまだ田畑が多くのこり、東京の中心に比べれば交通量もすくなく、樹木や植物が繁茂した閑静な場所である。木戸の好みを反映してか、野趣に富んだ庭の一隅には素朴ながら小奇麗な庵があって、漆喰の白壁が午後の陽ざしにまぶしく輝いていた。その縁側には傍らに杖をおき、足を組んで座っている男の姿があった。

 あー、いた、いた。この家の主を発見して、杉村は「おーい、松菊!」と枝折戸から声をあげて呼びかけた。すこしまどろんでいたのか、ぼんやりした表情で声のしたほうに顔をむけた主は、
「やあ、来ていたのか、杉村」
 ややしわがれた声で返事をかえした。枝折戸をあけ、庵へとつづく飛び石を踏んで近づいてきた友は、
「松子夫人から染井に出かけたと聞いてね。来てみたら、玄関で留守居の人がお庭に出られたと言うんで、ひょっとしてここではないかと目安をつけて来てみたってわけさ」
 杉村は木戸の左どなりにゆっくり腰を下ろすと、首をまわして友の顔をのぞき込んだ。
「だいぶお疲れの様子だね。身体の調子はどう?」
「うん、今日はまあまあだよ。ホフマン医師から、家でじっとしているよりもたまに外気に触れたほうがよい、と言われたのでね。麹町の家だと客が絶えないから、こちらへ避難してきたんだよ」
「そうか。がんこな征韓派はなんとか中央から追い出したけど、まだ他にやっかいな問題を抱えているようだね」
 杉村の問いに、木戸は渋い表情をみせた。もちろん、彼は木戸の悩み事がなんであるかを知っている。京都府参事槇村正直らと京都裁判所との法廷闘争は、司法卿江藤新平の強力な後ろ盾を得た京都裁判所がわが勝訴したが、江藤はすでに征韓論に敗れて東京政府を去っていた。その後、獄中にあった槇村が天皇の特命というかたちで突然釈放された。これは木戸が岩倉に働きかけて、槇村の拘留解除の命令書を出させたのに違いない、という疑惑が司法省内でひろまり、憤激した司法大輔福岡孝弟が辞表を提出すると、同省の三等出仕島本仲道(土佐)、樺山資綱(薩摩)もこれにつづいて辞職してしまったのである。

 江藤新平が東京府の邏卒四千人を司法省の管轄下において警保寮としたのは明治五年八月で、これで軍事と警察が分離された。その時、島本は江藤から警保頭兼大検事に抜擢されている。警察権をにぎり、各県に裁判所を新設したことで、江藤は地方官ににらみを利かせることができるようになった。彼は大蔵省から予算の編成権も奪っていたから、木戸、大久保らの留守中に薩長の藩閥政治を打破する体制を着々と整えていたといえるだろう。したがって、木戸を悩ます以上に大蔵卿としての大久保が江藤に対して憤激の念を抱いたとしても不思議ではなかった。この時期に内務卿となった大久保は司法省から警保寮を移そうとしていたが、長州閥とのごたごたについては困ったものだと思っていた。

 一方、司法省は槇村の拘留解除の特命には従ったものの、今後も臨時裁判所での審理を継続して槇村らの罪状を取り調べるべきである、との意見を請書(承諾書)に添えて、なんとか彼を罰しようとしていた。いったん有罪となった槇村を突然放免するなど、司法省の面子にかかわることでもあったから、この問題はそう簡単に収まりそうにはなかった。
「司法省も相当にしつこいね。意地になっているのだろう。京都の復興事業はまだ道半ばなのだから、はやく槇村を京都に戻さないといけない。いつまでも些末な問題で彼を叩くのは、時間の浪費以外のなにものでもないよ」
 そう言うと、木戸は不愉快そうに眉根を寄せた。
「ああ、司法省も司法省だが、槇村君もちょっと言葉が過ぎるところがありはしないか? 法廷で、彼は『わが心において服さざれば、天皇陛下の命といえども奉せず』と言い放ったそうじゃないか。いくらなんでも、これはちょっとまずいぜ」
「うーん、向こうをそうとう怒らせたことは確かだが、あいつの口をふさぐことはできないよ。放言は彼の持ち味のひとつだから、直しようがない。問題は、司法省が最初から彼を罰することを目的に裁判をしかけていることだよ。だから自白書もなく、いきなり拘留したりする。公平性もなにもあったものじゃない」
 木戸ははやく槇村問題を終結させたかったが、この一件が思わぬかたちで決着したのは十二月も末になってからだった。それはのちに語ることにして、杉村は話題を変えて、悩ましい槇村問題から木戸の注意をそらそうとした。

