[小説・木戸孝允]

明治六年秋

(十八) 大久保、木戸を説得 − 槇村問題の決着

 江藤新平が職を辞して政府を去ったあとに、司法卿を継いだのは大木喬任(佐賀)だった。その時、彼は大久保から、警保寮を司法省から新設の内務省にうつす方針を告げられた。政府をおびやかす反対勢力を制圧できるだけの警察力を持つことが大久保の目的だった。しかし、その警保寮が槇村裁判をめぐって動揺しており、司法卿に就任して間もない大木は困惑していた。槇村釈放という寛大な措置に抗議して、司法大輔福岡孝弟以下、島本仲道(土佐)、樺山資綱(薩摩)も辞職してしまったので、大木は島本(警保頭兼大検事)の後釜に河野敏謙(土佐)を据えて、警保寮内の不穏な動きを探らせていた。警保寮を健全な状態で大久保に引き渡さなければならなかったが、この槇村問題は最初からこじれにこじれ、すぐには解決しそうになかった。

 警官には薩藩出身者が多く、先の政争に敗れて下野した西郷崇拝者も少なくなかった。しかも司法省と裁判でもめている相手は長州人であり、その者たちの背後には長州閥の巨魁・木戸孝允がいる。この軍・政ともに混乱している時期に、どちらが不満を募らせても危うい状況を生じさせかねず、さすがの大久保もその対応に苦慮していた。木戸がいずれの省の長官に就くことも承知せず、隠退さえほのめかしていたので、大久保自身も内務卿になることを差し控えていた。しかし、外交、内政ともに山積みする問題を片付けるためには、大久保以外に適任者はおらず、11月29日、彼はようやく意を決して内務卿に就任した。内務省は国内の治安維持など警保寮の専務ばかりでなく、戸籍・農林・土木・地理・逓信などの各省も包括していたので、大久保は強大な権力を掌握することになった。

 とはいえ、まだ省務は開始しておらず、外交・内政ともに多くの問題を抱えているうえに、さらにやっかいな話が持ち上がっていた。それは大西郷の復職問題で、大久保は岩倉から手紙で報らされた。西郷に同情する警保寮の官吏らが三条実美に訴えたのだ。三条は留守政府の一員であるどころか、その首班であり、西郷の遣韓使節をめぐる閣議継続中に発病してその職責を全うできなかった。病気が快癒した時には、すでに西郷以下、留守政府のメンバーは大方辞職して政府を去っており、三条は自分ひとり政府に留まることを潔しとしなかった。辞表を提出した三条に同情して、天皇を動かすまで彼の職務(太政大臣)復帰に向けて尽力したのは、木戸だった。その努力の甲斐あって、三条は辞表を撤回し、12月25日には職務に復帰することになった。

 三条が留守政府のメンバーと緊密な関係を保っていたことを考えれば、西郷らの復職運動をする者が、第一に三条を頼ったのは当然のことだった。三条はこれまでの関係もあり、また政府にとっても西郷以下、前参議らの復職を良いこととみたのか、この件を岩倉に持ちかけて相談した。さすがに岩倉は内心、まずい、と思ったが、大久保に報らさないわけにはいかなかった。この問題に関する岩倉の手紙を読んで、大久保はおどろいた。征韓論者に担がれたとも思える西郷とやむなく対立し、激しく論争して、知力、体力を消耗した末に、ようやく政敵を退けたこれまでの苦労は何だったのか? 今さら神輿の西郷が復帰するなど、あり得ることではなく、また西郷自身がそれを承諾するはずもなかった。問題は紛争を再燃させようとする雑魚どもだ、と大久保は思った。

 今日の国難に対しては、一身をなげうって尽力する覚悟はできております、と大久保は岩倉への返書に記した。要約すると、
 
 しかし、今朝の御内話は意外なことだったので、反対の意見を申し上げました。太政大臣公(三条)を決してご非難申し上げるつもりはありません。前参議をみな復職させて、分裂前の状態にもどすと御決定されるならば、私に異存はなく、公議の決するところに従うまでです。ただ、私の一身については自ら決断させてください。

