[小説・木戸孝允]

明治六年秋

(三) 三条の苦境

 待ち人は帰ってきた。西郷隆盛は岩倉が帰国すれば、すぐにも廟議がひらかれ自分の朝鮮派遣が正式に決定されると単純に信じ込んでいた。ところが実際は、そうはいかなかったのだ。去る二月、まだパリ滞在中に岩倉は養父具慶の訃報をうけた。帰国後、彼は養父の喪に服すことをねがって、九月十八日付で五十日の賜暇を請う書を三条実美太政大臣に提出した。驚いたのは、これを受けとった三条本人である。政権主流派ではひとりだけ日本に取り残された三条こそ、岩倉らの帰国をどれほど首を長くして待っていたことか。とくに幕末以来、深い縁のある長州の頭目たる木戸の渡航を彼は最初から望んでいなかった。

 岩倉が去り、大久保が去り、そのうえ木戸まで海外に去ってしまったら、自分はいったい誰をたよりに廃藩置県後の不安定な国内情勢のなかで、難しい国政の舵取りをしてゆけばよいのか。当時、三条は三十四歳で岩倉より十二歳も若かった。それでも岩倉より上位の太政大臣を務めていたのは、朝廷では五摂家につぐ清華家の出身で、貧乏公家だった岩倉より身分が高かったからである。幕末において攘夷反幕派の筆頭公家だった三条と公武合体策を推進していた岩倉とは犬猿の仲だった。だが、土佐の浪士中岡慎太郎らの仲介で和解し、薩長連合を機軸に双方が協力して倒幕を成し遂げたという経緯がある。

 その頃から比べると三条はだいぶ自己主張をよわめ、岩倉とほとんど争うこともなく温和な太政大臣に徹している。それは木戸と大久保がしばしば政治上の意見を異にして相争うことが少なくなかったので、調停役として岩倉とともに薩長を代表する両巨頭の融和を図らざるを得なかったという事情もあっただろう。この二人が対立すれば、発足したばかりの新政府は瓦解の危機にさらされるという共通の認識を三条、岩倉は持っていたに違いないが、薩摩との関係を深めてきた岩倉は、必然的に大久保の意見を採ることが多くなることもまた否めなかった。

 維新後はそんな岩倉に押されぎみで、米欧使節団の件も、木戸を是が非でも副使として同行させるという岩倉に加えて伊藤、井上など口達者な長州人の説得に抗しきれず、三条は渋々承諾したのである。使節団が出発するや案の定、国内外の問題がいろいろと表面にあらわれてきて、三条ははなはだ困却した。しばらく鹿児島にいた西郷はそれまでの政情に疎いこともあり、積極的に政治に関与しようとしなかったので、留守政府を統率するものがいなかった。それに乗じて、各省の高官などがそれぞれ勝手なことをやりはじめたのである。さらに、大蔵省の予算をめぐる紛糾、樺太、台湾、朝鮮問題などの重要案件を処理しきれず、三条はついに木戸、大久保に帰朝命令を発するにいたる。ところが木戸は大久保といっしょに帰国の途につくことを望まず、別行動をとり、大久保よりおよそ二か月遅れて七月二十三日に帰国したのである。外遊中に木戸は伊藤や大久保との間に意見の相違や感情の齟齬をきたし、気まずい状態になっていた。

 三条は帰国後も大久保、木戸が政府に寄り付かないことに失望していた。とくに木戸は西郷の朝鮮派遣を三条が許してしまったことを怒っているらしく、自分に対して機嫌がよくないように感じていた。やっと相談相手として期待していた岩倉が帰ってきたと喜んでいたら、いきなり五十日の休暇を願い出たのだから、とても受け入れられることではなかった。渡韓の準備を着々と進めている西郷がそんなに待てるはずもないのだ。三条はさっそく岩倉に返事を書き、「故人を想う気持ちはわかるけれども、国事が切迫している折なので、休暇のことはなんとか思いとどまってほしい」と泣くような気持ちで訴えた。

 岩倉が喪に服するという理由だけで五十日の休暇を願い出たのか、その本心は微妙である。洋行組はみな内治優先で一致してはいたが、まだそれぞれがばらばらな状態だったから、征韓派に対抗する陣容を早急に整える必要があった。まず、関係がギクシャクしている木戸と大久保を協力させるため、できるだけ時間を稼ぎたいというのが岩倉の本音だっただろう。だが三条の苦境も考慮して、その後岩倉は十日の暇を請うたが、最終的には二十四日から七日間ということで妥協した。それまでの間、事態がまったく動いていなかったわけではない。むしろ水面下で木戸、大久保に対する説得工作はすでに始まっていた。

