第二章 桂が斬られた! (1) 歓之助もずいぶん変わった。以前なら相手を打ち倒して、そのあと見むきもせず、「次!」と怒鳴って新手の犠牲者に襲い掛かるような乱暴さがあったが、今は倒れた相手に、「大丈夫か?」などと声をかけて気遣いを見せるようにもなった。塾頭としての桂の門下生に対するきめ細かな指導や配慮の仕方に影響を受けたのかもしれない。 そんな小五郎の姿をじっと見守りながら、弥九郎は「想像以上の若者だ」と思うようになっていた。桂はけっして「俺はここにいるぞ!」などというような目立った行動はとらない。むしろ控え目である。それでもみな、彼のところにむらがり寄る。ひとたび竹刀を握れば体中から光輝を放ち、その俊敏で華麗な動きとともに、見物人の視線を捕らえてはなさない。 「不思議な男だ。型をくずさず、しかも型にはまらず、自らの流儀を生かしている」 弥九郎は腕を組んでうなってしまう。ここ2〜3ヶ月で他道場から練兵館に移ってきた修業者がずいぶんと増えていた。 「桂君、ちょっと渡したいものがある」と言われて、小五郎は新太郎のあとについて行った。新太郎は自室に入ると文机の上にあった本をとって小五郎に手わたした。 「お土産だよ。ちょっと読んでみたまえ」 「これはなんの本ですか?」 「水戸藩の藤田東湖という人が書いた本だ。君も名前は知っているだろう」 「はい、大先生からお聞きしたことがあります」 「尊皇攘夷論だ」 「尊皇攘夷論――」 「そう。父が桂君に読ませなさい、と言ってね」 目の前で端座する若者の澄みきった眼を覗き込むように見ながら、新太郎はなにか意味ありげに微笑した。 この年の六月に米国からペリーが来日し開国を要求して以来、世上は騒然としていた。練兵館は剣術ばかりでなく、午後には兵学や砲術も教えており、いわゆる文武両道を奨励していた。弥九郎が学問を好んだせいでもあるが、知己に洋学者も多く、新太郎もかなり父親の感化を受けていた。 同じ兄弟でも歓之助は豪傑肌で見るからに精悍な顔付きだが、新太郎は跡継ぎとしての責任感もあってか落ち着いた雰囲気で、人当たりもよく、顔立ちも端正であった。 どうやら弥九郎は小五郎に剣術以外に、何事かを期待しているようであった。父子のあ・うんの呼吸で、新太郎はそれを敏感に感じ取っていたのだろう。彼にとっても小五郎は弟子というよりも、すでに弟分に近い存在になっていたのだ。 午前中の稽古が終わって、井戸端で身体を拭いていると、後輩の塾生3〜4人がわらわらと寄ってきた。いつも忙しいのでなかなか付き合ってやれなかったが、幸い今日は出稽古もなかったので、「そうだな、じゃ、いくか」と小五郎は気楽に応じた。 蕎麦屋は混雑していたが、ちょうど食べ終わった者たちがかたまって店を出たので、小五郎たちは運よく席を見つけることができた。十代の後輩たちは食欲も旺盛だが、よくおしゃべりもする。小五郎とてまだ二十歳なのだが、みんなを指導する立場を抜きにしても、同年代の若者よりはよほど落ち着きがあり、年よりは大人びていた。とはいえ、その面にはまだ少年らしいあどけなさが残っており、その肌は瑞々しく薫るような若さを発散させていた。 しばらくすると、奥の席から4人ぐらいの侍が出てきて、小五郎たちの脇を通りがかった。先頭の男が立ちどまり、まっすぐに小五郎に視線をむけた。 「桂さん、か――あんたが練兵館の桂小五郎か?」 小五郎は眼を上げて男を見た。 「そうだが?」 「へぇー、こいつが今、江戸一番という評判の剣客か。ずいぶん優男じゃねえか」 別の男がにやけて言う。 「その顔で鬼歓とも互角以上にやりあうってぇ。本当かね」、「どうも、信じられんな」、「刀を抜けばわかるだろう」 男たちは勝手にしゃべっている。 「そうだな。ここで遭ったのもなにかの縁だ。ひとつお手合わせ願おうか」 「なんですか、あなた方は。いきなり失礼じゃないですか」 塾生のひとりが立ち上がって男たちに抗議した。 「ガキは引っ込んでいな」 無精ひげを生やした目つきの悪い男がどなった。 「ここはお店です。他のお客さんに迷惑がかかる」 小五郎が冷静に男たちをたしなめた。 「なにおぅ――じゃあ、表に出てもらおうか、桂さんよ」 「ことわる。立合いをお望みなら、どうぞ道場にいらしてください」 「なんだと、生意気な!」 無頼漢たちは小五郎たちの席をかこむようにして、刀の柄に手をかけた。 