[れんぺいかんのはな]
第三章 誓いの剣(1)〜(5) (1) 相馬源三郎は縁側の柱にもたれ、庭の一角に植えられた松の枝ぶりをぼんやり眺めていた。冬枯れの庭の景色の中で、よく手入れされた濃緑の枝葉は彼の眼を和ませる。道場の稽古もおえた昼下がり、おだやかに晴れた空にうかぶ雲の端が陽光を浴びて明るく輝いている。こんな平穏な日にはかえって苦しかった過去が回想され、よくもここまできた、とこの家の主(あるじ)は感慨にふける。江戸に将来の運をかけて進出した新興の剣術流派「神道相馬流」の道場主として現在、表面上は静かな生活を営んではいるが、眼を閉じれば浮かび上がってくる。数々の凄惨な光景は自ら招いたとはいえ、思い出せばあまり心地よい気はしない。それでも極限の戦いを求めてたぎる血は、いまなお鎮めようもなく己の身体を支配している。 あの斎藤弥九郎さえ「撃剣館」に入門してこなかったら、わしは道場の跡を継げたはずなのだ。師匠の前で弟弟子に負けたという屈辱は、のちの私闘の苦々しい光景をも思い出させる。あれで自分の運命は狂ってしまった。それまでの苦労がまったく無駄におわったのだ――鬢には白髪が混じり三十年近い歳を重ねた今もなお、源三郎は弥九郎をどうしても赦せなかった。 玄関のほうから誰かが廊下を歩いてくる足音が聞こえてきた。すぐそばに来ても声がしないので、振り返ってみるとひとりの若者が立ち止まってじっと源三郎を見ていた。 「伊織か。どうした?」 伊織と呼ばれた若者は道場でひとり素振りの稽古でもしてきたのか、額や首筋にうっすらとにじむ汗を片袖をあげて拭うと、 「伯父上、あの男はまだ生きているのでしょうか?」 思い切ったようにたずねてきた。 「――生きておる」 すぐに甥の質問を理解して、源三郎は答えた。 「……」 「どうした。気になるのか」 二十歳前後と思われる若い甥に、源三郎が聞きかえす。 「――私は、あまり好きではありません。ああいうやり方は」 そう言って伊織は唇をかみしめた。 「そうか――」 源三郎は依然として庭を眺めながら、静かな声音で応じる。 「まあ、すわれ」 言われるままに、伊織は袴を払ってその場に正座した。 「ああするしか桂の腕を試す方法がなかった。わしが招待しても、斎藤父子は桂をうちには寄こすまい」 「……」 すこし沈黙していたが、伊織にはまだ心にかかることがあるらしく、「でも」と言ったあと再び口を閉ざした。 「なんじゃ?」 源三郎がうながすと、 「あの人は、なぜ逃げなかったのでしょう」 疑問を口にした。 「なに?」 「あの人はすでにうちの門弟を四人とも気絶させていた。あの時点で逃げようと思えば、逃げられたはずです」 「こちらが勝負を挑んでいるのに、武士なら、そして男なら、逃げようとは思うまいよ」 「でも桂は剣も抜かなかったのですよ。もしかしたら殺されるかもしれないのに、どうして剣も抜かないで――」 「伊織!」 若者を呼んだ源三郎の声は鋭かった。 「桂の話はもうするな。あの男は斎藤の愛弟子じゃ。無刀の戦いを仕込まれていたとしても不思議ではない」 「抜刀しなければ、桂がどんな剣を使うのかわかりません」 「なんだ。奴の剣技を知りたいのか」 源三郎が甥のほうに怪訝な視線をむけて聞く。 「――はい。知りたいです」 ひと呼吸おいてから、 「やめておけ。おまえの敵う相手ではない」 源三郎はきっぱりと断定した。 「そんなこと、戦ってみなければわかりません」 伊織は気分を害したように、むきになって言う。 「どうやって戦う?」 「……」 「妙なことは、考えないほうがいい」 伊織は反駁したかったが、うつむいて口を閉ざした。源三郎は伊織の他道場への出入りを禁じていた。それが彼には不満だったのだ。 歓之助が新太郎に話があって兄の部屋に通じる廊下を歩いていると、どこからか話し声が聞こえてきた。ふと足を止めて耳を澄ますと、その話し声は新太郎の部屋から漏れてきていることがすぐにわかった。それもかなり興奮した口調で、どうやら二、三人の門弟が新太郎の部屋まで来て、なにか苦情を言っているようなのだ。歓之助はそのまま廊下の角に立ち止まって聞き耳をたてた。 少しまえに古参の門弟を含む三人が、 「お話したいことがあります」 と出稽古から帰ってきた新太郎を呼び止めた。それで新太郎はそのまま彼らを自分の部屋に導いたのである。 「桂、いや塾頭は本当に病気で稽古を休んでいるのでしょうか」 部屋に入ってすわるなり、いちばん古参の亀井が疑問を口にした。 「ああ、そうだ」 新太郎は羽織の両袖に手を入れて、ゆったりかまえながら答えた。 「でも、ご存知でしょうか。巷では練兵館の塾頭が辻斬りにやられたらしい、と噂になっております」 「そうかね? 私は聞いていないが――」 「でも、もしそれが本当なら、桂は今後も塾頭を務める資格があるのでしょうか」 小五郎より年長で兄弟子にあたるため、亀井はどうしても「桂」と呼び捨てにしてしまう。それを改めようともしなかった。 「資格? どういうことだ」 「つまり、これは練兵館の評判にもかかわる、ということです」 「そうですよ。