[れんぺいかんのはな]
第三章 誓いの剣(6)〜(8) 翌日の午後、小五郎が自室で気に入った書物を書き写していると、袴田弘蔵がやってきた。袴田は水戸藩士で同じ塾生だが、父親が病にかかったということで年末から水戸に帰っていた。小五郎とは気が合って、入塾当初から親しくしている者の一人だった。 「桂、もう稽古に出ているんだって。身体はだいじょうぶなのか?」 すこし体重を増した袴田は、重たそうに腰を下ろして胡坐をかいた。 「ああ、もうだいじょうぶだ。そっちはどうだい」 筆をおいて、文机から身体をまわしながら小五郎が問いかえした。 「親父どのの病気はなんとか快癒したよ。もう心配はない」 「それはよかった。君も長男だから大変だったろう」 「いや、お袋さんがいるからね、江戸遊学の継続も許可してくれたし、ほっとした。でも、正月は餅などたらふく食べて稽古を怠けていたから、ちょっと太ってしまったよ。先生に怒られるな、こりゃ」 「明日から気合をいれて励めば、すぐにもとの体型にもどるだろう」 小五郎が笑いながら言う。 「おまえはだいぶ大変だったようだな。なにしろ鬼歓に面会謝絶だとか言われて、全然見舞いもさせてもらえなかったのだから」 「心配をかけて、すまなかった……」 小五郎が口ごもると、袴田は気をきかして詮索めいた質問はせず、 「いや、桂は必ず元気になるとおれは信じていたよ。おまえのような一流の剣客にして信義、人望ともに秀でた漢(おとこ)には今後もしぶとく生きてもらわなくては皇国の行く末にもかかわるからな」 小五郎は相手の言葉に別の関心をあらわした。 「最近、水戸藩は幕政にもずいぶん熱心なようだね。君は藤田東湖氏の弟子なのだろう」 「ああ、そうだよ」 「尊皇攘夷か――。一度おれも会ってみたいな、藤田さんに」 「会いたいなら話しておくぜ。練兵館の塾頭が会いたがっていると知ったら、藤田先生も喜んで会われるだろう」 「でも、幕府はどうなのかな。水戸の殿様は開国には反対なのだろう。ペリーは今年三月ごろ再来すると言っていたそうだけど」 「おい、おまえ、知らないのか?」 袴田がちょっと驚いたように聞く。 「えっ、なにが?」 「ペリーは一月中には来るらしいぞ」 「一月中に? じゃあ、もうすぐじゃないか。本当なのか」 「ああ、藩邸で聞いたんだ。少なくとも大先生は知っているはずだぞ。江川先生から話を聞いているに違いないからな」 小五郎の表情は緊張にこわばってきた。では、また日本中に去年のあの大騒ぎが再燃するのか。今度は夷狄も手ぶらでおとなしく帰るとは思えない。小五郎は急に胸騒ぎがしてきた。なにかが起こりそうな気がする。なにか、容易ならぬことが起こるのではないか? 彼は夢で見た、あの老婆の予言のような言葉を思い出していた。 おまえさんにはやがて来る大嵐に立ち向かう使命がある。『尊王』の大義をかかげて戦う宿命がある――。 部屋に入るなり、座するまもなく源三郎の平手打ちがとんだ。畳に倒れこんだ伊織は打たれた左頬を手のひらでおさえてうずくまった。 「なぜ打たれたかわかっているな」 立ったまま伊織を見下ろし、怒気を含んだ声で源三郎が言う。 「……」 伊織はなにもこたえない。視線を落としたまま、伯父を見ようともしなかった。 「他道場への出入りは禁じてあるはずだ」 「……」 「おまえが斎藤道場に行ったのは知れている」 「……」 「なぜ行った」 貝のように口を閉ざし、依然として伊織はなにも答えようとはしない。源三郎は問うのをやめた。彼はくるりと背中をむけて床の間のそばまで行くと、踵を返してその場にすわりこんだ。 「おまえもこちらへ来て、すわりなさい」 脇息に寄りかかりながら、彼はやや口調をやわらげて伊織をまねいた。彼女は立ち上がり、素直に伯父の言葉にしたがった。 「正直に申してみよ。なぜ斎藤のところに行ったのだ」 源三郎は感情をおさえて穏やかにたずねた。 「桂どのと立ち合いたかったからです」 淡々とした口調で伊織はこたえた。 