「やめろ!」小五郎が制止した。 「抜いてはならぬ。君たちは後ろに下がっていなさい」 依然として腕を組んで座したまま、小五郎が命じる。 「しかし、桂さん――」 「この人たちは私をお望みのようだ。丁重に道場にご案内しよう」 いささかの動揺もなく、小五郎は涼しい顔でゆっくりと立ち上がった。 「道場に行く必要はない。ここで腕前を見せてもらおうか」 やや顎の張った大柄の男が真っ先に刀を抜いた。それにつられたように他の三人もいっせいに抜刀した。 「聞き分けのない人たちだ。こんなところで斬りあっては、同士討ちしますよ。お相手はするといっているのです。さあ、道場まで一緒にまいりましょう」 言うと小五郎はなんのためらいもなく男たちに背をむけて、出入口にむかって歩きだした。 「ふざけるな。なめるんじゃねえ!」 大柄の男が刀をふりかざし、いきなり小五郎の後ろから斬りつけた。塾生たちがあっという間もなかったが、次の瞬間、その男は自らの勢いで店のそとに飛びだし、地面に叩きつけられていた。小五郎が素早く横に体をかわしたのだ。 「この野郎!」 と叫んで、男が立ち上がりかけたとき、 「なにをしている!」 その男よりさらに大柄な男が目の前に立ちはだかっていた。顎の張った男は自分を睨みつけている新参者を見て、はっと顔色を変えた。 「お、鬼歓!」 「なんだ、俺を知っているのか――。おやっ、こいつ、どこかで見たような顔だな」 歓之助は相手をまじまじと見た。 「おう、思い出したぞ。以前にうちの道場に稽古を請いにきた奴だな。そうだろう、そのあご、覚えているぞ」 店の外にはすでに、ほかの襲撃者たちも、塾生たちも、全員がそろっていた。 「おまえは相馬道場の門人だな。うちの桂になんの用だ?」 問われた相手は刀を引いて2〜3歩後ずさった。 「用なら先に俺がきいてやろう」 凄みのある声で言うと、歓之助はすでに鯉口を切っていた。 「おい、まずい。今日は引こう。行くぞ」 他の仲間にそう声を掛けると、抜刀したまま歓之助に背を向けてまっさきに駆けだした。他の男たちも、「ちっ」と舌打ちしながらいっせいに先に行った男のあとを追っかけた。逃げていく男たちを見送りながら、 「ふん、意気地のねえ奴らだ」 はき捨てるように言うと、歓之助はじろっと若い塾生たちを睨んだ。 「なんだ、おまえら。俺をおいてソバなど食いにいくから、こんなことになるんだ」 「あ、でも、鬼、じゃなかった。歓之助さん、お姿が見えなかったので――」 4人の中では一番年長と思われる少年が弁解した。 「厠だよ。桂にちょっと話があったのに、おまえらに先を越されたわ」 歓之助は小五郎に向きなおり、 「それにしても、おまえは4人の男が刀を抜いているのに、まったく抜くそぶりも見せなかったようだな」 しっかりと鞘に収まって乱れのない小五郎の姿を、歓之助は正面から見た。 「確かに、むやみに剣を抜いてはならぬという道場訓はあるが、4人もの男に襲撃されれば、自らを護るため抜刀するのも仕方あるまい」 「いや、道場まで連れて行こうと思っていたので――」 「な、なにを暢気なことを」 あきれたように歓之助は言う。 「あいつらは相馬道場の者だぞ。素性の知れないごろつきをかなり門人に抱え込んでいて、以前から評判もあまり良くない。辻斬りをしているという噂があるのだ」 「でも、なぜ桂さんが狙われたのでしょう」 背が低くて「ちび丸」と呼ばれている少年がたずねる。 「それはな、最近、あの道場の数少ないまともな門人がやめて、うちに移ってきているからだ。桂も知っているだろう」 「ええ、何人かいるのは――」 「それに他にも……」 歓之助は急に口を閉ざした。 「他になにか理由が?」 言いよどんだ歓之助に、小五郎が先をうながした。 「い、いや、なんでもない。とにかくおまえは気をつけたがいい。いろいろ妬む奴もいるからな。それに俺と違って、おまえは一見してさほど強そうには見えないし」 「大きなお世話だ」 小五郎はぶすっと少し頬をふくらませた。 「あっ、はっ、はっ。まあ、せっかくだからソバ食いなおそうや。これ以上、商売のじゃましちゃ悪いだろ」 一旦は外に避難していた他の客たちもぞろぞろと店内にもどりはじめ、小五郎たちも歓之助とともにソバの食いなおしをしてから、店をあとにした。