「そう、そう、思い出したけど、例の掛軸だが。君が欲しがっている、あの藤田東湖のさ」
「あ、ああ。どうなった? たしか、僕の持っている何かと交換したいとか言っていたよね」
「そう。その何かがわかったんだよ」
 木戸は正面を向いていた顔を横に振って、杉村をみた。
「なに? まさか、僕がすでに持っている藤田先生の書幅ではないよね」
 木戸がまだ江戸遊学中、塾頭をしていた斎藤道場で水戸藩士と知り合い、この者から藤田の書幅を入手していた。水戸学者で尊王攘夷論者でもあった藤田は多くの志士から信望を集めていたが、安政二年の大地震において不幸にも圧死してしまった。
「あれはだめだよ。晋作にしつこく欲しいと乞われても断ったんだから。同じ藤田先生の書でも交換はしない。今、所有しているものを手放すつもりはないよ」
「いや、違うよ。それじゃない」
「じゃあ、なに? 他のものなら考えないでもない」
「うん。あれさ」
「あれって?」
 杉村はすこし間をおいてから、
「君の肖像画。つまり僕が描いた――」
 一瞬、沈黙があった。が、すぐに、
「僕の肖像画だって? おかしいな。どうして知っているんだ」
「僕が話したのさ。別に秘密ではないだろ。今、なにを描いているんだ、って聞かれたから正直に話したまでだ」
 笑って答えた相手に、木戸はすこし憮然として、
「そんな、絵を見てもいないのに、なぜ欲しがるのだ」
「いや、見ている」
「な、なんだって?」
「見ているよ。後日になるが、その肖像画を一度見たいのだが、って頼まれたんだ」
 木戸は疑わしい視線を相手に向けた。
「それで、見せたのか?」
「ああ、その時君は留守だったが、肖像画のある部屋に案内した」
「な、なんで僕に断りもなく、人に見せるのだ!」
 肖像画の主はいきなり起ち上がって、怒ったように声をあげた。
「おいおい、自分の作品をどうして人に見せちゃいけないんだ。おかしなやつだなあ。君にとって、なにか不都合なことでもあるのかね」
 画家のほうは、そのモデルがなぜ急に怒り出したのか、解せない面持ちだった。
「君はあの絵があまりお好きじゃないようだから、いっそ交換してやったらどうだい。それで藤田先生の新たな書幅を入手できるなら、満足だろう」
 モデルはなにか苛々したように親指の爪を噛みはじめた。
「いったい何が気に入らないんだよ。あの絵に未練があるわけではなかろう。肖像画が完成した時以来、君は僕にあずけたまま、一度もあれを見ようとしなかったじゃないか」
「……」
「先方はあれを一目見て、『すばらしい』と気に入ってくれたのだよ。画家としては、そういう人に所有してもらえれば嬉しいものだがね」
 木戸は黙ったまま、陽が傾きはじめた西の空に顔を動かして目を閉じた。庭の樹々の間からひんやりとした秋風が吹き抜けて、彼はひとつ深呼吸をした。

――そうだ、いったいなにを興奮しているのだ。あの肖像画を思い出すと、なぜ、心が騒ぐのか。若き日の自分を見て、こんなにも胸がうずくのはなぜなのだ?

 過ぎ去った、明日の生死もわからぬ「激動の日々」に比べれば、政争の煩わしさはあるとはいえ、今のほうがよほど平穏であるはずなのに、心は数倍も苦しく、生き残ったことを後悔しさえする。木戸にはまだ気持ちの整理がつかなかった。自分の若き分身を、手放すべきか、手元においておくべきか――
「そうだね。悪い条件ではないよ。だが、もうすこし考えさせてくれないか。せっかく君が描いてくれたのに、あっさり人に譲るのは気が引けることもあるし」
 冷静さを取りもどすと、モデルは静かな口調で言った。
「そりゃ、かまわないさ。決定権は君にあるのだから、ゆっくり考えたらいい。あの肖像画を何かと交換しようが、譲ろうが、僕が気にすることはないから、僕への配慮は無用だよ。すべては君の思いのままにしたらいい」
 杉村は自分が描いた肖像画がモデル本人を、なんらかの理由で悩ましていることに、少々後ろめたさを感じていた。だが同時に、自分の作品が、若いころから追いかけても、けっして追いつけなかった相手、ついには維新政府のトップリーダーにまでのぼり詰めた『偉大な友』に動揺をあたえ、彼の心に本人も制御不能の化学反応を起こさせている状況に、ある種の加虐的な喜びを感じてもいた。芸術は計算どおりの結果をもたらさず、思いがけない効果を生むこともあるからおもしろいのだ、と画家は心の中で思った。


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