うちの塾頭が辻斬りにやられたとあっては、まったく不名誉なことで、練兵館の名を汚すことにもなりますからね」 もうひとりの古参できつね眼をした梶山が亀井の意見を支持して言う。 「桂は病気なのだ。そんな噂は無視するがいい」 「しかし――」と亀井は食い下がる。 「先生の言われるように、たとえ桂が病気だったとしても、塾頭としてあまりに虚弱ではありませんか。彼は以前にも風邪を引いてだいぶ稽古を休んでいます。寒稽古も特別あつかいでしばらく免除されていた。そんな病弱な者が塾生を監督する塾頭を務めるのは問題ではないでしょうか」 「亀井のいうとおりです。それに桂はあの大雨の降った晩に門限を大きく過ぎて帰塾したと聞いています。我々が門限を破ると塾頭が罰しているのに、我々を罰している本人が門限を破るとはどういうことでしょうか」 「桂の帰塾が遅れたのは私用のためではない。公用だ。長州藩邸へ用事で寄っていたからだ。おまえたちがどこぞで遊んできて門限を破り、桂に罰せられたのとはわけが違う。くだらぬ恨みごとを申すでない」 一部の古参の門弟たちが、若い桂が塾頭になったことを快く思っていないことは新太郎も承知していた。小五郎は兄弟子でも規則を破った者に対しては厳しく対処していた。それが彼らには、生意気に思えたのだろう。だが、師匠である弥九郎や新太郎の信頼が厚いので、今まで遠慮して言えなかったのを、今度の辻斬りの噂をきっかけに、不満をぶちまけようということになったようだ。 「あのう……桂さんはあの大雨の晩から病気になったのですよね。容態はどうなのでしょう。回復はしているのでしょうか?」 これまでずっと無言で新太郎と塾友たちとのやりとりを聞いていた、門人としては新参の望月が遠慮がちにたずねた。歳は小五郎とさほど変わらないが、入塾が遅かったので、三人の中ではひとりだけ桂を「さん」づけして呼んでいる。彼はなぜか古参の門弟に受けがよく行動を共にすることが多かった。 「ああ、桂はだいぶ元気になっている。もうすこしで道場にも顔を出せるだろう」 「正月も寝込みっぱなしでは、なんとも頼りないですな。病が治って稽古に出てきても、また病気で倒れるようだったら、そのときは自分から塾頭を辞退するべきでしょう。我々もそんな虚弱な男を塾頭と認めるわけにはいかないのですよ」 亀井がきつい口調で結論づけるのを、新太郎は、 「ああ、お前たちの言い分はわかった。桂にはせいぜい健康に気をつけるように注意しておこう」 と言ってなだめるしかなかった。 言いたいことを言って亀井たちが新太郎の部屋から廊下に出ると、鬼歓が目の前に立っていたのでぎょっとした。 「おや、三人おそろいで、新太郎先生になにか急用ですかな?」 歓之助はわざとらしく丁寧な口調でたずねた。 「い、いえ、なんでもありません」 歓之助の姿を見ると、三人は慌てて駆け出して行ってしまった。 「ふん、男の嫉妬は始末におえねえな」 歓之助の声を聞いて、 「歓之助、なんだ、来ていたのか」 新太郎が部屋の中から呼びかけた。 「ええ、ちょっと……」 彼は部屋にはいって襖を閉めた。 「兄上、うちにはどうやら間諜がいるようですよ。相馬道場の――」 「間諜?」 「ええ。どうもうちの情報は全部あちらに漏れているらしい。大体、おかしいですよ。あの日、桂が襲われた日ですがね。彼が長州藩邸にいたことを前もって知らなければ、待伏せなどできないでしょう」 「まあ、それはそうだが」 「誰かが桂の行動を監視しているのです。それに、例の噂ですがね。練兵館の塾頭が辻斬りにやられたという。これもその間諜男が故意に流しているのではないかな。ちび丸や勇太ら事実を知る者にはかん口令を敷いていますから、情報が漏れるとしたら相馬の手の者からでしょう」 「うむ……」 新太郎は腕を組んで考え込んでいる。 「こうなったら相馬からうちに移ってきた連中を全員退塾させるしかない」 「いや、それはまずい。そのようなことをすれば、事を余計に荒立てるようなものだ」 「しかし、そのうちの誰が間諜だかわからない。あるいは全員かもしれない。うちに妙な恨みがあっても道場主には手を出し難いので『練兵館の華』と評判の桂を狙ってうちを叩こうと謀っている、というのが私の推測です。このまま奴らを放置しておけば、また桂が狙われますよ」 「まあ待て。すこし様子をみよう。こちらが過剰に反応すれば、かえって相手の術策に嵌まってしまうかもしれぬぞ」 新太郎は弟をたしなめるが、 「いっそのこと俺が相馬に乗り込んでもいい。決着はこの刀でつけてやる」 歓之助の怒りはおさまらない。 「おい、歓之助。すこし冷静になれ。父上のお考えもあることだからな。無茶はするでないぞ。当分は桂のぶんまで出稽古もこなさなければならぬから、おまえはそちらのほうをしっかりやってくれ」 「しかし――」 「とにかく自重しろ。俺はちょっと桂の様子を見てくる。おまえもいっしょに来るか?」 「い、いや。私は遠慮しておきます。