「で、立ち合ったのか」 「はい」 「どちらが勝った」 「桂どのです」 源三郎は斎藤道場に放った間諜の報告により、その勝敗の行方を知っていたが、すべてを本人の口から聴こうと思っていた。 「それで、桂はどんな剣客だった?」 「――うわさどおり、というよりも、うわさ以上だと思いました」 「おまえの敵う相手ではないと、わしは言わなかったか」 「どうしても自分で立ち合って、確かめたかったのです」 源三郎は黙って伊織を凝視してから、 「目的はそれだけか」 と、やや声を鋭くして聞いた。 「えっ?」 「目的はそれだけか、と聞いておる」 「……」 「すべて正直に申せば、咎めることはない」 伊織はうつむいて思案する様子だったが、 「もうひとつ、桂の刀創を確かめたかったのです」 胸のうちを正直に明かした。源三郎はちょっとむっとしたようだったが、すぐに新たな問いを投げかける。 「どうやって?」 「実際に、桂の背中の創をこの眼で見ました」 「奴の刀創を見ただと!」 源三郎が驚いたように聞きかえすと、 「はい、口外しないから見せてくれと頼んだら、すこしためらっていましたが、結局片肌脱いで背中を見せてくれました」 呆れかえったような表情をして源三郎は伊織を見た。 「なんと大胆なことをたのむ奴だ! 桂もよく見せてくれたな」 「どうも人が良さそうです。信じやすいというか」 「伊織!」 「はい」 「それは桂がおまえの正体を、見抜いたからではないのか」 「……」 「そうなのだな?」 「……」 「答えられぬところをみると、図星か?」 「だいじょうぶです。彼には口止めしておきましたから」 今度は源三郎のほうが返事につまったが、最後に釘を刺すことを忘れなかった。 「今後、二度と斎藤道場に行ってはならぬ。桂に逢うことも禁じる。当分、外出も控えることだ」 伊織は返事をせずに沈黙した。 「聞こえたか、伊織」 「聞こえません」 「なに!?」 彼女はにわかに立ち上がった。 「伯父上。私はあなたの人形ではありません。もう子供ではない。自分の行動には自分で責任を取れます。外出も好きなときにしたいのです。いつまでも家の中でばかり過ごすのは飽き飽きしました」 伊織は胸にたまっていた不満を吐き出すと、源三郎に背を向けて走り去ろうとした。 「伊織!」 「もういやです。私の好きにさせてください!」 部屋の襖をあけて、伊織は縁側から庭にとびだした。 裸足で潅木の茂みを通り抜け、裏口から外に走り出ようとしたとき、ちょうど外から入ってきた門人らしき男と鉢合わせた。あっ、とその男は声をあげ、眼を大きく見ひらいた。 「伊織どの!」 呼ぶがはやいか、伊織はその男にとびかかった。 「重助、やはりおまえだな。伯父に告げ口したのは!」 伊織は男を地面に押したおして何度か平手打ちを食らわすと、両手で首を絞めはじめた。そのとき、外の異様な物音に気づいた年配の女が台所口から出てきて、驚きの声をあげた。 「伊織さん、なにをしているのです!」 女がかけよって伊織の身体に触れようとすると、 「ええい、触るな。こいつを殺してやるのだ!」 相手の剣幕におもわず身を引いて、女がおろおろしていると、伊織を追ってきた源三郎がふたりに近づき、 「おい、落ちつけ、伊織! やめるんだ」 うしろから伊織の身体を抱き起こして、被害者の男から引きはなした。 「はなせ! ばか!」 つかまれた伯父の腕の中で伊織はもがき、あばれた。やむを得ず、源三郎があて身をくらわすと、狂ったような彼女はぐったりとなり、そのまま気をうしなった。 「だいじょうぶか、重助」 重助は四つんばいになって咳き込んでいたが、 「は、はい。だいじょうぶです」 苦しそうに息を継ぎながら、なんとかこたえた。 「於初、布団を敷いてくれ」 「は、はい」 於初と呼ばれた源三郎の妻らしき女は、まだ狼狽した様子で慌てて家の中にはいっていった。 布団の中で静かに眠っている伊織を、源三郎は傍らにすわってじっと見つめていた。