[小説・木戸孝允]

明治六年秋

(六) 文明の影

 なにもかもが夢だったような気がする――。日本の不安定な政情に身をおきながら、いま木戸孝允はふりかえる。豪奢な米国のホテル、華やかな晩餐会、広壮な国会議事堂。さらに欧州へわたれば、大都市ロンドンの喧騒と繁栄、古色蒼然とした石造りの建物群。ドーヴァー海峡のむこうに見たフランスの大平野。絵のように美しいシャンゼリゼー街、巨大なモニュメント(凱旋門)、華麗な宮殿や寺院、そして白石造の市街に星のように輝くガス燈のつらなり。
 日本が一国の泰平のなかにまどろんでいた二百数十年の間に、市民革命を起こし、独立戦争をたたかい、産業を盛んにし、議会政治を根づかせた西欧文明のまばゆい光の前で、日本は未だなんと小さく、貧弱で、未発達な国の様相をさらけ出していることか。国の根本を定め、人民を保護する正規(憲法)さえ有してはいないのだ。
 木戸はこの現状を嘆きながらも、文明の光をみる脳裡は、ただちにその影をも記憶から呼び覚まさずにはいられない。夜間のニューヨークの低級な風俗、ロンドンの貧民窟、乞食の多さ、塵芥と怠惰な気に満ちたイタリアの衰退、亡国ポーランンドの惨状、ロシア人民の貧しさ、そして欧州各都市に徘徊する売春婦――。文明国にもいろいろな弊害がある、と木戸は思う。それを理解しないままに、なんでも模倣すればとんでもないことになる。欧米諸国を視察して、木戸はかえって西欧文明にたいする懐疑の念を抱くようになっていた。けっして良いことばかりではないのだ。弱肉強食の資本主義がいき過ぎれば、いったい最後にはなにをもたらすのか。じっくり考える時間をとり、軽薄な模倣者にだけはなるべきではない。

 維新初期における木戸の急進的な欧化策は、いまや漸進主義に変わりつつあった。うわべだけの文明開化に浮かれている現状は、木戸にはにがにがしく思えるし、未だ内治も整わず、国力もない状況で征韓論を唱える徒はさらにがまんがならなかった。いつの場合にも国を危うくするのは無謀な交戦にはしる者たちではないか。幕末において長州は滅亡寸前まで追いこまれ、多くの同志をうしない、自らも辛酸をなめたことを木戸は忘れていなかった。焦ってはならない。着実に国の基礎をかため、人民を教育し、富強にし、社会を安定させることがまず第一にやるべきことではないか。それなのに、西郷や留守政府はいったいなにを――
「ほーら、またなにか瞑想しはじめたな」
 絵筆をおいて杉村が苦笑しながらいう。はっとした表情で木戸が相手に視線をむけた。
「まあ、いいさ。もう絵は完成したから」
「完成――したのか?」
 木戸がまだ半ばうつろな眼をしてきく。
「ああ、完成した。見てくれ。どうせ君は気に入らないだろうが」
 椅子から立ちあがって、木戸は画家のほうに歩みより、画布をのぞきこんだ。生々しい絵の具の匂いが鼻をつく。モデルはしばらく無言でできあがったばかりの絵を凝視していた。だが、その表情に喜色はみえず、むしろ憂いの影が眼に現れていた。
「やっぱり気に入らないんだな。そうだろう? 正直に言ってくれ」
 諦めたように肖像画の描き手がとう。
「いいや、悪くない。いい絵だと思う――。だが、やっぱり僕じゃない」
「そりゃあ、今の君じゃないよ。昔の君だけど、同じ人物だろ。ほら、よく見てくれよ」
 木戸はすこし眉根をよせて見る。なんと溌溂として若々しいのだろう、この青年は。その眼は輝いて、希望の光を宿しているようだ。まだなにも疑わず、なにも恐れてはいない。これは本当に昔の僕だったのだろうか。おそらく、こんな苦しい日々を夢見たわけではなかったのだ。そんな想いに木戸の心はしだいにかき乱されていく。
「どうも部屋に飾りたい、というような顔じゃないね。僕が進呈するといっても」
 いっこうに表情が晴れない相手の顔を見て、さきに杉村が言う。
「うーん。申しわけないが、今この絵を受け取るわけにはゆかない。いや、すてきな絵だよ、本当に。ただ、しばらく時間がほしいのだ。ゆっくり鑑賞する心のゆとりができるまで、君が預かっていてくれないか」
 木戸は絵からはなれて、壁ぎわのソファーにすわりながら言う。
「ええ、ええ、君が欲しくなるまでなん日でも預かりますよ。君がいらない、というなら僕のものにするまでだ。ほかの誰にもこの絵を譲りたくはないからね」
「……」
「だが、松菊」
 杉村はじっと絵を眺めながら、眼を閉じてすわっている相手に話しかけた。
「僕は信じているよ。いつかきっと、君がこの絵を気に入るだろうと。この絵のなかの桂小五郎は、まぎれもなく現在の木戸孝允の分身なのだからね」
 閉じていた眼をあけて、木戸は友を見ながら、口元に弱々しい笑みを浮かべた。


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