 大久保は職を辞する覚悟をもって、この問題に臨んだのだ。もちろん、西郷に代えて、現政府から大久保を失うなど、両大臣の望むところではなかったから、本件がこれ以上、公に協議されることはなかった。しかし、大久保はこの問題の出火元を不問に付すほど不用心な漢ではない。彼はただちに川路利良(警保助)を呼んで、その対策にあたらせた。また、岸良兼養(司法権大検事)には、三条公の身辺に目を配り、近づくものに用心するよう、手紙で指示した。大久保は探偵を使って、警保寮の誰々が不満分子であるのか、大方の目星をつけていた。警保寮を内務省にうつす前に、危険な徒は一掃しなければならない、と大久保は思っていた。

 もうひとつ、大久保が注視していた問題は槇村裁判だが、『征韓論』政争の影響で中断していた公判が12月23日、臨時裁判所において再開された。その結果、参座(陪審)一同の投票により「槇村正直は無罪」と決せられた。後に公判が予定されている、長谷信篤(京都府知事)と関谷生三(京都府大属)に対しても「無罪」の評決がなされる可能性が大きくなり、司法卿大木喬任は三条宛てに抗議の上申をした。警保寮の反発は必至と思われたからだ。彼は、法廷で槇村が発した暴言の記録を問題視し、「参座は自らの意見に固執して、裁判官としては討論もしがたい。こうなれば、槇村正直を法廷で糾弾して恐れ入らせるために、拷問を用いる以外にない。なにとぞ上申をご判断いただいて、正院のご指揮をお願いしたい」

 槇村を拷問せよ、というのはいささか乱暴だが、大木は警保寮の怒りにまかせての暴発を恐れていた。この無罪判決については、木戸孝允の影響力を意識しないわけにはいかなかった。先に提出された警保寮幹部の上書にも、「もし政府が愛憎をもって法憲を軽重するような曖昧なことをすれば、国家の大臣は信じることができない〜」とか、「なぜ政府は正直一人に寛大であり、無知の小民に過酷なのでしょうか」など、多分に長州閥の親分を意識した言葉が使われていた。

 しかし、大木が江藤新平に意見を求めたところ、江藤は「槇村正直にたいして口供結案(自白調書)がないまま、特命によって贖罪金六円に処断した。特命の御裁可によって判決した以上は、あらたな特命にもとづいて、逆転判決になるのも仕方がない」と答えていた。まったくの正論だが、その正論がもはや感情論に圧倒されて、「面子を保つか、潰されるか」の問題に堕ちてしまっていた。こうなると、もはや「泣く子と地頭には勝てない」ということになり、
「この問題はもう、私の手に余ります」
 大木は匙を投げて、大久保に泣きついた。内務卿は眉根を寄せて、しばらく沈黙していたが、
「では、俺が何とかしよう」
 決意に満ちた声で答えた。