その寝顔はおだやかで、娘らしく可憐で、つい先ほど男の首を絞めていた者と同一人だとはとても思えなかった。 「於初、わしは伊織の育て方を間違えたのかもしれぬ」 そばで洗濯物をたたんでいる妻に、ぽつんと言う。 「伊織さんは可哀そうですよ。もう女にもどしてやったほうがいいのかもしれません」 「うむ」 生れたときから男として育てたのだ。時おりみせる伊織の狂暴な性質は、自分にも大いに責任があると源三郎は思っている。伊織の中に潜む男としての野性は、源三郎の暗い過去を写す鏡のようでもあった。 ペリー艦隊が再び日本にやってきたのは一月半ばだった。軍艦はサスケハナ、ポーハタン、ミシシッピーなど全七隻で、今度は江戸湾ふかく侵入して小柴沖に停泊した。一種の威嚇だが、慌てた幕府が浦賀に回航するように促しても米艦隊がわはこれを拒否した。幕府は応対場所を鎌倉か浦賀にすることを知らせたのだが、ペリーはもっと江戸に近い場所を望んでこれも拒否し、全艦隊を羽田沖まですすめて空砲を放つなど武力による威嚇をつづけた。ついに神奈川の横浜村で応接する旨を幕府がわが告げると、米艦隊がわもこの譲歩を威嚇外交の勝利とみて承諾した。 米艦隊の再来を承知していながら、前年のペリー初来航以来、幕府はなんらの具体的な対策も決定できずに無駄に時を過ごしてきた。海防参与に就任していた水戸の徳川斉昭はあくまでも攘夷を主張し、日本の海防の準備が整うまで当分は回答を引きのばす「ぶらかし」策を採ることを老中筆頭・阿部正弘に提言した。ところが幕閣はペリー艦隊の武威を恐れて開国の方向に傾いていたので、斉昭はおおいに不満であった。幕府は下田の開港はやむを得ないと思っていた。 こうした状況のなか、弥九郎と小五郎の師弟はふたりだけで話し合う機会をもった。弥九郎は居室にめったに弟子を入れることはなかったのだが、小五郎は別であった。彼はいずれ小五郎が長州藩の要職に就いて、藩論を主導する立場にたつだろうことを予感していた。だが彼は自らが信奉する水戸藩の尊攘思想を小五郎に押し付けることはしなかった。自分は考える材料をこの愛弟子に与えるだけで、その先は本人が判断するべきことだと弥九郎は思っている。小五郎は一見穏やかに見えるが、剣をとれば凛として威あり、それでいてけっして粗野な猛々しさを感じさせない。なにごともおろそかにすることなくひたむきである。そのひたむきさは小五郎の長所ではあるが、ときとしてある種のあやうさを招きもすることを、弥九郎は感じ取っている。 「幕府と米艦隊の問題などを話すまえに、そなたに聞いておきたいことがある」 と、まず師は弟子に問いかけた。 「なんでしょうか」 師のまえで端座し神妙な表情で小五郎がきく。弥九郎は弟子の眼の奥を覗きこむように深い眼差しを投げかけている。 「あの賊に襲われた晩のことだが、そなたが剣を抜かなかったことは聞いている。歓之助にそのわけを問われたとき、苦しい息の下から練兵館の道場訓を述べたそうだな」 「すみません。私はよく覚えていないのです。あの晩のことは――」 ハヤテに導かれて練兵館に帰る途上で倒れてしまったことまでは覚えている。だが、そのさきのことは自分の記憶にないのだと、小五郎は言う。 「そうか。では無意識に言ったのだろう。そなたが命の危険の中でも道場訓を守ろうとしたことは不思議とは思わぬ。桂小五郎はそういう人物だと見定めたからこそわが道場の塾頭にしたのだからな」 「……」 「だが、剣を抜かなかった理由は、いったいそれだけか?」 小五郎は問い返すような眼差しで師匠を見た。弥九郎はそれに応えて言葉をつづける。 「いかに守るべき規則でも、自分が命の危険にさらされた刹那には、そうした訓戒は忘れてしまうものだ。本能的に身を護ろうとして、大抵の者は無意識に剣を抜く」 「……」 「そうではないか、小五郎?」 「……」 「そなたは賊の首領を無刀では勝てない相手だと見抜いていたのではないか。