[小説・木戸孝允]

明治六年秋

(四) 大久保動かず

 気心の知れた竹馬の友も距離をへだてて暮らしていれば、再会したときには意思の齟齬をきたすことがしばしばある。周囲の環境の違いもあるだろうし、接する人々もまた異なるのだから、人間は現状に適応するために自らの習慣や思想を変えることもある。過去に馴染んだものの記憶がうすれ、新たなものに親しみを感じるようにもなる。物事を見る眼も変わってくる。以前は共有していた価値観が、時代の変化とともにそれぞれ異なってくることは極めて自然なことであるのかもしれない。

 大久保はすでに西郷と自分との間に越えられない障壁が生じてしまったことを意識していた。西郷を説得することはもはや不可能であることを彼は悟っている。いや、西郷ひとりの問題ではなかった。帰国の大幅な遅延が外遊組と留守組との間に埋めることのできない深い溝を生んでしまったことは疑いようもなかった。要するに、大久保ら政権主流派の米欧視察は、廟堂における非主流派、すなわち土肥出身者の政治的野心を醸成させるには十分な時間をもたらしてしまった、ということなのだ。しかも彼らは征韓派として、西郷という、またとない担ぐべき神輿を手中にしている。西郷自身はそうした周囲の思惑をこえて、ただ自分のなさんと望むところをなすべく直進するばかりだ。そうした彼の行動がおよぼす影響の大きさなど考えるより前に、なにかに憑かれたように一途に朝鮮半島へ赴こうとしている。もはや誰もそれを止め難い状況にある。

 だが、大久保には別にやりたい仕事がある。国内政治を安定させ、国を富ませ、欧米列強に伍してゆるぎない天皇制国家を建設することである。その重要な機構として一日も早く内務省を創設したい。そのためには確固たる権力を手中にする必要があるのだが、今それが危うくなりつつあった。現在、国政の牛耳を執っているのは土肥を中心とする留守政府だが、彼らだけならば、今後において政権主流派を凌駕するような勢力にはなり得ないだろう。だがそこに別の有力な人物がからめばことは違ってくる。実際に大久保の立場を危うくしているのは同郷の西郷であった。しかし、西郷自身はそれに気づいていないのか、あるいは気づいていてもたいした問題ではないとみなしているのか。自分の行動に薩長を敵視するものが便乗して、その勢力を伸ばそうが、伸ばすまいが、彼にはまったく関心がないようであった。

 西郷の説得が不可能ならば、別の手段を用いて彼の朝鮮行きを阻止するほかない、と大久保は考える。彼はけっして西郷の遣韓使節じたいを問題にしているのではなかった。それに付随して生ずる政情の変化が、外遊組には著しい不利益をもたらすだろうことを、彼は直感的に予測していた。若年から現在にいたるまでの非常な困苦が報われないかたちで、政治家としての一線から退かなければならなくなるかもしれないのだ。それは人生がまさに政治そのものであった自らの生き様を終焉させることでもあった。そこに思い至れば、たとえ不本意ではあっても、西郷とは対決せざるを得ないという結論に達する。

 だが、自分は西郷に勝てるだろうか?

 大久保は自問する。西郷の声望と背後にひかえる軍事力に、岩倉や三条の心は揺れ動きはしないか。自分の政治的な力量を信じて、彼らは最後まで自分についてきてくれるだろうか。うっかり参議になることを承諾して、征韓派が支援する西郷と対決している最中に、怖気づいた二人に土壇場で梯子を外されやしないか。幕末以来の盟友で、肝のすわった岩倉といえども所詮は公家出身。軍事力をおそれる気質が失われているわけではなかろう。

 大久保にはいまひとつの懸念があった。それは長州閥の長たる木戸孝允である。伊藤があらゆる手を尽くして木戸を慰撫しているのは承知している。しかし木戸は病を理由に、辞職の意思を撤回しようという気もないのだ。同じ薩摩出身の二人が自己の政治生命をかけて対決するとしたら、勝敗を決める重要な条件はなにか――倒幕・維新を実現させた同盟の相手である長州人をまるごと味方につける以外にない。それにはその頭たる木戸をしっかり自らの陣営に囲っておかなければならない。現在も、そして将来にわたっても、彼をけっして外に逃がさないことだ。

 大久保がいささか安堵しているのは、西郷が未だそれに気づいていないことだった。いや、彼の性格からしてそうした戦術を実行するとは思えない。たとえ、その重要性に気づいたとしても、西郷は自己の力を頼み、いまさら木戸を懐柔しようなどとはまず考えないだろう。そこが大久保と西郷の違いなのかもしれなかった。守りを十二分に固めなければ、こんな危うい大勝負うかつには引き受けられない、と大久保は思っている。それで、九月末に岩倉が直接大久保邸を訪れて参議就任を懇請した際にも、彼はけっして首肯することはなかった。

「手紙でも申し上げたとおり、まず木戸さんを説得してください。彼が辞職してしまったら、紛争後の政府が安定するとお思いですか。たとえ征韓派を一掃できたとしても、とても政府はもちますまい」
「しかし、木戸は大久保さんを参議にすることが先だと言っている。そうすれば自分は協力すると――」
「いや、彼は身を引くつもりなのですよ。この政府内の紛争が鎮静化されたらね。伊藤からの情報によると、彼はもうかなり悲観的になっているようですから」
 岩倉の言葉を遮るように大久保が言う。
「とにかく木戸さんが辞職を撤回するというまで、私も参議を引き受けるわけには参りません。木戸さんを中心にして、留守政府の征韓論に対する戦略を考えるべきでなのです」
「だが、君が参議に就かなければ、木戸も積極的には動くまい」
「いえ、木戸さんを説得してください。私は島津公との関係もありますから、あまりでしゃばるわけにはいかないのですよ。参議の件はお受けいたしかねますので、三条公にもそうお伝えください」
 直接の説得でも大久保は容易に陥ちず、岩倉は万事休した。


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