[れんぺいかんのはな]  

練兵館の華

第四章  熱き漢(おとこ)をしずめよ

(1)

 練兵館のある麹町三番町は幕府直参の旗本・御家人衆(大番組)の屋敷が塀を連ね、道場の前方は火除地の空地が広がり、晴れた日は市ヶ谷方面にのびる道の彼方に富士山が眺望された。一見平穏な町並みのなかで門人たちの剣術修業が続けられていたが、ペリー艦隊は依然として横浜海岸に停泊し、幕府側に和親条約の締結を迫っていた。午前中の稽古が終わってから、小五郎は自室で塾友の水戸藩士袴田と話をしていた。彼の膝の上にはハヤテが丸くなってうとうとと寝入っている。
「それは本当の話なのか?」
 小五郎が暗鬱とした表情で聞く。
「ああ、本当だよ。被害者の親戚の者が奉行所に訴えたのに、役人は夷狄を恐れて泣き寝入りを命じたというのだから、ひどい話だろう」
 袴田が入手した情報によると、米艦隊の水夫数人が勝手に上陸して、民家に押し入り乱暴を働いているという。宿泊を強要する者、なかには婦人を襲う者もいて、怒った夫に木刀を持って追いかけられた水夫は、その夫を小銃で射殺してしまったというのだ。
「それが本当なら、幕府は抗議するべきだろう。親善の使節が聞いてあきれるな」 小五郎が不愉快そうに眉をひそめて言う。
「海上から大砲をぶっ放されるのではないかとびくびくしているのさ。夷狄には臆病な連中だからな、奉行所の役人って奴は」
 袴田は苛立つ思いを小五郎にぶつけるように、
「このまま条約を結んで開国しても、相手の言いなりになるばかりの幕府では、日本はいずれインドや中国のようになってしまうぜ」
「だが、今のままの国防力ではとても外国には敵うまい」
 小五郎はしばし考え込んでいたが、思い出したように、
「ところで水戸藩では大船を建造しているのだって?」
 彼の思考は当然のように海防問題にとんでいた。
「ああ、去年大船建造の禁が解かれてから、斉昭公の肝いりで建造中だよ。薩摩藩も複数の大船を造っているらしいぞ」
「そうなのか? それに引きかえ、わが長州藩は未だ洋船の造船方法に詳しい者がいない。はやく海軍力を整備しなければならないというのに――。困ったよなあ、ハヤテ」
 小五郎がハヤテのふさふさした黒い背を何度か撫でてやると、ハヤテは閉じている瞼をぴくぴくと動かした。話だけは耳を済ませて聞いているようだった。そのとき、廊下をドタドタと走ってくる足音が聞こえてきた。
「桂さーん、いますかぁー」
「桂さーん」
 室外から呼びかける若い声を聞いて、
「おや、またうるさい連中がやってきたぞ。こらぁ、廊下は走るな、と言ってあるだろう」 袴田が室内から外に向かってどなった。
「ああ、いるよ。入っていいよ」
 小五郎から入室の許可を得ると、ちび丸と勇太が戸をあけて飛び込んできた。
「桂さん、今日は午後の講義ないですよね。大先生、お出かけだから」
「ああ、知っているよ」
「ねえ、どこかに遊びに行きません? あれー、ハヤテだよ。ハヤテがいるー」
 ちび丸がまんまるい目をして、かん高い声をあげた。
「ほんとだ。おまえ、いつもどっから入ってくるの。おかしいね」
 勇太が首をかしげて言う。
「ハヤテはいつ来るかわかんねえからな。しかし、よく桂になついているよなー」 袴田も少年たちと同じ関心を示して話しに加わる。
「ハヤテ! おいで。おれのところに」
 その場にぺたんとすわり込んで、ちび丸が両手を差し出した。ハヤテは眠そうな眼をあけてちび丸のほうを見ていたが、やがて面倒くさそうに起ち上がって、呼ばれた相手に近づいて行った。
「あれー、来てくれたよ。ハヤテがおれのところに来てくれたよ」
 ちび丸がよろこんで黒猫を膝のうえに乗せ、頭を撫でた。
「いつも毛がつやつやして、きれいだよな。野良猫じゃないだろう。どっかで飼われているのか?」 袴田が小五郎に聞くと、
「えっ、うん。さあ、どうかな――よくわからないんだ」
 実際、あのお婆さんがどこに住んでいて、何者なのかもわからなかったので、小五郎もあいまいに答えるほかなかった。
「桂さん、どっかに行きませんか? お花見とか」
 勇太が四つんばいになった膝を小五郎のほうにすすめて聞く。
「お花見? ばーか! まだ早いだろう」
 小五郎のかわりに袴田が勇太の額を突ついて言う。
「ああ、悪いけど、今日の午後は藩邸に行く用事があるのだよ」
 小五郎の返事を聞いて、ふたりはがっかりする。
「ほーら、塾頭はガキどものあそび相手をしている暇はないのさ。兵学書でも開いて自習してなきゃだめだろう」
 袴田が言っている間に、ハヤテがちび丸の膝から起きあがって歩き出し、小五郎のほうに戻ると、再び丸くなって彼の膝におさまってしまった。
「あら、なーんだ、ハヤテ。おれのところに来たのは単なるご愛想だったの?」
 ちょっとすねた様子でちび丸が言う。
「でも、少なくとも親愛の情は示してくれたじゃない。おれたちは友達だよね、ハヤテ?」
 勇太が黒猫に話しかけると、ハヤテはぱちぱちと眼をしばたかせるだけだった。
「どうもハヤテのほうがオトナだね。ガキをすこし喜ばせてやろうと思ったのさ」 袴田がおもしろそうに言う。
「藩邸に行くのですか。それならおれたちもいっしょに連れて行ってくださいよ。有備館でだれか撃剣の相手をしてくれたらうれしいなー」
 ちび丸がそう小五郎に請うと、勇太も、
「そうですよ。おれたち、桂さんのじゃましませんから。用事が済むまでおとなしく待っていますから」
 ふたりの請いをうけて、小五郎は微笑みながら、
「おまえたちは、おれがまた襲われるとでも思っているの? だいじょうぶだよ。夜、遅くなったら藩邸に泊まるから、心配しなくてもいいよ」
 ちび丸と勇太は顔を見合わせてから、ちょっとばつが悪そうな様子でうつむいた。