その帰路のこと、ちび丸が後ろを振りかえって、 「おや、あの黒い猫、さっきから俺たちのあとをつけているみたいですよ」 みんなが一斉に振りかえると、なるほど全体の毛は黒いがしっぽの先だけ白い猫がついてきていた。その黒猫は、にゃあ、とひと声なくと小五郎の足元に走りよってきた。 「なんだ、メス猫か? おまえが気に入っているみたいだぞ」 歓之助はちょっと首をかしげていう。小五郎はうずくまって、その猫を両手に抱きあげた。 「どうした、おまえの家は。迷子になったのか?」 黒猫はまた、にゃあーとないて、小五郎の胸に頬をすり寄せてきた。 「相馬が――」 眉間に深いしわをよせて、弥九郎はしばらく無言のまま考え込む様子だったが、やがて、 「どうも、やっかいなことになったな」 と、ひとり言のようにいう。 「でも、桂は刀を抜いておりません。相手を傷つけてはいないのです」 「わかっている」それでも弥九郎はなにかしきりに懸念するようだった。 「相馬は昔、岡田十松先生の門下で父上の兄弟子だったのでしょう?」 「うむ…」歓之助の問いに、弥九郎はすこし口ごもった。 「たしか、破門されたとか聞きましたが」 「歓之助、その話はしてはならぬ。口外無用じゃ。」 「……」 歓之助は、父と相馬との間にはなにかいわくがありそうだと感じてはいたが、ともに岡田の門弟で、のちに相馬が破門されたという以上のことを弥九郎は話したがらなかった。相馬が江戸で道場を開いたのは5年ほど前のことで、彼は練兵館にも挨拶に訪れていた。その時の父の驚きの表情を、歓之助は今でも鮮明に覚えている。 「桂の腕は確かだが、あのとおり穏やかな性格だからな」 弥九郎はそこで一旦言葉を切ると、眼を閉じてまたしても思案するようだった。だが、すぐに眼をひらくや、 「歓之助、当分桂をひとりで外出させないようにせよ。出稽古にもおまえか新太郎、どちらかと組んで行くようにするのじゃ」 まっすぐに息子の眼を見て命じた。 「わかりました」 歓之助も神妙に答えた。 「あれ、おまえ、今日は早いなあ。朝飯まだだぞ」 ちび丸が箒を動かす手を止めて言う。 「ほう、また来たか」 と相棒の勇太も門のほうに眼をうつした。 「しかし、ハヤテは昼間どこにいるんだろうね。朝夕の食事時しか姿を見せないなんて、ずいぶんちゃっかりしているよなあ」 勇太はちび丸と同じ16歳だが、体格がよく、すこし太りぎみなので、ちび丸より年上に見える。掃除をしている二人の前に現れたのは先日、蕎麦屋からの帰路に遭った黒猫だった。気まぐれな猫で昼間、道場に姿をみせるときもあるが、いつの間にかいなくなるので、ここに居つこうという気もないようだ。どうも気位が高いらしく積極的に人になつこうとせず、塾生が近寄って頭を撫でようとしても、さっと身をかわしてしまう。最初は野良猫かとも思ったが、それにしては毛並みがふさふさとして、つやがあり、ぜんぜん汚れていないのも不思議だった。いつも風のように来て、風のようにいなくなるので、ちび丸がハヤテと名づけた。 「変な猫だよなぁ。桂さんにしかなつかないのだから」 ちび丸が言うとおり、唯一の例外が小五郎で、彼の姿を見るとすぐに走りよっていき、小五郎が抱き上げると自分で肩の上によじ登って、そこにバランスよく定着してしまう。でも、小五郎が「ちょっと降りて」と言うと、素直にしたがい、彼のじゃまになるようなことはしない。それに、忙しいときはけっして姿を見せないから、小五郎にべったりしているわけでもないのだ。 「おーい、ハヤテ。桂さんはもうすぐ控え室に来るから、そっちで待っていなよ」 ちび丸がそう叫ぶと、にゃあー、といちおう挨拶だけはして、勝手知ったる道場内に入り込んでいった。 「先生はどうして先方の要望でもないのに、出稽古にいく私に同道なさるのですか。こんなことになっているのは、あの相馬との一件があってからです。大先生のご指示なのでしょうか」 「そうだよ」歩きながら、新太郎は正直に答えた。 「私の腕はそんなに信用されていないのでしょうか」 日ごろの小五郎らしくない不満をもらす。 「いや、そういうわけではないが――正式な試合の場ならともかく、市中の無頼漢はどんな卑怯な手を使うともかぎらぬのでな」 「……」 「まあ、そう気にせずともよい。なにか師匠も考えるところがあるのだろう」 「しかし、私は自分の身ぐらい自分で守れます」 憮然とした様子で小五郎は言う。 「油断大敵という言葉もある。