 年末も押しせまったころ、大久保は木戸孝允邸の客室で、主人と対峙していた。
「大久保さん、何の用です。井上から聞いていないのですか。すでに僕は文部卿になることを承諾しましたから」
 木戸は大久保が人事問題で、就任の催促に来たのではないかと、しぶい顔をした。
「いえ、その件ではありません。参議兼文部卿を受け入れてくださったことは、聞いておりますよ。私もこれで安心しました。今日、窺ったのは、そのことではなく、裁判の件について、お話ししたいと思いまして」
 木戸はぎょっとしたような表情で、相手を見た。
「裁判って、なんです。なんの裁判ですか」
「もちろん、司法省と京都府の、つまり槇村正直君の裁判ですよ」
 木戸は沈黙した。顔はやや青ざめており、相手から目をそらせていた。
「はっきり言いましょう。あなたを説得に来たのです。槇村を無罪にしては、司法省は不満を抑えきれずに、やがて爆発してしまうでしょう。それはあなたのためにも、私のためにもよろしくない」
「いや、あなたにとって、まずいことなのでしょう、内務卿。つまり警保寮を無傷のまま内務省に移したいと――」
 すべて承知しているぞ、とばかりに木戸は言いはなった。
「まあ、それもあります。しかし、もっと大局的な見地から言っているのです。現在、各地の不穏な状況については、あなたも察しておられましょう」
「……」
「とくに土佐士族には、東京でもなにやら不穏な動きがみられます」
「……」
「陸軍大将の西郷が去り、近衛局の幹部らも鹿児島に去って、現在、軍部はガタガタになっています。そんな状況下にあって、警察力の強化は焦眉の急ではありませんか」
  いったん言葉をのんで、大久保はすこし相手の様子をうかがった。
「それで、槇村裁判の件が弊害になっている、と言いたいのですか」
 不機嫌そうに、木戸が弱々しい声でたずねた。
「残念ながら、そう言わざるを得ません。わかってほしいのです、木戸さん」
 大久保はできるだけ丁寧に説明して、時間をかけて木戸の説得に努めた。槇村らを無罪放免すれば、警保寮幹部らの不満の解消はほとんど難しくなること。そうなれば、警察組織の再編成も容易ではなく、警保寮の内務省への移動も大幅に遅れて、不慮の事態に対応できなくなるかもしれないこと――。
「ここは、槇村君に泣いてもらうしかないのです。もはや拘留されることはないが、罰金刑は免れられないでしょう」
 槇村にはそう言い含めて、有罪判決を受け入れてもらいたい。罰金刑ですべてまるく収まるなら、それほど悪い取引ではない。国内の治安を維持するためには、どうしても不満を持つ警察官の懐柔がいま必要なのだ、と。大久保の必死の説得を受けて、木戸のかたくなな態度にも変化が生じ、不快げな表情にはあきらめに似た色合いが混ざりはじめた。彼もわかっていたのだ。大久保が様々な問題の処理で、相当に苦労していることを。樺太問題では、大久保自ら遣露使節となって交渉にあたろうとしたが、岩倉らに反対されて断念した。華士族の禄税や海外留学生の召喚問題に関しては、当の木戸と意見が対立していた。木戸は禄税の徴収にも、留学生召喚にも、反対していたのだ。

 槇村問題については、これ以上大久保の意見を拒否することに、木戸は疲労を感じだしていた。自分が首を縦に振らないかぎり、この男はこの場を去らず、一晩中でも説得を続けるだろう。ここが落としどころかもしれず、もはや自分が突っ張ることはむなしく、時間の空費にもなろう。
「わかりました、大久保さん。あなたの解決策を受け入れましょう」
 深いため息をついて、木戸は最後の答えをだすと、皮肉っぽく言い足した。
「どうせお膳立てはすべて整っているのでしょう」
「ありがとうございます、木戸さん。本当に恐縮ですが、年内に解決しましょう。もう一度公判がありますが、それが最後です。なあに、すべてうまくいきますよ。以後は槇村君も仕事に復帰して、みな元どおりになりますから」
 安堵したのか、思わず木戸の手を取って話す大久保はすこし微笑んで、嬉しそうでもあった。他の者がめったに目にしない表情かもしれなかった。木戸も仕方がない、というような、あきらめの微笑みをかえして、黙ってうなずくほかなかった。

 明治六年十二月三十一日、臨時裁判所において「京都府と京都裁判所の権限争議」の判決公判が開かれた。被告人への判決は、懲役百日のところ、官吏贖罪例により、
  贖金四十円 長谷信篤
  贖金三十円 槇村正直

 その他の関係者数名にも、それぞれ若干の贖金が申しつけられ、逆転有罪となった京都府の全面敗訴で決着した。なお、前回の公判で槇村を無罪とした参座は解散させられたのか、今回の判決には関与しなかった。

 明治七年一月九日、司法省の警保寮が内務省にうつされ、約四千人の官員が転属した。新設の内務省に大久保が馬車に乗って現れると、全職員が緊張して咳払いひとつしない静寂の中、内務卿の靴音だけがコツコツと、庁舎の隅々にまで響きわたったという。


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