それなのに剣を抜くことをためらった。いや、それより前に逃げなかった。戦いを忌避したかったのであれば、そなたはその場から逃げようと思えば、いくらでも逃げられたはずじゃ」 「大先生、正直に申し上げます。私がなぜ逃げなかったのか。いや、逃げられなかったのか」 小五郎はすでにすべてを打ち明ける心の準備ができているようだった。 「そうか。では聴こう」 小五郎を促すように、弥九郎も弟子の言葉を待つ構えにはいった。 「それは――妖気です」 「妖気?」 「はい。相手からなにか異様な妖気が発せられるのを、私は感じたのです」 「……」 「私を包みこんでゆくその妖気が恐かったのです。恐ければ逃げればよいと思われるかもしれませんが、逆に逃げればその妖気はさらに倍加され、そののち、どこまでも私を追っかけてくるような気がしてぞっとしたのです。その妖気と正面からむきあって私が戦う姿勢をみせれば、その妖気をすこしでも宥めることができるのではないかと思って、逃れる機会を逸しました」 小五郎の話を聴いて弥九郎は喫驚した。では、彼はその場かぎりの対応をせず、将来の影響を考えて行動したということになる。その妖気の正体を弥九郎は知っている。小五郎の予測のたしかさと、危機の中でそれを予測しえた冷静さに、彼は驚いたのである。その後、賊は小五郎にひと太刀あびせており、それがわずかでも妖気を減じる結果になったかもしれない。まさか、小五郎がその効果を狙ってわざと斬られたわけではなかろうが。あるいは彼は肉を切らせて、なにか悪しき状況を好転させようと意図したのか……いや、そこまで思慮周密であろうか。だが、自分はまだこの愛弟子を十分に理解していないのかもしれぬ。そんな内心の思いに捉われていた弥九郎に、 「それから私が剣を抜かなかった理由ですが」 小五郎はさらに打ち明けて語った。 「私も未熟者ですから、本当に自分の命が危ないと思えば『止むを得ざるとき』と自ら弁解し、剣を抜いていたかもしれません。でも私は亡くなった父と約束をしたのです」 「約束? そなたはたしか、桂家に養子に入ったのだったな」 「はい。生家は和田といい、実父は藩医でした。私が桂家に養子にはいるとき、その父が私に言ったのです。もとは医家の子であることをけっして忘れるな、と」 医家の子は本来なら人の命を助ける医術を継ぐのだと、実父の昌景は小五郎に話したという。 「そなたは明日から武家の子となる。武家の子は剣の修業をつみ、時には戦わなければならぬときもあろう。あるいは私闘におよぶ場合があるやもしれぬ。だが、小五郎よ、いかなる危機の中にあろうとも、けっして人を殺めてはならぬ。人を斬るために剣を抜いてはならぬ。医師は人の命を助けるのが務めじゃ。そなたの身体に医家の血が流れているかぎり、その任務を忘れてはならぬ」 小五郎の前に用意した剣をおいて、昌景の訓戒はなおも続いてゆく。 「万一、人と斬り合わねばならぬ事態が生じたら、武士の体面よりも医の心を重んじて、なんとか逃れる途を講ぜよ。相手も生かし、自分も生きる術を全力で考えるのじゃ。そなたが剣を用いるときは、主家になんらかの災難がおよび、そなたが剣をとらずばその災難を避け得ないと判断したときのみじゃ。それで主家や大勢の藩士、同志を救えるならば、あるいはそれが和平の途につながると信じるならば、そのときこそ乾坤一擲、最後の剣を振るうがいい」 「わかりました、父上。それ以外、けっして剣をとって人を殺めはいたしません」 父の眼をまっすぐに見て、まだ七歳の幼い小五郎は答えた。 「では、この剣に誓うがよい」 昌景は畳においた剣を両手で捧げるように持って、小五郎にわたしながら言う。 「剣をもってけっして殺生いたさぬこと。いかなるときも己が命同様、人の命をも救うように全知を尽くすこと。たとえ剣を違えても剣は同じじゃ。身に帯びるすべての剣にかけて誓うがよい」 「誓います、父上」 そこまで小五郎の話を聴いて、弥九郎は己が眼のたしかさを改めて知ったのだった。 