(2)

 伊織は相馬邸の裏口から表通りにつうじる小路を歩いていた。ややうつむきかげんに考え事をしながら歩いていたので、表通りから小路に入ってきた男にすぐには気づかなかった。
「どちらへお出かけですか」
 はっと顔を上げてみると、目の前に歳は三十前後と思われる、がっしりとした体格の男が立っていた。
「右近、また、おまえか」
「先生にはお断りになりましたか」
 伊織は相手の男を睨みつけ、
「うるさいな。どこへ行こうと私の勝手だ」
 言いながら伊織はまた歩き出した。
「では、お供をいたしましょう」
 相馬道場の高弟根本右近が伊織のあとからついていこうとすると、
「供などいらぬ。おまえの顔など見飽きたわ」
 顔だけ振りかえって、伊織がはき捨てるように言う。
「見飽きてもお供はいたします。伊織どのの身になにかあったら、私の責任になりますから」
「そこらのごろつきにやられるほど柔な腕だと思っているのか」
「そうは思いませんが、万一ということもありますから」
「右近!」 伊織は立ち止まって男と向かい合った。
「このところ姿を見かけなかったが、どこへ行っていた?」
 不審げな声音で聞く。
「ちょっと先生の用事で――」
「なんの用事だ」
「それは……言えません」
 伊織はうす笑いをして、
「ずいぶん伯父には忠実だな。道場の跡目でも約束されているのか」
「――まさか! あなたという人がいるのに」
「私が跡目? 笑わせるな。伯父がその気なら、とっくに私を養子にしていただろう」
 言いながら、伊織の胸に言いようのない痛みが走った。それは彼女が長いあいだ疑問に思っていることだった。彼女は実の父母の顔を知らない。父は自分が生れる前に、母は自分を産んですぐに病死したと聞いている。だから、伯父夫妻は事実上伊織の養父母だった。それなのに伊織は彼らの養子ではなく、源三郎の亡くなった妹の子として育てられてきたのだ。伯父夫妻には子がないにもかかわらず、伊織を養子にせず、彼女の名字も相馬ではなく水原だった。その水原という名も亡くなった実父の姓だったかどうかは疑わしい。源三郎兄妹は滋賀の貧しい農家に生まれた。伊織の母はある豪農の家に嫁いだが、子供が生まれなかったので離縁されたということまでは伯母から聞いていた。母の前夫はすでに他の女に子を産ませていたという。それ以上のことを相馬夫妻は伊織に語りたがらなかった。自分を道場の跡継にしないと決めて養子にしなかったというなら、自分はなぜ男として育てられたのか。伊織には何もかもが解せなかった。
「右近、私にはわからないのだ。私はいったいなんのために相馬の家にいるのか」
 伊織はとつぜん声を低くして、自問するように訊ねた。
「なにがわからないのです。あなたは先生の血のつながった甥、いや姪ではありませんか」
 すこし戸惑い気味に右近が答えると、
「でも伯父夫婦には子がないのに、なぜ私を養子にしないのだ?」
「そ、それは、私にもわかりません」
「わからない?」 伊織の眼が険しく光った。
「うそだ。おまえは知っているはずだ。私が物心ついたころには、すでに伯父の弟子だったではないか。おまえが知らないはずはない!」
「しっ。静かにしてください。こんな通りでは誰が聞いているかしれない」
 右近が周囲をみまわすのを見て、伊織は、
「聞かれてなにか不都合でもあるのか。おしえてくれ、右近。私はいったい何者なのだ。なぜ男として育てられたのだ?」
 伊織が腕をつかんで聞くので、右近はうろたえた。
「伊織どの、今日は屋敷にもどりましょう。あなたの伯母上がなにか話したいことがあるようですよ」
 伊織は疑り深そうに相手を見た。
「ふん、その手には乗らぬ。私はこれから出かけるのだ。もう用心棒などいらぬと、前から言っているだろう」
 男の腕をはなすと、伊織は再び歩きはじめた。今度は右近があわてて相手の腕を捉え、
「どこへ行かれるのです。まさか斉藤道場ではないでしょうな」
「どこへ行こうと私の勝手だと言っただろう。手を放せ!」