 伊藤は帰国した翌日の十四日には木戸邸を訪れて本人と面会し、外遊中に木戸の感情を害した問題について弁解にこれ努め、彼を慰撫し、その意を迎えることに全力を傾注した。滞米中に伊藤は使節団に対する米国側の盛大な歓迎ぶりに感激したあまり、また駐米外交官・森有礼の口車にも乗って、条約改正の仮交渉を正式な交渉に変えようと積極的に活動した。その結果、伊藤が大久保とともに正式交渉に必要な天皇の委任状を日本に取りにもどることになり、木戸らは四か月もの予定外の米国滞留を余儀なくされた。伊藤、大久保が一時帰国中、木戸や岩倉は交渉の不利なることの情報を得て、行き詰まり状態に陥っていた。

 幕末において旧幕府が欧米諸国と取り交わした通商条約には「最恵国」に関する一条が入っていた。ある国との条約改正交渉でその国に有利な条件を与えると、他の国にもその有利な条件がすべて自動的に適用されるという趣意だった。森はそれを最初から知っていながら、功名心のためか使節団首脳にはなにも告げず、裏で勝手に米国側と妙な下交渉をしていたのである。彼は西洋文明を礼賛し、米国に心酔して、こちらの事情に疎い使節団メンバーを馬鹿するような態度をしばしば示していた。

 「最恵国」条款の重要な意味を最初に日本側に伝えたのは、駐日ドイツ公使フォン・ブラントだった。後日、尾崎三良(三条実美の側近)と河北俊弼(長州人)が留学生を代表してロンドンからやってきた。二人は木戸らに同様の話をしたので、今、直ちに条約を改正することが日本にとって「百害あって一利もない」ことが改めて確認された。結局、大久保と伊藤が委任状を携えてワシントンに戻ってきた時点で交渉の打ち切りが決定される。その間、実に十一回におよんだ交渉はまったく無益、徒労に終わったのである。その後におよんでも伊藤は、日本をキリスト教国にすれば交渉が有利になる、などと木戸に進言していた。伊藤も軽はずみに森に同調したことで引っ込みがつかなかったのかもしれない。当然、木戸は激怒した。

 イギリスに渡ってから、木戸は伊藤の軽薄な言動を面と向かって激しく叱責した。それ以来、木戸は専ら留学生たちを話相手に時を過ごすことが多くなり、伊藤も木戸に近づき難くなって、自然と大久保に接近するようになっていったのである。
 だが、一時的に不仲になったとはいえ、二人は安政年以来の長い付き合いである。刑死した恩師・吉田松陰をともに葬り、やがて尊攘運動に命を賭け、なん度も戦火をかいくぐって明治維新を成し遂げた兄弟のような同志なのである。だからこそ木戸も伊藤の弁解をあっさり受け入れられたのだろう。結局、二人はまた元の関係に落ち着いた。これでいよいよ留守政府の征韓論阻止にむけ、木戸と大久保を協力させて内治派の結束を固める工作に着手できる、と伊藤はほっとした。だが、それもつかの間、翌日、彼は木戸から手紙を受け取った。その主旨は、

 私は大使や留守の諸先生がたにも信用を失い、私のほうも信用していないので、この際、公私のこともよく考えたうえで、素志を遂げたいと思っています。

 素志とは辞職の意味であることを、伊藤はもとより理解していた。木戸の辞職願いは今にはじまったことではない。維新当初からその意思あることを表していたし、幕末に長州藩で要職に就いていたころにも何度か辞表を提出しており、高杉晋作など周囲の者が説得に大汗をかいているのだ。こんなことでいちいち驚いていたら木戸の部下など務まらない、と伊藤は思っている。大体あの人は「金持のぼっちゃん」育ちのせいか、どうもわがままなところがある。自分の立場をよくよく考えてほしいのだが――。とにかく大久保にあたることが先決だろう。木戸はそのあとで説得すればいい、と伊藤はしばらく木戸のことはほうっておくことにした。大久保が参議に就いて廟堂に立たないかぎり、留守政府の野望を打ち砕くことは不可能であることを伊藤は誰よりもよく知っていた。一度権力を手中にした土肥出身の参議たちが、そうやすやすとそれを手放すはずもないのだ。西郷という大船に乗れば、木戸、大久保などの内治派を蹴散らせると彼らは思っている。彼らの本当の目的は薩長人が主流を成す政権奪取にあることは疑う余地がない、というのが伊藤の信ずるところだった。

