[小説・木戸孝允]

明治六年秋

(八) 西郷の決意

 副島外務卿が清国から帰って来たのは七月二十六日だった。副島が帰朝したのだから閣議はただちに開催されるだろう、と西郷は思っていた。だが、翌日も、翌々日も、そのような様子はなかった。当時、西郷はいささか健康を害しており、日本橋小網町の自宅から渋谷の弟従道邸に一時転居していた。最初は灸治療をしていたが効果がなく、ドイツ人医師ホフマンの診察を受けた。肩や胸などの痛みは肥満による血液の循環不全が原因であるといわれて、下剤の服用や食事療法を行っていた。西郷は是が非でも遣韓使節を望んでいたので、医師に勧められた戸外での運動も適当にしながら熱心に健康の回復に努め、閣議の開催については板垣退助に手紙で助力を求めた。また、台湾問題でも出兵準備のことで従道に指示を与えている。その後、副島には直接談判して、使節の役目を譲ってもらうのである。
 
 八月に入ると西郷は三条に意見書を提出し、閣議開催の遅延について不満を述べた。さらに、これ以上朝鮮の驕誇、侮慢を看過するべきではないとし、なにとぞ私を朝鮮に差し遣わされるよう直ちに御評決を願いたい、と強く懇請し、板垣にもその写しを送って重ねて尽力を請うた。西郷はすでに板垣と図って、明治五年に北村重頼(土佐)、別府晋介(薩摩)を朝鮮に、池上四郎(薩摩)と武市熊吉(土佐)ら三人を満州に派遣して、現地の情勢を探らせていた。西郷も軍の最高責任者としてその点にぬかりはない。

 副島の報告によると、清国は「台湾はわが領土であるが、(琉球人を殺害した)生蕃人には支配が及んでいないので責任はとれない」と告げ、朝鮮については「昔から朝貢を受けてはいるが、わが国の属邦ではない。朝鮮国内の統治および戦争と平和の問題は朝鮮が決定することである」と答えたという。これを聞いて副島は、日本が朝鮮と交戦におよんでも清国は介入しないという確信を持ったようだ。
 八月十七日の閣議開催までに、西郷は板垣に五通の手紙を書いている。その要旨は、朝鮮にはまず兵隊ではなく使節を先に派遣すること、樺太のロシア軍侵攻への備えに兵が必要なことを指摘し、さらに、
「公然と使節を差し向ければ、使節は間違いなく殺されるだろう。そこで、なにとぞ私をお遣わし願いたい。副島君のような立派な使節の務めはできないが、死ぬぐらいのことなら自分にもできるだろう」と述べている。
 また、別の手紙には、「この機に戦いに持ち込まなければ、ことは難しい。こうした温順な手口で誘い込めば、必ず戦端を開く機会が生ずるだろう。この一挙に先立って死なすのは不憫などと、姑息の心を起こしてはなにも実現できない。事の前か後かの違いだけなのだから、これまでのご厚情をもって尽力していただければ、死後までご厚意をありがたく思うので、ひたすらお願い申し上げる」

 この時期の西郷の書簡については、人によって見解が相違する。つまり、西郷を征韓論者とみる者、みない者の意見の差である。筆者はあまりそうした論争には深入りしたくない。ただ言えることは、西郷は命を賭して遣韓使節の任を全うしようとしたということだ。その理由をただひとつに求めることはできない。旧主島津氏との確執、それもあるだろう。不平士族の暴発の抑制、それもあるだろう。維新の精神を忘れた政府要人への反発、失望、それもあるだろう。
 だが、もっとも留意すべきは、西郷は日本人だから、ということではないだろうか。彼は単純な平和主義者でもなければ、確信的な征韓論者でもない。西郷を一見無謀な行動に駆り立てるのは、それが同胞のため、あるいは日本のためになるかという純粋な視点ではないかと筆者は推測する。それが当を得ているか否かは別として、もし国のためになるなら、西郷はためらわず一命を差し出すか、大軍を指揮して朝鮮、清国、あるいは他国と戦うことも辞さなかっただろう。それが彼が行使しえる権力であり、権限であるからで、陸軍大将として、戦闘になった場合の準備を常に考えてもいた。
 従道は「兄は智者である」と評したが、それは国内戦をみてもわかることで、江藤や大隈が思うほど西郷は愚鈍な人物ではないのである。ただ彼は、革命に伴う近代化を充分に理解すると同時に、士族が志向する反革命をも同じ熱意で理解するという、矛盾した一面があったかもしれない。そこに西郷という人物が内包する危うさを視る者もいたのだろう。