どうした、何をそんなに苛立っている?」 「……」 「いつもの桂らしくもない。心を乱すと、勝てる敵にも勝てなくなるぞ」 「私は練兵館の塾頭です。あんな奴ら、私の敵ではありません」 新太郎は歩みを止めて、小五郎を振り返った。ふたりの眼と眼が合った。 「自惚れるでない!」 言うのと同時に、新太郎の手が小五郎の頬を打っていた。小五郎は打たれた左頬をおさえて、驚きの表情を相手に向けていた。普段は温厚な新太郎に打たれたことが、彼にはまだ信じられないかのように、しばらく呆然とした態だった。幾人かの通行人が立ち止まってふたりを好奇の眼で見ていた。やがて小五郎はこみ上げてくる感情を抑え切れなかったのか、新太郎をおいてひとりで駆けだした。 「待て、桂――」 しかし小五郎は振りむきもせず、その場を走り去ってしまった。 「あっ、小五郎。ちょうど良かった、今、お前の部屋に――」 話しかけてきた歓之助の前で、小五郎は一瞬速度をゆるめたが、すぐに顔をそむけ、立ち止まらずに相手の脇を走り抜けてしまった。 「お、おい。なんだよ」歓之助は踵を返して小五郎を追おうとしたが、 「来るな、歓之助。今は話したくない」 顔だけわずかに振り向いて、小五郎がどなった。その様子が尋常ではなかったので、歓之助はおもわず歩みを止めた。 「な、なんだよ。どうしたんだよ」 戸惑いながら道場の入り口のほうに眼をやると、新太郎がちょうど入ってくるところだった。 「あっ、兄上。どうしたのですか。今、桂がえらい勢いで走っていきましたが、いっしょではなかったのですか」 「いっしょだったよ」 入り口に立ち止まったまま、新太郎が言う。 「桂がめずらしくへそを曲げてね。おいてけぼりをくらってしまったのだ」 新太郎は苦笑いをしている。 「いったい何があったのです。今まで見たこともないほど不機嫌な様子でしたよ」 「そうか――。すこしそっとしておいたほうがよさそうだな」 道場は午後の講義が終わって、塾生たちは早めに風呂にでも入りにいったのか、みな出払って、しんとしていた。 「ひょっとして桂は、兄上が用心棒役として連れ添うことに、武士としての誇りを傷つけられているのでは?」 歓之助が敏感に察知してたずねる。 「うむ。どうもそのようだ。桂の強気の言葉も、あえて言わざるを得ないほど追いつめられていたのやもしれぬ」 「強気の言葉?」 「いや、理由はおそらくそれだけではない。最近の桂の思いつめた様子は――」 「ほかの理由とは、なんですか」 「彼は藩邸にもどった時に、藩士たちといろいろ昨今の国内情勢について話し合っているらしい。ここでも毎晩、水戸藩の会沢や藤田の書を熱心に読んでいるようだし」 歓之助は新太郎の言葉に眉をひそめた。 「読むように薦めたのは兄上、いや父上ではないのですか」 「うっ、まあ、そうだが……」 「父上はどうやら剣術以外に、桂に何事かを期待しておられるようですな」 「……」 「そして、何ものかを恐れ、それから彼を守ろうとしている。そうではないのですか」 新太郎は眼を上げて、不審げな様子の弟を見た。 「歓之助、桂のことは父上に任せよう。彼は見かけは大人しそうだが、心は火のように燃えている。だからこそ塾頭にもなったし、人を惹きつける力もあるのだ。とにかく今後のことは父上と相談して決めるしかなかろう」 「……」 桂はしばらく放っておく、わしはもう行く、と言って、新太郎は道場には入らずに外に出ると、別棟の居室に戻っていった。 「どうした。そんな所にいないで、もう少し近くにすわりなさい」 小五郎は立ち上がると、弥九郎のそばまで来てすわり直した。すぐに部屋の主は筆をおいて、小五郎に向きなおった。 「新太郎と喧嘩をしたそうだな」 口元に微笑をうかべて、いきなり弥九郎が聞いてきた。 「い、いえ、そういうわけでは……」 小五郎は顔を赤くしてうつむいた。 「まあ、兄弟げんかのようなものか」 弥九郎は笑って、それ以上小五郎に詳しい説明を求めなかった。息子の新太郎からすべて聞いていたのだろう。 「どうじゃ。読書はすすんでおるか」 あっさりと話題を変えて、弥九郎がたずねた。 「はい、まだ途中までですが」 読書という意味が水戸藩の一連の書物を指していることを、小五郎は察していた。 「なにか思うところはあるか?」 問われて、小五郎は戸惑い、すぐに返事ができなかった。 「かまわぬ。