「いけません!」
 右近は強引に伊織の腕を引き寄せて、こちらに振り向かせた。
「あなたの目当ては、練兵館の桂小五郎ですか?」
 伊織は無言のまま相手を睨みつけている。
「やはりそうなのですね」
「おまえに言う必要はない」
「桂にはもう逢わないほうがよろしい。でないと、相馬先生は再び彼を傷つけるかもしれませんよ」
 見開かれた伊織の眼に、かすかな恐怖の色が浮かぶのを右近は見逃さなかった。

(3)

 相模湾の警衛にあたっていた長州藩は、米国艦隊再来に備えて一月から守備要員の増員準備を進めていた。藩地からも守備兵が派遣されてきたが、小五郎もいずれ動員されるだろうと思い、桜田藩邸に赴いて警衛地に出張する時期について確認するつもりだった。周布は所用で藩邸を留守にしていたが、来原良蔵が在邸で小五郎を迎えてくれた。
「どうだ、怪我のほうは。もう支障はないのか?」
「ええ、だいじょうぶです。藩邸からも医者の手配をしていただき、まったく方々に迷惑をかけてしまって面目もないです」
「周布さんが、桂はバカだと言っていたぞ。『江戸一番の剣客が刀を抜いて身を守らんとは信じられん。道場訓を守っても、それで命を落としたら、武士としてなんの名誉にもならぬ。生真面目にもほどがある』とな」
「すべては私の未熟ゆえです。まだまだ修業が足りません」
「もっとも周布さんは人のことよりも、自分の酒乱を心配したほうがよいような気もするがな」
 来原が低い声で笑うと、
「でも、近ごろは相州警衛のほうで、だいぶ忙しいのではありませんか」
 小五郎は気にしている問題に触れた。
「ああ、米艦隊が予定よりもはやく来たからな。まだ藩地からの守備兵が到着していなかったから、殿様も大慌てだった。急遽、在邸の士卒を集めて出兵準備をさせたのだ」
「なんだかすべてが後手に回っていますね。品川の砲台もまだ建設の途中ですし。昨年以来、幕府はなんの策も講じていないではありませんか」
「そこだよ」 得たりというように、来原が話し出す。
「敵を知らねば策も講じられぬ。我々は外国の事情に関してあまりにも無知だ。そう思わないか、桂?」
 来原が真剣な口調で聞く。
「それはほとんど誰も見てきた者がいないのですからね。もう200年以上も海外渡航は禁じられてきましたから」
「実はな、おれは桂に重要な話があったのだ。今日、おまえが来たのは好都合だった」
「なんですか、重要な話とは?」
 小五郎は好奇心をそそられて、すぐに聞く。
「あのな。いま、米艦隊が横浜に停泊中だろう」
「ええ」
「これは絶好の機会だと思わないか」
「えっ?」
「つまり、海外渡航のだ」
「……」
「あの船に乗れば、亜米利加に行けるぞ。敵を知ることができる」
「――あ、でも、どうやって?」
「藩庁に外国行きの請願書を出すのだ。もちろん国禁を犯すことになるがな。藩から極秘に許可を得れば、資金面の心配はなくなるし、便宜も図ってくれるだろう」
 小五郎は突然、来原の大それた計画を打ち明けられて驚いていた。彼がそこまで考えていたことが意外だったのだ。
「大変な冒険だが、誰かがやらなくちゃいかんのだ。夷狄から国を守るために、命がけでな」
「……」
「どうだ、桂。おれといっしょに行く気はあるか、亜米利加に?」
「……」
「無理にとは言わん。日本にいて大事を成すという選択もある」
「行きましょう!」
 小五郎の返事は早かった。確かに敵を知らねば尊王攘夷の実現も難しい。長い間日本は眠りすぎていた。大海に囲まれた孤島の中で、世界の状態も知らぬままに安穏と過ごしてきたのだ。外国人が日本を目指して来ているように、日本人も積極的に海外に出て行くべきなのだ。
「行くか?」
 力強い声で来原が小五郎の意志を確認するように聞く。
「行きましょう。藩に外国行きの重要性を説いて、認めてもらいましょう」
「よし! それでこそ桂小五郎、おれの見込んだ男だ!」
 高揚した声で言うと、来原は小五郎の両手を取って強く握り締めた。