 副島の説得にも成功し、八月十七日にはようやく閣議が開かれて、既述したように西郷の遣韓使節の就任が内定する。ただ、渡韓は岩倉大使の帰朝を待ってからということになったのだが、三条が箱根まで静養中の天皇を訪ねて裁可も得てきたことから、西郷はすっかり安心していた。
 ところが、伏兵は思わぬところにいた。弟の従道と、自分の味方だと思っていた黒田清隆である。ふたりは西郷が朝鮮に赴くことに、内心では反対だったのだ。黒田は樺太問題を取り上げて、板垣、後藤、江藤ら征韓派に対して若干の抵抗を試みたが、たいして効果を上げなかったし、西郷もすぐに忘れて気にもとめなかった。従道(小西郷と呼ばれていた)は、遠慮して正面から大西郷(隆盛)に反対論を唱えることはなかった。ただ、従道の間接的な言動を耳にして、積極的に賛成していないことは兄も気づいていた。従道は兄の渡韓には懐疑的であったし、兄の身を案じてもいたのだろう。西郷はそんな弟を「狐疑深い信吾(従道の通称)」と言って不快感を表しもしたが、従道は陸軍大輔であったので、一応はっきりと賛成させる必要があった。
 当時の陸軍卿は山県有朋(長州)だが、彼は地方の鎮台を巡視中で東京を留守にしていた。山県自身は朝鮮への出兵は時期尚早という意見だった。しかし、公金のからむ山城屋和助事件を引き起こし窮地に陥った際に、西郷に助けられた山県は恩義を感じており、征韓論をめぐる政争の渦中から逃れようという意識があったのかもしれない。山県不在の陸軍省では事実上のトップである従道のことを、西郷は黒田に依頼したのである。西郷の見込み違いはあっても、このふたりや他の者の反対なら、たいした脅威にはならなかっただろう。

 問題は、すでに外遊を終えて日本にいながら、めだった行動も起こさず、不気味な沈黙を守っている大久保の存在だった。西郷は大久保とは何度か会って、朝鮮問題を話題にしている。それを目撃した高島鞆之助によると、西郷と大久保は座敷に寝転がって話していた。すると、ふたりの間に論争がはじまり、西郷がムクッと起き上がった。大久保も起き上がり、しばらくふたりは鋭くにらみ合っていたが、ふいに西郷が立ち上がり、
「鞆どん、もどろ」
 といって、座敷を出て行った。高島はあわててあとを追ったが、西郷の様子は怒気をおびていて恐かった。玄関を出たところで振りかえり、
「鞆どん、あんカステラ、うまかった。まだだいぶ残っとった。おはん、もってきて賜もはんか」
 西郷の顔はもうふつうで、いたずら小僧のような表情をしていた。高島が座敷に引きかえすと、大久保は寝そべっており、じろりと高島を見た。カステラの鉢は大久保の横にあった。
「この菓子をいただいてこいという西郷先生のお言葉でごわすから」
 高島がおそるおそる言うと、大久保は返事をせず、向うに寝返りを打った。高島は大急ぎでカステラを紙につつみ、おじぎをして引き返した。
「もろうてまいりました」
「そうか、そうか、そらよかった」
 西郷はうれしげに笑った。それから、まもなくして西郷は大久保を訪問しなくなったという。だが、そのときには西郷は、大久保が長州の木戸孝允と組んで強力な反征韓派となり、自分の前に立ちはだかるとは夢にも思っていなかっただろう。両者にとっても、維新政府にとっても、それ以降のことは実に不幸な出来事ではあったが、回避し得ない運命だったのかもしれない。


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