ふたりで見舞っては、彼がかえって心苦しく感じるでしょう」 歓之助は今では小五郎の気持ちをよく理解するようになっていた。あまり頻繁に見舞って、事件のことを思い出させないように気遣っているのだ。自分と違って、小五郎の神経はしばしば女のように敏感に反応する。歓之助はすでにそのことに気がついていた。 新太郎は自室を出て、いちばん奥まった部屋のまえで声をかけた。 「桂、入っていいか? 新太郎だ」 「どうぞ」 病人は起きていたらしく、すぐに返事がかえってきた。 新太郎が襖をあけると、小五郎はすでに上半身を起こしていた。 「寝ていなくていいのか。身体が冷えるぞ」 「だいじょうぶです。もう熱も引いておりますから」 「そうか」 新太郎は衣桁に掛けられた羽織をとって、小五郎の肩にかけてやった。 「あ、すみません」 小五郎が恐縮して礼を言う。 「やっと熱が引いたのだ。またぶり返しては難儀だろう」 「本当になにもかもお世話になってしまい、お礼のしようもありません」 「なにを水くさいことを言っておる。おまえが賊に襲われたのはうちの責任でもあるからな。周布殿が、桂を藩邸に引きとろうと言われたが、丁重にお断りした。ここのほうがお袋様の手も借りられるしな」 「お岩様には実の母もおよばぬほどの手厚い看護を受けました。こうして元気になったのも斎藤家の皆さまのおかげです」 すでに斬られた肩の傷口もふさがり抜糸もすんでいたのに、小五郎が一ヶ月以上も寝込んでしまったのは、高熱が引かなかったためだった。雨にうたれたせいもあったのだろう。自分の病弱な体質が完全には改善されていないことを思い知って、小五郎は自分の健康への自信をうしないかけていた。 「桂のことはみな、家族同様に思っているのだ。今後もなにかして欲しいことがあったら、私でも、お袋様にでも遠慮なく申すがよい」 「ありがとうございます」 新太郎のやさしい言葉に小五郎は眼を潤ませた。 「先生。お願いがあります」 すこし間をとってから、改まった口調で小五郎が言う。 「なんだ?」 おだやかな眼差しで新太郎は病床の弟子を見ている。 「塾頭を――辞めさせていただきたいのです」 「……」 新太郎の返事がおくれた。だがすぐに、 「聞こえていたのか、亀井らが来て話していたこと――」 「はい、すみません。ずいぶん大きな声でしたから、つい聞いてしまいました」 「気にするな。たいした問題ではない」 「いえ、塾生をうまく纏められないのは私の未熟ゆえ、ただ恥じ入るほかなく――」 「人の上にたつものは、時には憎まれるようなこともしなければならぬ。それがわからぬ桂ではなかろう。おまえはまだ若い。でる杭は打たれる、という覚悟も必要だぞ」 「しかし、彼らの言うことにも一理あります。私の意思に反してこの身体が私を裏切るのです。このようになん度も寝込んでいては、塾生が呆れるのもしかたのないこと。心身ともに人並み以上に健康でなければ、塾頭など務まるはずがありません」 なかなか健康になれない自分がもどかしいというように、小五郎はひとつ大きくため息をついた。 「桂――」 「先生。私はもう自信がなくなったのです。こんな身体では、またいつ寝込むかわかりません。この先、長くは生きられないような気がしているのです。子供のころ亡くなっていてもおかしくはなかったのですから」 賊に斬られたことよりも、高熱で病床をはなれられなかったことのほうが、小五郎には明らかにこたえているようだった。 「今度のことで、おまえはすこし弱気になっているだけだ」 小五郎の肩にかるく触れて、新太郎が慰めるように言う。 「身体の変調も、弱気の虫も、すべてはその傷が原因なのだろう。どうだ、まだ痛むか?」 「いえ、だいじょうぶです。まだ押すと痛みがありますが、普通にしていればもう激しく痛むことはありません」 「そうか。若いから傷の回復もはやい。医師もそう申していたではないか。どうだ、明日はすこし庭でも散歩してみたら? 外の空気を吸えば気分も変わってくる。道場に出られるようになれば、またもとの強気の桂にもどるだろう」 そう言って新太郎は励ますが、小五郎の表情は冴えない。 「健康のこともありますが、亀井さんたちからみれば私はまだ新参の者、塾頭を務めるのは早すぎたのではないかと――大先生の期待に応えようとしたことが、かえって兄弟子には生意気にとられたのかもしれません」 「私も桂ぐらいのころは生意気で、ずいぶん憎まれたな」 「先生がですか?」 意外なことを聞いたというように、丸い眼をして小五郎は新太郎を見た。 「そうだ。とくに長州藩士には」 言いながら新太郎はにっと笑った。 「えっ、それはどうしてですか?」 小五郎が好奇心に満ちた眼差で聞く。 「もうひと昔まえのことだが」 新太郎は剣術修業のため諸国遊歴の途上で、はじめて萩を訪れたときのことを語りはじめた。 「長州藩の明倫館には屈強の剣士がたくさんおります」 と宿の主人が言うのを聞いて新太郎は、 「それは楽しみだ。明日はぜひ試合を申し込んでみよう」 と同伴の門人数人と話し合った。翌日、明倫館を訪れて藩士たちと試合をしたが、誰も新太郎に敵うものがいない。