(4)

 伊織は右近とともに相馬道場にもどると、そのまま自室に駆けこみ大の字になって寝た。
 くそっ。おもしろくない。
 午後になって源三郎が出かけたので、こっそり抜け出して、もう一度練兵館をたずねてみようと思ったのだ。あそこはうちの道場とはまるで雰囲気がちがう、と初めて練兵館を訪れたときのことを伊織は思い出していた。がらの悪い無頼漢が多い相馬の門人たちに比べて、練兵館は稽古の厳しさは変わらずとも、どこか親しみやすい空気を感じる。みな礼儀正しく、活発で、明るい印象がある。それに、あの塾頭の物腰の柔らかさはどうだろう。桂小五郎とはよほど豪傑肌のいかつい男と想像していたのだが――。あの晩も意外に思ったが、昼間見るといっそうその顔つきの穏やかさに驚かされる。一見して剣豪という感じではないのに、竹刀をもって対峙したときには雰囲気が一変する。あのときの緊張感は今まで味わったことのない、まったく格別なものだったと伊織は思う。
 できることなら、もう一度竹刀を交えてみたい。もっと本音で話をしてみたい。
 こんな素朴な願いが、相馬の者というだけで叶えられないことに伊織は苛立っていた。たとえ斎藤弥九郎が伯父の人生を台無しにした仇敵であったとしても、門弟の桂になんの罪があるのか。伊織には納得がいかなかったのだ。
「伊織さん、帰っていらしたのね」
 部屋の外から於初の柔らかな声が聞こえてきた。また右近だな、伯母に告げにいったのは。伊織は返事をしないで黙っていた。
「ちょっとあちらの部屋にきてくれない。見せたいものがあるのよ」
 見せたいもの? すこし逡巡してから伊織は起き上がった。襖をあけると於初は微笑みながらうなずき、ついていらっしゃいというように、黙って廊下を歩き出した。ぶすっとした表情のまま、彼女は伯母のあとにしたがった。