 一方、留守政府のメンバーにしてみれば、外遊組が帰ってきたからといって、「それではすべてを元に戻しましょう」などと言えるものではない。彼らにも木戸、大久保らが留守の間、自分たちだけで国家を運営してきたという政治家としての矜持がある。さらに続けて自分たちの政策を推進し、その地位を死守しようとするのは当然の反応ともいえた。
 木戸の辞職願望については伊藤よりも三条のほうが気に病んでいた。なぜなら、前日付で三条も木戸から辞職を請う手紙を受け取っていたからだ。もちろん三条はほうっておけない。彼はさっそく木戸に返事を書き、辞意撤回について必死に説得した。

 皇国の浮沈、王政一新の成否は今日にこそありますから、貴方のように柱石の重臣が退遁辞表にあいなりましては、何をもって国家を保護し、国脈を維持いたせばよいのでしょうか。(略)ひとえに国家のために憤発尽力、朝廷億兆(国民)のために奉職勉励なされるべく希望いたしております。

 この時期の三条ほど気の毒な立場にあった者はいないだろう。朝鮮使節派遣のことにしても、西郷のあの巨眼に睨まれたら反対できるはずもないのだ。百獣の王ひとたび吼えれば周囲はみなこれに屈服する。誰もあえて西郷を止める者など現われはしなかった。ところが木戸はこれに大いに不満である。三条は木戸が反対していることを知って当惑し、同じ手紙の中で、「内決とはいっても、とにかく大使が帰朝してから評議することになっていますから、その可否得失についてはあくまでも討論して決することになりましょう」と弁解した。

 つまり、朝鮮問題についてはまだなにも決定してはいないのです、と言っているようなもので、もし西郷がこれを読んだら怒るだろう。三条はまさに留守政府と洋行組との板ばさみ状態にあった。だが、彼は西郷を恐れながらも、その心はやはり木戸ら洋行組に拠っていた。帰朝まもない岩倉に三条は手紙で、「大久保、木戸の両氏が政府に出勤のはこびにならなくては、百事治まり申さず、木戸には貴方より事情をお聞き取りくださって、なんとか説得していただけませんか」と助けを求めている。

 三条にしろ、岩倉にしろ、木戸と大久保が協力して廟堂に立ち、征韓派に対することが理想と考えていただろうが、木戸は持病を抱えてもおり、なかなか積極的に動ける状態ではない。伊藤も大久保の説得のほうが先だと思っている。その大久保が二十一日にようやく戻ってきたので、翌日、伊藤はさっそく大久保を訪問した。その後、二十四日には大久保と伊藤が岩倉邸を訪れ、三人で内談した。このとき、三人は国内の政治を第一とすることを確認した。同日、伊藤と大久保は木戸の協力を得るべく、その私邸を訪れ木戸の賛同をとりつけた。だが、木戸の意見は、大久保と伊藤が参議になってその目的を貫徹すべし、というものだった。要するに辞意を撤回するつもりはないのである。

 さらに同じ日に、木戸の動静を心配した岩倉が伊藤を訪ねている。伊藤は、木戸の意見として、大久保を参議にすることが重要なので、岩倉から大久保を説得してほしいと伝えると、岩倉も同様に思っていたので大久保を参議に推薦することを約束した。こうして内治派の歯車はすこしずつ着実に動き出していた。内治派の結束を促す水面下の活動には、伊藤とともに薩摩の黒田清隆が相当な働きをするのだが、彼のことはいずれ別のところで語ろうと思う。
 風雲をよぶ歯車は動きだしたものの、まだ前途多難という様相で、岩倉も、三条も、大きな壁にぶちあたっていた。肝心の大久保が参議の任を受けようとしなかったのである。
「固くお断りいたします」
 大久保の返事はにべもなかった。三条と岩倉は当惑した。留守政府の征韓論に反対することではみな一致している。反対するためには誰かが閣議に出席して、反対意見を述べなければならない。参議としてその資格のある木戸はすでに三条に対して辞職を請い、大久保と伊藤が参議になってやるべしと主張している。だが大久保は動かない。動かざること山のごとし、だ。いったい彼はなにを考えていたのだろうか。


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