宿に帰って風呂に入り、晩酌をしているときに宿の主人が来て、 「今日の試合はいかがでございましたか」 と聞かれたので、新太郎は答えた。 「明倫館は広大で立派だし、剣士は雲のごとくいるが、真の剣士はひとりもいない。あたかも黄金の鳥かごにスズメを飼っているようなものだ」 小五郎は聴きながら、ぽかんとした表情で新太郎を見ている。 「酔った勢いもあったが、私も若かったし自信過剰で生意気だった。その後、私の言ったことが藩士たちに漏れてな。大変な騒ぎになった」 「……」 藩士たちは激昂して、新太郎たちを襲撃しようと準備をはじめたという。さすがに老臣たちはこれを止めたが、血気盛んな若者たちなのでまったく聞き分けがない。それで、密かに宿に使いをやって、萩を直ちに退去するように新太郎一行に忠告した。 「だ、だいじょうぶだったのですか?」 「ああ、なんとか夜中に脱出して事なきを得た。その後、我々はしばらく九州にいたのだが、帰途に長州藩から使いが来て、萩に立ち寄るように言われたのだ」 「えっ、でも、藩士たちは怒っていたのでしょう?」 「そう、でも丁寧なご招待だったので逃げるつもりはなかった。萩に着いて明倫館に呼ばれて行くと、来島又兵衛殿が竹刀を片手にすごい形相をして待っておられた」 うちの若い者がずいぶんお世話になったようだ、拙者が返礼をいたしたい、と長州では豪傑の聞こえたかい来島から試合を申し込まれ、彼と勝負をしたと新太郎は言う。 「それで、どちらが勝ったのですか?」 小五郎がごくりとつばを飲み込んで聞く。 「私が勝ったよ。床から起き上がると、来島殿は私に食いつきそうな顔つきで最後に申された」 「なんと?」 新太郎はちょっと間をもたせてから言った。 「まいった!」 師弟はしばらく黙ってお互いの顔を見つめあっていたが、さきに小五郎が吹き出した。新太郎も小五郎に呼応するように笑い出した。あはははっ、とふたりはしばらく気持ちよく笑っていたが、やがて笑いをおさめると、 「雨降って地固まるでな。その後、長州藩から懇請されて1年間萩に滞在し、藩士たちの武術を指導することになったのだ。桂はまだ子供だったから明倫館にも通っていなかったな。まあ、それが練兵館と長州藩が結ばれた縁のはじまりというわけだ。あのときの生意気な若造が、いまでは温厚な剣術師匠になったらしい」 「先生にそんな武勇伝があったとは知りませんでした。来島さんもたいした武者なのですねぇ。潔く、まいった、ですか」 小五郎の暗い表情がすこし明るくなったのを見て、 「人間生きていれば、いろいろなことが起こる。まして集団生活の中ではなおさらだ。桂、おまえは今までどおり塾頭を務めるのだ。なにも迷わず毅然として自分の信ずるとおり行動すればよい。兄弟子たちの苦情はぜんぶ私が引き受けるから、余計な心配はしなくていい。わかったな」 すこし恥らうように新太郎を見ながら、小五郎は「はい」と答えてこっくりうなずいた。 その夜、小五郎が寝付かれないままに本を読んでいると、部屋の中でなにかが息づく気配を感じた。ほの暗い灯りのむこうに黒い小さな塊がふたつの金色の光を放っていた。 「ハヤテ!」 小五郎は本を閉じてわきへおくと、おいで、と言って両手を差し出した。すぐに黒い塊は動き出し、小五郎の懐に飛び込んできた。その温かい塊を抱きしめて小五郎が言う。 「ありがとう。おまえが僕を救ってくれたんだよね」 ハヤテは小五郎の懐で、にゃあーと甘えるような声をあげた。 「おまえはあのお婆さんに飼われているの?」 小五郎が聞く。返事は期待できなかったが、彼は高熱に浮かされていた病臥中に夢を見たのだ。夢の中に出てきたあの老婆は確かにあのとき遭ったお婆さんだった、と小五郎は思う。去年の夏、ペリー米艦隊の再来に備えて幕府は品川砲台の築造を江川太郎左衛門に命じた。斎藤弥九郎も兵学の師として同行し、ぜひ現場を見たいと思った小五郎は弁当持ちに化けてふたりの師匠にしたがった。外様藩士が幕府の計画する工事現場には公然と入れなかったからだ。小五郎が茶店で休んでいる両師匠を店先ですわって待っていると、茶店から出てきた老婆が人足姿の小五郎をじっと見つめ、話しかけてきた。 「おまえさんは奴僕のような身なりをしていなさるが、どうもそうは見えないね」 小五郎はぎょっとしてその老婆に視線をむけた。老婆は小五郎を直視して、 「そうだろう。下手だね、変装が」 「い、いえ、私はただの下僕です」 すこしうろたえて言う小五郎を、老婆はなおも鋭い眼で見つめている。 「うーむ、こりゃ驚いた。おまえさんの瞳の中には……」 「なんですか。私の瞳がなにか?」 小五郎の問いには答えず、老婆は微かに笑みをこぼした。 「この国にも求めれば、人はいるものじゃ」 こくり、こくりとうなずくと、 「はやくおまえさんに相応しい仕事をみつけなされ。やがてこの国には大嵐がやってくるでな――」 それだけ言うと老婆は小五郎に背をむけて、杖をつきながらその場を去ってしまった。 「なんだよ、あの婆さんは」 それっきりあのときの老婆とは出逢っていない。