なんでも正直に申してみよ」 小五郎は顔をうつむけてしばらく考え込んでいたが、やがて思い切ったように口をひらいた。 「私は未だ無知無学ゆえ、よくわからないのです。ここ数年の間に外国船が日本の沿岸に頻繁に現れるようになっておりますから、藩邸でも先輩の周布氏などとよく話をしております。でも、攘夷か、開国か、いずれが是か、非か、わたしにはまだ正しい答えを見出すことができません」 小五郎の正直な答えを聞いて、弥九郎はうなずいた。 「さもあろう。日本の運命を左右する難しい問題だからな。今はいろいろ勉強する時じゃ。今後自分が国のため、いや日本のためになにをなすべきか、わかるときも来よう。洋式兵術の師江川殿もそなたを熱心な若者だと言って褒めておったぞ」 江川とは伊豆の韮山代官江川太郎左衛門のことで、弥九郎の紹介で小五郎はこの秋から江川塾に通っていた。弥九郎と江川は岡田十松の撃剣館で相弟子だったことから親交を深め、練兵館の創設にあたっては江川が相当な援助をしていた。蘭学に通じ、砲術は高島秋帆より学び、早くから海防の必要性を幕府に説いていた。 「江川先生にはずいぶんお世話になっております。今後軍艦の製造なども必要になってくるという話で、私もいずれ藩に建言しようと思っているのです」 「そうか。それは良いことじゃ。いずれ長州藩を動かすようになる日が来るかもしれぬな」 「私がですか? まさか。私は一介の修学生にすぎません」 「今はそうだがな。それぐらいの気概を持って文武両道に励むのじゃ。君はもう両親を亡くしておるのだから、ここを第二のわが家と思ってくれてもいい。新太郎も桂のことを弟のように思っておるのだ。おもわず手をあげたとしても、それは愛情ゆえの行為と受け止めてやってくれ」 弟子を教えるときの厳格さはなく、今の弥九郎は慈愛に満ちた表情をして小五郎を見つめている。 「大先生……」 小五郎は弥九郎の好意に胸を熱くした。斎藤家の人たちはみなやさしくて温かい、と彼は思う。弥九郎も、新太郎も、歓之助も、そしていつも破れた稽古着などを繕ってくれる弥九郎夫人お岩も――。本当に新しい家族ができたように小五郎は感じはじめていた。 「おい、すこしうるさいぞ。通りで男があまりぺちゃくちゃしゃべるでない」 塾頭らしく小五郎がはしゃいでいるふたりに注意する。 「あ、はい。すみませーん」 と謝りながらも、ふたりは肩をすくめ、顔を見合わせて笑っている。大村藩の道場では稽古にのぞむ藩士たちが勢ぞろいして小五郎たちを出むかえた。いつものように最初の稽古がはじまると、道場は緊張した空気につつまれる。小五郎が上段に構えると相手は打ち込むことがなかなかできない。すこし隙が見えたとおもって打ち込むと必ずかわされてしまう。どこから攻めても軽くかわされてしまい、そのあと怒涛の反撃にさらされることになる。受けるのが精一杯で、もう後ずさるしかない。すぐに面を打たれ、あるいは胴を打たれ、その衝撃に耐えきれずにひっくり返ってしまうのである。防具をつけていても相当な衝撃があるらしく、一見細身にみえる小五郎のいったいどこにそんな力が備わっているのかと不思議に思う者たちが多い。小五郎が次から次へと相手を打ち負かしていく姿を道場の片隅にすわって見物しているちび丸と勇太はすっかり興奮して、 「恰好いいなあ、うちの塾頭は」 「ほんと、いつもながらほれぼれするね」 などと小声で話している。そのうちふたりも若い藩士に誘われ、待ってましたとばかりに竹刀を手にとり、稽古の組に加わった。 「おや、あの少年たちもけっこうやるじゃないか」 見ていた年長の藩士らが意外そうに言った。ちび丸は本当の年より2〜3歳若く見えるし、勇太は太りぎみの体格からして鈍そうな印象を与えるから、ちょっと驚いたようだった。 「いや、さすがに桂さんが連れてきただけあって、たいしたもんだね」 若年組ではだれもふたりに勝てなかったのである。 帰りは菓子折などをもらってお供のふたりは大喜びだった。 「なんだ、これ。饅頭かなあ」 「いや、煎餅じゃないか」 などと勝手に言い合っている。 「まったく食い気ばかりで、暢気なやつらだ」 と小五郎はただ苦笑している。すると向こうから「桂さーん」と叫びながら、若い侍が駆けてくるのが見えた。近寄って小五郎に対峙すると、息を整えながら、 「ああ、逢えてよかった。