 伯父夫婦の居間にはいると、床の間の近くに白い紙に包まれた細長い品物がおかれていた。於初はすぐに近づいてその前にすわると、結ばれた紙の紐を解きはじめた。
「そこにすわっていらして」
 於初が紐を解きながら姪にいう。彼女はすなおにすこし離れたところにすわって待っていた。紐を解いてから、於初はその紙ごと持ち上げて伊織のまえにおくと、紙を広げはじめた。中から出てきたのは女性用の着物だった。於初はその着物を取り上げて、左腕に袖をとおしてみせた。
「どう、綺麗でしょう?」
 萌葱縮緬の振袖で、相当な高級品であることは伊織にもわかった。裾は袖と同じ華やかな桜花模様の刺繍がほどこしてあり金糸も使われていた。町娘の着るものではなく、明らかに武家の子女用の衣装であった。
「帯もあるのよ。見てみます?」
 伊織はほとんど無表情で、「いいです」と答え、
「どういうつもりですか」と、すぐに問い返した。
 於初は右手で着物を愛おしそうに撫でながら、
「いえ、一度あなたにこれを着せてあげたいと思ってね」
「なぜですか」
 不機嫌そうな伊織の問いに、於初はなおもやさしい口調で、
「だってあなたは女ですもの。もしあなたが望むなら、もう女にもどってもいいのですよ」
「どういうことですか」
 伊織のたずねる口調はだんだんと鋭くなっていく。
「このことは源三郎も承知しているのです。伊織の望みどおりにしてやれと」
「……」
「あなたには可哀そうなことをしてきたと、申し訳なく思っているのですよ」
 伊織はむっとした顔つきで、
「いまさらなんです!」
 感情を高ぶらせ、やや声が上がった。
「勝手に男として育てながら、今度は勝手に女になれと言うのですか。よくも平気でそんなことが言えますね。親でもないのに。あなた方は私の親ではないのでしょう?」
 伊織の声には怒りと哀しみの混ざりあった、複雑な思いが表れていた。
「あなた方にとって、私はいったいなんなのですか?」
「伊織さん……」
 於初は伊織の気持ちを即座に汲み取っていた。おそらく彼女は、なぜ養子にしてくれなかったのか、と問いたかったのだろう。生まれて間もなく自分を我が子のように育てたのであれば、なぜ本当の父母になってくれなかったのか。なぜいつまでも伯父伯母と姪の関係でなければならなかったのか――彼女は明らかにその隔たりを感じていた。本当の親子になれない距離感をいつも意識して、伊織はただ哀しかった。悔しくて、無性に哀しかったのだ。
「ごめんなさい、伊織さん。でもね、あなたには本当の父親がいるから、いつかあなたはその父親のもとに帰るかもしれないから、私たちはあなたの親にはなれなかったのよ」
「――父親って誰ですか。では、死んだのではないのですね?」
 今度は感情を抑制した声で、伊織はたずねた。
「私の父親って、いったい誰なのですか?」
「それは……いまはまだ言えないの。でも、あなたは武家の娘ですよ」
「武家の娘? では、本当の父は武士なのですか。なぜ父は私を見捨てたのですか」
「そのことは、いずれ源三郎からあなたに話があるでしょう」
 伊織はすこし黙り込んでいたが、急に立ち上がって、
「わかりました。つまり、あなた方は私がもうじゃまになった、ということですね。それで無理やりその武士の父親とやらに私を押し付けようとしている。そうなのでしょう?」
「いえ、そういうことでは――」
「だって、そうでしょう。でなければ、なぜ今ごろになってそんな話をするのです。もう私は用なしなのだ。男ではないから道場も継げない。だから」
「伊織さん! それは違います。私たちはただあなたの幸せを考えて――」
「もうたくさんです! あなたがたも、その実の父親とやらも、私を必要としてはいないのです。私はもう誰にも必要のない人間なのです」
 伊織は伯母に背をむけて歩き出すと、次の間の襖をあけた。
「右近!」
 そこには根本右近が立っていた。
「行ってはなりません」
「またおまえがじゃまをするのか。どけっ。私はこの家を出て行くのだ」
「この家を出て、どこへ行くのです。あなたのいる場所はここしかない」
「おまえには関係ないだろう。いい加減私のことは放っておけ! みんな私を騙してきたのだから、もう誰も信用なんかできない」
 強い口調で言いながら、伊織の眼には涙が滲んでいた。
「伊織どの……」
「誰も信用できないんだよ!」
 彼女は右近を睨みつけた。右近は伊織の両腕をつかんで、まっすぐにその涙に光る眼を覗き込んだ。
「あなたは大変な誤解をしている。わからないのですか。相馬先生も、於初どのも、あなたを慈しんできた。あなたが愛おしいのです。そして、私も――伊織どのを大切に思っています。少年のころからずっと……」
 伊織の眼から一筋の涙がこぼれおちた。


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