だが、夢の中で小五郎は確かにあの老婆を見たのだ。 彼は川の中を歩いていた。向こう岸には彼を待っている人たちがいる。いや、ただ立ってこちらをじっと見ているだけだったのだが、両親や姉たちであることはわかっていた。はやく川をわたってみんなに逢いたい、と彼は思った。川面には霧がかかっており、視界はぼんやりとしていたが、なぜか対岸に佇む亡くなった父母や姉たちの顔をはっきり見分けることができた。はやく向こうに行きたい一心で、水の冷たさも感じなかった。だが、もう少しで岸にたどり着く寸前に、眼前の霧の中から白髪の老婆が幻のように現れたのだ。 「わたってはならぬ。岸にあがってはならぬ」 と彼女は小五郎にむかって叫んだ。そのときはあの茶店で遭った老婆だとは気づかなかった。ただ、婆さんが自分の行く手を阻んでいるのが口惜しかった。どいてくれ、と彼は言ったが老婆はどかなかった。逆に「かえれ!」とどなられた。 「ここはまだおまえさんの来るところではない。はやく戻るのじゃ。おまえさんにはやがて来る大嵐に立ち向かう使命がある。『尊王』の大義をかかげて戦う宿命がある」 老婆の声が木霊のように周囲になり響く。 「小五郎よ、わが八百万(やおろず)の神に誓うがよい。この国を夷狄の蹂躙からかならず護ると。戦火をしずめ、民をまもり、平和の世を築くまで、あらゆる艱難辛苦をその身に引き受けると誓うならば、いかなる危険からもこの婆(ばば)がそなたの命を護りぬこうぞえ」 「あなたは誰ですか? なぜ私にそんなことを言うのですか?」 小五郎の問いには答えず、老婆は最後に言った。 「おまえと共に戦う者たちの旗印は――尊皇攘夷。それを結束の手段とせよ」 そのとき、周囲の霧がはれて老婆の肩あたりに姿を現したのは、金色の双眸を光らせた黒猫――。小五郎が眠りから覚めたとき、死にいたる高熱は引いていた。 「あっ、桂さんだ!」 すぐにお供のふたりが稽古道具を放り出して駆け寄ってきた。 「もう、大丈夫なのですか?」 同時に同じ質問をするふたりに、小五郎は素振りをやめて向き直りながら、 「ああ、明日から道場に出てもよいと、大先生からお許しが出た」 「えっ、明日から? じゃあ、もう本当に大丈夫なのですね」 勇太が弾んだ声できく。 「ああ、もうすっかり元気になったよ。いろいろ心配かけて済まなかったな」 ふたりに微笑みながら小五郎が答えると、 「わーい、桂さんが元気になったー」 いきなりちび丸が両手をあげて拍子をとり、片足ずつ上げ下げしながら踊りはじめた。それを見ると勇太も、 「わーい、わーい、快気祝いだー」 相棒と同じ恰好をして踊りはじめた。歓之助はしばらく唖然として踊っているふたりを見ていたが、 「なんだ、おまえら。あの晩は『おれたちが先に帰ったのがいけなかったんだ』と言ってぴーぴー泣いていたくせに。単純な奴らだなあ」 呆れたように言って苦笑するが、ふたりはお構いなしに踊っている。歓之助もふたりを勝手に躍らせておいて、小五郎のほうに眼を向け、 「どうだ。俺がすこし相手をしてやろうか」 「ああ、そうだな」 歓之助が竹刀をとって小五郎と相対すると、ちび丸と勇太はぴたっと踊りをやめ、道場の壁際にすわって両雄の稽古の様子を見学した。最初は軽く竹刀をあわせ打ち合っていたが、しだいに竹刀を交える音が高まり、激しくなってきた。 「さすが、小五郎。もう以前と変わらないじゃねえか」 「どうした、歓之助。得意の突きがまだ出てないな。なにを遠慮している」 「なにを!」 病み上がりの相手を気遣って歓之助が手加減していることを、小五郎は見破っていた。急に歓之助はむきになって鋭い突きを繰り出してゆく。小五郎はすばやく身体を左右に動かして巧みに相手の攻撃をかわしながら、反撃の隙をねらっていた。歓之助はしまいには突きとみせかけて剣先をすばやく上段に動かし袈裟懸けに振りおろした。首元を打たれる寸前に小五郎は下段から竹刀を振り上げて歓之助の竹刀を受けとめた。そのすぐあとに小五郎が「あっ」と声をあげて自分の竹刀を床に落とした。左肩をおさえて片ひざをつく小五郎を見て、歓之助ははっと顔を強ばらせて攻撃の手をとめた。 「小五郎!」 うずくまって相手の顔をのぞきこみ、「大丈夫か?」と声をかけた。 「あ、ああ、大丈夫だ。ちょっと変なところに力を入れてしまって」 「痛むんだな、肩の傷」 「いや、ちょっと……たいした痛みじゃない」 ちび丸と勇太も立ち上がって、駆け寄ってきた。心配そうに小五郎を見るふたりに、 「大丈夫だよ。最初だからな――徐々に慣れるだろう」 「打ち合っているうちについ熱が入ってしまったな。あまり無理するなよ、小五郎」 「ああ――」 「当分は道場内だけの稽古にしておくのだな。外出も控えたほうがいい。まだ寒いから、体が十分慣れるまでは――」 「わかった、わかった。おまえは世話好き婆さんか。鬼歓の名もそろそろ返上するか?」 「なんだと。俺が本気で心配してやっているのに、なんだその言い草は」 歓之助が気色ばむと、 「わかっているよ、歓之助。ありがとう。