練兵館を訪ねたら大村藩へお出かけになったと聞いたので、あとを追ってきたのです」 相手は顔見知りの長州藩士だった。 「なにか用事ですか」小五郎がたずねる。 「ええ、周布さんがちょっとお話があるそうで、今日、明日中にも藩邸のほうにいらしてくれないか、との言づけです」 「そうですか。なんだろう」小五郎はちょっと考えてから、 「おまえたち、先に帰ってくれないか。僕はちょっと藩邸に寄っていくから」 「あ、そうですか。今日お戻りになりますか。それとも今夜は藩邸で――」 ちび丸がたずねると、 「いや、今日中に戻るつもりだ。先生にもそう伝えてくれ」 「わかりました」とちび丸が言ったあとで、 「あの、これ先に食べてもいいですか?」 勇太がおずおずと聞く。 「いいよ。でもまず先生に差し出してからだよ」 「はーい。じゃあ、またあとで」 ふたりが元気な足取りで練兵館に帰っていくのを見送りながら、では、行きましょう、と小五郎は使いの藩士と長州藩邸にむかって歩きだした。 部屋に入るなり周布政之助が言う。周布は参勤交代で江戸に赴く藩主に従って、4月以来桜田藩邸に詰めていた。小五郎より10歳年上で現在、政務役筆頭の地位にある。 「お元気そうですね。最近ちょっとご無沙汰してしまいましたが」 相手に対面してすわりながら、小五郎が応じた。 「たまには藩邸にも顔をだせよ。殿様も『桂は斎藤の養子になったのか』と言って笑っておられたぞ」 「いえ、出稽古が増えているものですから」 「人気者は大変だなぁ。まあ、長州藩としても悪いことじゃない」 最初の挨拶がすむと、周布はさっそく用件にはいった。長州藩は幕府からこのたび相模湾警衛の命をうけたという。ペリー来航以来守備していた大森からの配置転換だった。 「任務につくまえに、殿様は藩士からその守備計画に関する意見を聞きたいそうだ」 「そうでしたか。では私も意見書を提出しなければなりますまいね」 「ああ、そうしてくれるか。殿様も桂にはずいぶん期待しておられるようだからな」 周布と小五郎がそんな話をしている間に、小五郎が来ていることを聞いて、来島又兵衛と来原良蔵が部屋にはいってきた。来島も藩の要職にあり、周布よりさらに7歳年長だが、いかにも武辺者という感じで元気がいい。 「よお、小五郎。すっかり立派になりおったな。萩にいたころは青白い顔をしておったが、今では見違えるように血色も良いではないか」 大きな来島の声のあとに、小五郎と同じ大組士で4歳年上の来原がつづいて言う。 「桂は江戸の水が合っているようだな。練兵館の塾頭になってから貫禄もずいぶんついてきたし、なんだか近寄りがたくなってきたぞ」 「からかうのはよしてください。まだ、来原さんには負けますよ」 と小五郎は笑って受け流す。来原はのちに小五郎の妹治子と結婚する人物である。その後、4人で飲食しながら談笑したあと「僕はもう練兵館に戻ります。殿様にはまた日を改めてご挨拶いたしますので」と言って小五郎が席を立った。 「おい、今夜は藩邸に泊まるのではないのか。今からじゃ遅いぞ」 周布に言われて、 「明日また稽古があるので、やはり戻ります」と答える小五郎に、 「では、誰かに送らせよう。屈強の藩士ふたりをつけて」 小五郎ははっと顔色を変えた。 「なぜ、そのようなことを」 「い、いや。最近市中では辻斬りが出ているようだし……いや、おまえの腕をうたぐるわけじゃない。だが、万一怪我でもされたら、斎藤先生に申しわけないからな」 周布の言葉にそうだ、そうだ、と他のふたりも頷いている。 「周布さん、ひょっとして知っているのですか。蕎麦屋の一件を」 気色ばんで小五郎がたずねる。 「あ、ああ――この間練兵館から藩邸に使いにきたちび丸とかいう少年からちらっと聞いたのだが」 「あいつ、余計なおしゃべりを!」 「今日はこっちに泊まって、明日もどればいいじゃないか。なんだか空模様も怪しくなってきているぞ」 周布が立ち上がり、障子をあけて言う。 「いえ、やはり帰ります。道場までたいした距離でもありませんから、ご心配は無用です。護衛などつけられたらかえってこちらが迷惑します。自分の身のみならず、そのふたりの身も心配しなければなりませんからね」 小五郎にそう言われれば反論もできなかった。とにかく剣においてはだれも彼に勝るものはいないのだから。 結局、小五郎は提灯を持ってひとりで藩邸をあとにした。