「では、そなたはわが門にはいる前から、すでに神道無念流の剣心を身につけていたことになる。『兵は凶器といえば、その身一生用ゆることなきは大幸というべし』とはそなたの父が教えた医の心とまさに一致する。命の尊さ、和平への祈りは『誓いの剣』とともに父から子に引き継がれた。その『誓いの剣』が武家の子となって成長したそなたをわが練兵館に導いたのかもしれぬ。いかなる危険にみまわれてもその誓いを守ろうとするのは、あるいはそなたの身体に流れる医家の血が本能的になさしめるのかとも思われる」 「しかし私は未熟ゆえ、刀を抜かずに己が身を護る術を十分に心得ておりません。私にはそれが口惜しいのです」 愛弟子の身に振りかかった災難を、どのようにも防ぎ得なかった弥九郎は、無念の思いを含んだ口調で、 「小五郎、相馬のことは申しわけなく思っている。すべてはわしに対する私怨から起きたこと。そなたを傷つければ、わしが苦しむことを彼は知っているのだ。いずれ相馬とは話しをつけねばならぬと思っている。そなたにもすべてを話すときがこよう。だが今はそのようなことでそなたを煩わせたくはない。この国全体がたいへんな試練を迎えようとしているときじゃ。その備えをしなければならぬ」 「大先生、私も心配しております。わが藩も防衛力の強化に努めなければなりませんが、幕府は開国をすすめる方針なのでしょうか」 「江川どのによると、どうやら下田開港は避けられぬようじゃ」 「しかし、お隣の清国もアヘン戦争などで大変なめにあっているというではありませんか。日本はだいじょうぶなのでしょうか」 「最初の対応を誤れば日本もどうなるかわからぬ。向こうの要求をあっさり受け入れて開国すれば、与しやすしとみられて諸外国はさらに多くを要求してこよう。一度は抵抗して闘う姿勢をみせねば、日本は一方的に譲歩を迫られるだけじゃ」 「でも、幕府のすることに我々が口を挟むことはできません」 「うむ。たしかに――」 弥九郎は腕を組んで眼を閉じ、しばし考え込む様子だった。 「いずれ日本に内乱が起こるやもしれぬ」 再び眼を開いて、弟子のほうに視線をむけ、 「小五郎、わしはそなたを相馬の妖気から護らねばならぬ。父との誓いで封印したその剣に替わって、そなたに新たな術を授けたい」 「新たな術?」 「そう。他の者にはなんの役にも立たぬがな。この術を使うまえに百人が百人、みな刀を抜いているからじゃ。自分を護り敵にも致命傷を与えぬ、かつてわしがあみ出した無刀の秘術じゃ。これを役立たせ、伝授できるのはそなたしかおらぬ」 「……」 「そなたは生きねばならぬぞ、小五郎。人を殺めぬ誓いは立派なれども、そなたの父の言うとおり、最後の剣を抜くことを恐れてはならぬ。明日の世の安寧を克ち得るために、血を流さねばならぬときもある。徳川幕府二百数十年の泰平も、大勢の犠牲者を出した戦国の世があったればこそ実現したものじゃ。まして今、日本は未曾有の国難に直面している。そなたの『誓いの剣』が最後には涙で曇ろうとも、この国の内乱はもはや避けられまい。だが、和平を志向するそなたの血が、医の心が、この国を決定的な破滅からすくう役目を果たすやもしれぬ」 弥九郎の言うことが、夢でみたあの老婆の予言と酷似していることに小五郎は気づいていた。 斎藤弥九郎の住居には門から一番はなれた場所に十二畳ほどの板敷きの部屋があった。プライベートな小道場で原則として門弟は入れない。斎藤父子だけが秘伝や新たな剣技を研究するために使っている稽古場だった。ひとりで使いたいときには出入口に入室禁止の札を下げておけば、他の家族は入らない黙約がなされていた。 今、弥九郎と小五郎がその小道場で対峙している。数本の蝋燭のほの暗い明りだけが殺風景な部屋の中を照らし出していた。竹刀を持っているのは弥九郎だけで、小五郎のほうは無手である。実戦を想定しているので防具もいっさい着けていない。神道無念流の上級レベルの『逃げの剣技』はすでに小五郎に授けていたが、同流の相馬にはすべての動きを読まれてしまう。