ちょっと照れくさかっただけだ」 正直に小五郎が言うので「そ、そうか」と勧之助も矛をおさめた。 「あーっ。お肉わすれてた!」 ちび丸が急に言い出すと、 「あっ、そうだ。お肉買ってたんだ。はやく台所にもっていかなくちゃ」 ふたりはあわてて駆け出して、玄関においていた荷物を取り上げた。 「桂さーん。今晩は鹿肉、いや紅葉ですよ。秋は過ぎてもまだ紅葉ってね」 「おい、ちび丸、つまらぬことを言ってないで、はやく持っていってお袋さんに料理してもらえ」 歓之助に言われて、 「はーい。勇太、おまえはそっちの重いほう持ってね」 ふたりが荷物を持ってばたばたと玄関から出て行くと、 「俺はどちらかというと、猪のほうが好きだがな。おまえのおかげでこの頃では獣肉をよく食えるようになった。俺もたまには病気になってもいいな、肉が食えるなら」 歓之助が本気のような冗談を言うと、小五郎のほうはただ苦笑いするばかりだった。江戸時代には獣肉を食することは公には禁じられていたが、病人に滋養をつけるために「薬食い」といって猪や鹿の肉を食べることが密かに行われていた。幕末までには両国や麹町などで獣肉を売る店がでてきて、猪は牡丹、鹿は紅葉と異称をつけ、一度その味を知った者はやみつきになったようである。 小五郎が道場に復帰してから三日後、午前中の稽古も終わろうとしていたころになって、ひとりの若い剣士が練兵館を訪ねてきた。当番で応対に出たちび丸が稽古場に戻って来ると、新太郎に走りよって、 「あの、あの、あの」 と報告しようとするが、その先がなかなか出てこない。 「どうした、丸山。落ちつけ。鬼でも来たのか」 新太郎が怪訝な面持ちで聞く。 「い、いえ。それが、そ、相馬道場の者が――」 「相馬?」 「は、はい。相馬道場の水原伊織と申す者が、桂どのとお手合わせ願いたいと」 「なに?」 新太郎はすこし考え込む様子だったが、 「どんな男だ?」 「すごく若い男です。背もそれほど高くなく、礼儀正しいです」 「――私が行ってみよう」 新太郎は立ち上がり、道場の玄関に向かっていく。ちび丸はそのあとについていった。玄関に出てみると、なるほど総髪に髷を結った若い細身の男が土間に立って待っていた。相馬道場の水原伊織どのですか、と新太郎がたずねると、はい、そうです、と凛とした声で返事がかえってきた。 「私は斎藤新太郎です」 名前をきいて、訪問者は深く一礼して敬意をあらわした。 「桂と立ち合いたいと聞きましたが」 「はい。ぜひ、桂どのに一手ご教授願いたいのです」 「見たところ、あなたはまだ少年のようだが」 「少年ではありません。もう二十歳です」 すこしむっとしたように伊織がこたえた。 「残念ながら桂は目下病み上がりゆえ、他流試合は許しておりません」 「いえ、試合ではありません。一番でいいのでご指導いただきたいと申しているのです」 「同じことでしょう。桂はもう稽古をあがっている。私でよければお相手いたそう」 突然、歓之助が玄関に出てきて言った。どうやら稽古を途中でやめて、陰で話を聞いていたらしい。 「あなたは?」 「弟の歓之助です」 伊織はまた深く一礼してから、 「できれば桂どのにお願いしたいのです」 歓之助の眼が鋭く相手を射た。 「相馬の者がまたなにを企んでいる。桂の生死を確かめに来たのではないのか」 「歓之助!」 感情を顕わにする弟を新太郎が眼で制した。伊織は複雑な表情をして歓之助を見ている。 「否定しないところを見ると図星か?」 「なんのお話でしょうか。私はただ練兵館の塾頭の評判をきいて、剣の修業者として――」 「とにかく今日の稽古はもう終わりだ。お引きとりねがおう。どうしてもというなら私がお相手いたす。それが嫌なら二度とここには来ないことだな」 歓之助が訪問者を冷たく突きはなす。 「そこをなんとか――なにか相馬を誤解しているようですが、他意はありません。ただ桂どのの評判を慕って、一手お手合わせ願えればと」 「だから桂はいま――」 「いえ、私は構いません」 驚いた顔付きで歓之助が振りかえると、いつの間にか後ろに小五郎が立っていた。 「小五郎?」 歓之助にむかって、大丈夫だ、と言うようにうなずくと、 「私が桂小五郎です」 小五郎が軽く頭をさげて訪問者に挨拶をした。相手は小五郎に視線をむけて、 「水原伊織です。唐突にお訪ねして、勝手なことを願い出ましてまことに恐縮です」 「いえ。もし先生からお許しが出れば、他の者たちの稽古が終わったあとで、ゆっくりお相手したいと思いますが」 伊織は哀願するような眼で新太郎を見た。新太郎は苦笑して、 「しょうがないな。桂が構わないというならいいだろう。ただし、一番だけだ。まだ身体が本調子じゃないのだからな」 「あ、ありがとうございます」 小五郎よりも伊織のほうが先に頭を下げて礼を言った。 午前中の稽古がおわって門人たちが出払いがらんとした道場の中央に、小五郎と伊織が竹刀をとって対峙している。正面には新太郎が、やや離れたところに歓之助が座してふたりの立合いをじっと見守っており、接客当番のちび丸と勇太は玄関の衝立の陰から顔だけ出して、なかの様子を固唾を呑んでうかがっていた。