周布の言ったとおり、昼間の天気が一転して、空は一面雲におおわれ今にも雨が降り出しそうな模様だった。 「こんばんは。桂小五郎どのですか」 いきなり話しかけられた。小柄な侍でその声は柔らかく、殺気は感じられなかった。だが彼は黒い頭巾をかぶり、眼しか露わにしていなかった。 「桂になにか御用ですか」 小五郎が冷静な声で逆にたずねる。 「桂どのですよね」相手はなおも確認してくる。 「桂だったら、どうなのです」 ひとりではない。小五郎は異様な気配をその男の周辺に感じていた。すぐに男の背後で空気が動き、曲がり角からもうひとつの提灯が闇に浮かび上がった。現れた人影は5人、全員が同じ黒い頭巾で顔全体を覆っていた。 「あんた方は最近市中を騒がせている辻斬りか」 小五郎が問いかける。 「たいそうな人数だな。よほど腕に自信がないとみえる」 提灯を持って最後に現れた上背のある男が小五郎を鋭い視線で睨みすえた。 「桂とやら、お手並み拝見いたそうか」 どうやら賊の首領のようで、声音からしてかなりの年配と小五郎は感じた。 「相馬道場の者か?」 答えは白刃でかえってきた。小五郎は提灯を投げすて、とっさに後ろに飛びのいて剣尖をかわした。すぐに流動する空気が小五郎のまわりをめぐった。動いているのは4つの影で、首領らしき男はじっと動かずに、最初に小五郎に話しかけた男と見物しているようだった。ふたりの持つ提灯がほの白く周辺の闇を照らしている。 第二の刃が上段から小五郎に襲いかかるのを、今度は相手の懐に飛び込んで体当たりする。男は仰むけにひっくり返りそのまま気絶した。小五郎がすばやく当て身をくらわせたのだ。そのまま走り去ろうとしたが、できなかった。退路にその首領が抜刀して立っていたからだ。提灯はもうひとりの男の手にあずけて、図ったように動いていた。 すぐに後ろから別の男の太刀が小五郎に振り下ろされた。身体をよじって飛びのき、辛うじてかわすと、眼前にまたしても首領が移動して彼を待ち受けていた。 読まれている、と小五郎は感じた。逃げ去ろうとする自分の動きがその男に完全に読まれているようなのだ。それから彼は逃げるのをあきらめて、残る3人の賊に全力を集中した。だが首領の存在が気になって動きがわずかに鈍ったところを、賊の刃にわき腹を突かれて一瞬うずくまった。が、かすっただけで、相手が油断したとみるや、小五郎はただちに反撃に転じて拳でみぞおちを一撃した。結局、小五郎の電光石火の早業に賊はついて行けず、彼は素手で4人の男をすべて気絶させてしまった。 「さすが弥九郎の愛弟子だけはある、見事じゃ。刀を抜かず、全員を倒すとはな」 首領は剣を両手で握って正眼にかまえると、 「だがわしとの勝負、刀を抜かずにいられるかな」 小五郎の背に悪寒が走った。相手の構える剣に彼は妖気を感じたのだ。強い――。並みの強さではない。小五郎は思った。もし剣を抜けば、斬るか、斬られるかの勝負になる。 相手が一歩踏みこむと、小五郎は一歩退いた。剣尖のとどかぬ距離を彼は保とうとした。殺られるかもしれない――小五郎の心に迷いが生じた。どうしよう。刀を抜こうか――目の前に立ちはだかる男の鋭い目に、憎悪の炎が燃えていた。 「どうした、桂。剣を抜かぬか。わしごときを相手に剣を抜く必要はないと思うておるか」 氷のように冷ややかな眼が小五郎を見下ろしていた。 「殺せ!」 眼を開けて、敵意に満ちた相手の眼を見すえて小五郎は叫んだ。相手の剣先がわずかに小五郎の白い咽喉に触れ、一筋の血が皮膚をつたって流れおちた。攻撃者は剣を引いたが、小五郎を容易に斬れる距離を保っていた。 「刀を抜くがよい。それまで命はとらぬ」 小五郎は上半身を起こしたが、そのまま動かず、刀を抜くそぶりも見せなかった。 「抜かぬなら、斬るまでだ」 相手の剣が斜め上段にうごいたとき、彼は電光のように後方に跳躍した。その瞬間、暗闇から白刃が振り下ろされる気配を感じて小五郎は振りかえり、間一髪横っ飛びにとびのいた。首領の剣が小五郎の左肩を斬ったのはそのときだった。気絶していた賊のひとりが偶然息を吹き返して小五郎を襲ったのだ。彼の動きはその刃を逃れるのが精一杯だった。その場に片膝をついてうずくまったとき、あたりを照らしていたふたつの提灯が突然消えた。なにか黒い塊が提灯を持っていた男の眼前に飛んできて、男は「あっ」と叫んで後ろにのけぞった。 闇の中で小五郎は方向感覚をうしなっていた。