小五郎の敏捷さを活かすためにはいま一段の工夫が必要だった。さらに相手の意表をつく高度な技を習得すれば、あとは本人がそれに磨きをかけ、無敵の技に昇華させることもできるだろう。小五郎ならばそこまでもってゆける力量はあると弥九郎はみている。 「まずは基本の動きからじゃ」 「はい」 上段の構えから弥九郎が振り下ろす竹刀を、小五郎は一歩退いて避ける。もう一度同じ攻撃に対して今度は右に動いて避ける。三度目は左に動く。 「では、二の太刀ゆくぞ」 逃れてすぐに次の攻撃に備えなければならない。そして三の太刀、四の太刀と攻撃が連続する。護る側は攻撃を仕掛けず、ただ逃げる。逃げに徹する稽古がつづいてゆく。 「今度は攻撃を入れてみよ」 師匠の指示で、弟子は逃げから攻撃を仕掛けてゆく。失敗すればすばやく退く。それを何度か繰り返してゆくうちに、弥九郎の竹刀が小五郎の右肩にかるく触れた。 「どうした、小五郎。真剣なら斬られているぞ」 相手の当て身の攻撃を予測して、弥九郎がわずかに体をそらせ、すばやく竹刀を振り下ろすと、さすがの小五郎もこれをかわせなかった。その後、胴、上腕、頸部と師匠の竹刀に叩かれ、攻撃をはばまれた。 「これでは無刀の秘術を授けられぬな。まだ攻撃が甘い。師匠とおもわず思い切り攻めてこぬか」 痛いところを突かれたのか、小五郎の攻めの動きも激しさを増していった。こんな秘密の稽古がいっ時(二時間)近くはつづいただろうか。 「今日はここまでにしておこうか。動きがかなり柔軟になってきている。わしの望む段階まであともうすこしじゃ」 「ありがとうございます」 師にむかって小五郎は一礼した。が、そのまま片膝をついて上半身をあげることができなかった。うーっ、と押し殺したようなうめき声をあげるのを聞いて、弥九郎は両手で弟子の身体をささえた。 「す、すみません」 小五郎は右手で左肩を押さえていた。 「痛むのか、創が?」 「ええ、すこし……でも、だいじょうぶです」 彼の顔のほてりは単に長い稽古のせいばかりではないようだった。弥九郎は眉をひそめて考えこんだ。小五郎の左肩は意識的に打たないように気をつけていたはずだった。だが、全身の筋肉を使った激しい動きは、彼の癒えたばかりの創にかなりの負担をかけていたのかもしれない。床に腰を下ろして瞑想しはじめた師匠を見て、小五郎はあわてた。 「大先生、私はだいじょうぶです。一時的に痛くなることはあっても、すぐに治まるので大事ありません。稽古はできます。本当にできますから」 弟子は必死に弁解するが、師は黙したままこたえない。だいじょうぶだと言いながらも、小五郎は痛みに耐えるかのようにおもわず眼を閉じ、はぁ、はぁと息を整えなければならなかった。弥九郎は表情をくもらせ、 「そなたの創、後遺症がしばらくつづきそうじゃな。長びかねばよいが――」 「……」 「わしもすこし焦りすぎたかもしれぬ。明日からは稽古の時間を短縮する。そなたも痛み出したらがまんせずに、すぐに言うことじゃ」 「がまんはしていません。稽古が終わったら急に痛み出したのです」 「そうか……」 弥九郎の眼はいつになく憂いを帯びていた。自らもなにか痛みに耐えるように眉間に深い皺を寄せている。そんな師の様子を見ることが小五郎にはまたつらかった。 「私はだいじょうぶです。本当に」 小五郎の師を思いやる言葉に、弥九郎は黙ってうなずくと、 「そなたには苦しい思いをさせてしまうがな、わしは一刻もはやくわが秘術をそなたに授けたい。稽古の時間は加減するが、あと五日がまんできるか?」 「もちろんです。問われるまでもありません」 翌日も師弟の秘密の夜間稽古はつづけられた。そして五日目に、小五郎はわが身を護る無刀の秘術を弥九郎から授けられた。下田沖の波頭はしだいに高くうねりはじめ、嵐を呼ぶ暗雲は海上から極東の小さな島国をめざして、今まさに動き出そうとしていた。(第三章 了) |