伊織の希望により、ふたりとも防具は着けていない。小五郎はやや切っ先を下げた平青眼(刀を横にした中段構え)で相手の攻撃を待ち、伊織は青眼(正面中段構え)に構えているが、容易に動こうとはしない。相手が待ちきれず攻めに転ずるのを待っている様子だった。 どこからの攻撃にも対応する自信があるのか――確かに隙がない、と小五郎は感心する。誘うように竹刀をすっと前方に動かして上段に構えようとしたとき、伊織がうごいた。攻めるというよりも、自分から竹刀を合わせにきたという感じだった。ふたりは正面で鋭く竹刀を交えると、互いの力量を探るようにまた動きを止めた。双方とも相手を凝視し、ほとんど同時に後方に引き、すぐにまた竹刀を合わせた。それからまた同時に引き、伊織がすばやく横に動くと、小五郎も同じ方向に動いてゆく。その後は互いに知り尽くした同流の剣技が展開されていった。 速い、と思ったのは新太郎ばかりではない。歓之助も、ちび丸たちも、両者の動きの速さに驚いていた。小五郎のすばやい身のこなしに、伊織も負けじとしっかりついていっているのだ。練兵館の門弟中でも、これほど小五郎の動きにぴったりついてゆける者はいない。小五郎は相手の技量を知るために、意識的に勝負の決着を遅らせているようだった。攻めから防御へ、防御から攻めへと、めまぐるしく展開する立合いは、最後にはどういう弾みか伊織の竹刀が空中高くとばされ、小五郎が跳躍して振り下ろした竹刀が相手の頭蓋骨を打ち砕く寸前で止まったときに決着した。 「まいりました!」 伊織は床に両手をついて敗北をみとめた。顔は熱にほてり、額からにじみ出る汗がぽたぽたと落ちて床を濡らしていた。 「相馬どのはよい門弟をもっておられる」 小五郎が心底感心したように言った。 「あなたこそ聞きしに勝る剣豪と身をもって悟りました。ありがとうございました」 挑戦者が頭をさげて返礼する。ぴんと張り詰めた道場の空気はいまようやく和らいできたようだった。 「なかなかおもしろい勝負だった」 言いながら歓之助が立ち上がった。 「相馬の門人にも礼儀を知る、まともな奴もいるようだな」 玄関のほうでは壁に背をもたせながら、ちび丸と勇太がはーっと息をつぎ「汗、汗、汗」と言いながら両手のひらを握ったり開いたりしていた。歓之助が午後の出張稽古のために道場を去ると、新太郎が、 「おなかがすいておられるだろう。どうですか、ここで食べていかれたら?」 親切な誘いに伊織は礼を述べてから、 「いまはそれほど空腹ではないので大丈夫です。それよりお許しいただければ、少しだけ桂どのとお話したいのですが」 遠慮がちに言うのを聞いて、新太郎は小五郎に視線をむけた。 「ええ、私は構いません。では二階の読書室で――」 小五郎は二階にある塾頭専用の読書室に伊織をみちびいた。六畳二間ほどの部屋に入ると、ふたりは向かい合ってすわった。 「お話とはなんでしょうか」 すぐに小五郎がたずねた。 「こんなこと申し上げてよいのかわかりませんが、お気を悪くされないでください」 「どうぞ、なんなりと――」 「あの、最近のことですが、練兵館の塾頭が辻斬りにやられたらしいという噂を耳にしました」 「……」 「その噂は本当なのでしょうか」 「なぜ、そのようなことを聞くのです?」 小五郎の眼はすこし警戒するように光った。 「もし本当なら、あの、失礼ながら、その傷口を見せていただけないでしょうか」 「……」 「ぶしつけなお願いだとはわかっています。でも、けっして他言はいたしません。信じてください」 相手の大胆な懇請に小五郎は戸惑っていた。いったい彼の真意はなんなのか――。 「どうしてもお嫌ならしかたありませんが、他言はいたしませんので、どうか私を信じてください」 もう一度請いをくりかえす伊織の眼は真剣で澄みきっていた。小五郎はなお逡巡していたが、やがて黙って左手を袂にいれ、着物の内側から襟をひらいて左肩をあらわにした。さらに右手で襦袢ごと着物を腰ちかくまで下げると、くるりと身体を回転させて相手に背中を見せた。伊織の眼ははっと大きく見開かれる。左肩から背中の半ばまで一筋くっきりと隆起した刀創が、まだ生々しい抜糸の跡とともに痛々しく眼にうつった。しばらく声も発せられないまま、その創に見入っていたが、 「もういいです。ありがとうございました」 伊織は深々と頭をさげた。小五郎はもとどおり衣服を整えると、再び相手のほうに向きなおった。 「無理なお願いをしてすみませんでした」 もう一度、伊織はすまなそうに頭をさげた。 「いえ、別に――。創痕(きずあと)は日が経てばだんだん薄れてくるそうです」 すこし沈黙したあとで、 「水原どの、でしたね?」 「え、ええ。水原伊織です。でも、どうぞ、伊織と呼んでください」 「では、伊織どの。私からもひとつ、訊ねたいことがあります」 「なんでしょうか」 うつむきがちな顔をあげて伊織がきく。小五郎はじっと相手の顔を見つめている。 「あなたはなぜ、男の身なりをしているのですか?」 