どちらが北か南か、西か東か、まったくわからなくなっていた。それは賊がわも同じことだった。へたに動けば危ない。小五郎は斬られた肩を押さえ、しばらく息を殺して周囲の気配に神経をくばっていた。やがて頬にぽつぽつと冷たい雫が落ちてきた。雨が降り出したのだ。はやく提灯を点けろ、と首領が指示する声が聞こえてきた。再び灯りが点いたらもうおしまいだ、と小五郎は思った。 そのとき、にゃあ、という声がして、小五郎の眼前にほの白い毛玉のようなものが浮かび上がった。それが上下に動いて彼を招いているようだった。その白い毛玉はすぐにひとつの方向に動きだした。 「ハヤテ?」 小五郎は立ち上がると、闇に浮かび上がる白い毛玉のあとを追った。雨脚が急に激しくなり衣服を濡らしたが、彼は寒さを感じなかった。ただ夢中で白い毛玉のあとを追っていった。多分、その方向が練兵館に通じる道なのだと信じて――。 練兵館ではちび丸と勇太の部屋を歓之助が訪れていた。 「おい、桂は本当に今夜もどると言ったのだな」 歓之助がふたりに問い質している。 「はい。もどるとおっしゃっていました」 ちび丸がおずおずと答える。 「それにしても遅いではないか」 咎めるように言われて、ふたりは顔を見合わせると、そのままうつむいてしまった。むろん彼らはなにも事情を知らない。弥九郎が小五郎の身辺を警戒させていることは息子の新太郎と勧之助のふたりが知るのみだった。 「桂のことだ。別に大事はないと思うが――」 歓之助が自分に言い聞かせるように言う。 道場の明りは桂がもどるまで点けておけ、と指示して歓之助は立ち上がった。そのとき、にゃあ、と猫の鳴くような声がした。 「おや、なんだ?」 歓之助は耳を澄ませた。 「あっ、ハヤテじゃないか?」 勇太がちび丸の肘をさわって注意をうながした。歓之助は廊下に出ると、道場に向かって走りだした。そのあとをふたりも追いかけた。すると、道場の入り口のところに確かに黒い猫の姿が見えた。 「ハヤテ! どうしたんだ、こんな時間に?」 ちび丸が呼びかけると、黒猫は歓之助めがけて走りより、にゃあ、にゃあ、にゃあ、と三度鋭い鳴き声をあげ、すぐにまた出入口にむかって走り出した。途中で一度だけ止まってしっぽを直角に立て、白い先端を上下に振った。歓之助はハヤテの「ついて来い」という意思を読みとると、 「おい、おれは先に行く。おまえらはあとから提灯と傘を持ってきてくれ」 桂になにかあったと直感すると、歓之助は雨の中をハヤテのあとを追って駆けだした。白い毛玉が闇に浮かび上がって小五郎と同様、歓之助を導いていた。ちび丸と勇太も提灯と傘をもって、すぐに歓之助のあとを追いかけた。 3町ほど行くとハヤテは止まった。白いしっぽの先端が輝きを増して周囲の闇を照らし出した。小五郎はその道端にうつぶせに倒れていた。 「小五郎!」 歓之助は駆け寄ると、小五郎の上体を起こして両腕でささえた。見ると、左肩から血がとくとくと流れ出ており、雨に洗い流されるあとから、新たな血が彼の切り裂かれた衣服を赤く染めていた。彼はうっすらと眼をあけた。意識がもどったらしい。 「やあ、歓之助。迎えに来てくれたのか」 小五郎は口元に笑みを浮かべて、かすれた声で言った。賊にやられたのはたしかだと思ったが、歓之助は小五郎の刀がしっかりと鞘に収まったままであることに気がついた。 「刀を抜いていないな。ばか野郎! なぜ抜かなかった?」 小五郎は落ち着いた、静かな眼差しで歓之助を見ると、 「武は、戈を止むるの義……なれば、少しも、争心ある……べからず」 とぎれとぎれの細い声で小五郎が発した言葉は、練兵館に掲げられた道場訓だった。 「小五郎……」 彼はあえぎながらも、つづけた。 「兵は……凶器といえば、その身一生用うることなきは、大幸と……いうべし――これを、用うるときは……止むことを得ざる……とき……なり――」 それだけ言うと、小五郎は歓之助の腕の中で再び意識をうしなった。とどまらぬ流血はその傷がそうとうな深手であることを示していた。手当が遅れれば小五郎の命は危うい。 ちび丸と勇太が懸命に走ってその場にたどり着いたとき、その提灯の明りに照らし出されたのは、降りしきる雨の中、瀕死の小五郎を背負った歓之助の仁王のように大きな全身像だった。そのとき、すでに小五郎を救ったハヤテの黒い姿は忽然と消え去っていた。(第二章 おわり) |