小五郎の問いかけに、はっと伊織の顔色が変わった。 「だって、あなたは女でしょう?」 あまりにもはっきり小五郎が問うと、相手の眼には剣呑な光が宿りだした。 「伊織どの。私は女姉妹のなかで育ったので、女の匂いにはけっこう敏感なのですよ」 ふっと笑みをこぼして小五郎が言うと、穏やかだった相手の顔は夜叉のような猛々しさを帯びてきた。一瞬の油断を突いて伊織は小五郎に襲いかかり、彼の両肩を畳に押しつけた。 「あうっ」 小五郎がうめき声をもらしたのは、相手が左肩をぎゅっとつかんだからだった。 「や、やめろ!」 「痛いか。痛いだろう。私は知っているのだ。あんたがほとんど右手だけで竹刀を握っていたのを」 「い、伊織どの。手を、手を放してくれ」 「いやだ!」 「伊――」 「放して欲しいなら二度と、女だろう、などと言うな」 「わ、わかった。言わない。もう言わないから――」 「本当に言わないな?」 「ああ、本当に、言わない」 「約束するか?」 「約束……する」 「よし、それなら放してやろう」 伊織は小五郎に馬乗りになっていた身体を起こして相手を解放した。小五郎は左肩を押さえて、まだ痛そうにうずくまっていた。 「くそぅ、じゃじゃ馬め!」 「なに。なにか言ったか?」 「い、いや。なんでもない」 小五郎の額には脂汗がにじんでいる。 「それにしても、ここの道場主はやさしいな。すっかり私を信用してしまったようだ」 「……」 「私はあんたの泣き所を握ったのだ。しばらく私には勝てないだろう」 小五郎はなにか得体の知れない生き物でも見るように、意外な乱暴ぶりを露呈する眼前の招かざる客に視線をそそいでいた。 「伊織どの、私にはわからない」 「なにが?」 「私の刀創をみて憐憫の情をしめすあなたと、その傷を襲って私を痛めつけようとするあなたと、どちらが本当の伊織どのなのか」 「……」 「なぜ、ここに来たのです。相馬どのの指図なのですか」 「違う。師匠はなにも知らない」 「あなたはただの門人ですか」 「――相馬道場の主(あるじ)相馬源三郎は私の伯父です。両親はすでに亡くなっているので、私は相馬の養子のようなものです」 沈黙がふたりの距離をへだてた。 「そうでしたか」 またすこし間があった後、伊織がさきに口をひらいた。 「蕎麦屋ではうちの門弟が失礼を働いたそうで、すまなかった」 小五郎はこたえず、ただじっと相手を観察していた。手の白さと比べて顔色がずいぶん暗い、と彼は思った。なにか塗っているのかもしれない。面長の顔はよくみると端正だが、やや目じりが上がり気味の切れ長の眼は和むときは優しげだが、怒気を含めば鋭利な光を放って意外な野性をあらわすように小五郎にはみえた。 「あなたの眼、どこかで見たことがある」 小五郎の言葉に相手はまたしても態度を変じ、眼を光らせた。 「あ、いや、気のせいだ。きっと」 身の危険を感じて小五郎はすぐに否定した。たしかに女だとは思ったが、その攻撃性はとても女のものとは思えなかった。 「そろそろお引取りいただけないだろうか。いささか空腹を感じてきたので」 相手はすでに平静な態度にもどって、 「いっしょに外に食べにいきませんか」 と小五郎を誘った。また驚かされた小五郎は、 「いや、遠慮しておこう。我々はそんな間柄ではないでしょう」 伊織は一瞬ことばに詰まったように無言で小五郎を見ていたが、 「ちょっと乱暴をしたことは謝ります。でも、私はけっしてあなたを傷つけるつもりはないのです」 「……」 「相馬をあまり嫌わないでくれますか」 「……」 「私は伯父上とは違います」 「それ以上は言わないほうがいい。伊織どの、あなたはもうここに来るべきではありません」 「なぜですか」 「それはあなたがご存知でしょう」 「私は――」 「とにかく今日はもうお引き取りください」 きっぱりと言う小五郎に、 「では、またお手合わせ願えますか」 「機会があれば」 「機会とはいつですか」 「伊織どの」 「私はもうすこし話したいことがあるのです。やはりいっしょに外に食べにいきましょう」 伊織は膝をすすめて半腰になると、小五郎の左腕をつかんだ。相手の強引さに、小五郎はすっかり困って対応に窮した。そのとき、すっと廊下側の障子戸がひらいた。ふたりが同時にそちらのほうを振りむくと、そこに新太郎が立っていた。 「だいぶ桂を困らせているようですね」 うすく笑う口元とは対照的に、新太郎の眼は厳しい光を帯びていた。 「桂にはまだ外出を禁じております。どうぞご退出ください。さもないと門弟たちに無理やりここから出させることになりますぞ」 さすがに恥じたのか、伊織は小五郎の腕を放して立ち上がった。 「失礼の段はお許しください」 それだけ言うと、訪問者は新太郎のわきを通りぬけて廊下にはしりでた。 「やはり女か――」 新太郎はつぶやくと、小五郎のほうに歩みより、彼の前で片膝をついて身をかがめた。 「桂、とんだ女狐に魅入られたようだな。気をつけたがいい」 「……」 「厄介なことにならねばよいが――」 小五郎はただ困惑の表情をして、救援者を見るばかりだった。 |