[れんぺいかんのはな]
第四章 熱き漢をしずめよ 源三郎はすでに道場の上座にすわって待っていた。小五郎はその前に進み出てしずかに腰を下ろすと、 「斎藤弥九郎の門弟、桂小五郎です。どうぞよろしくお頼みいたします」 と言って、恩師に対すると同様に深々と頭を下げた。 「お噂はかねがね伺っております。他流試合では負けたことがないそうですな」 鷹のような鋭い眼を細めて、源三郎は賓客を扱うように丁寧に応じたが、その言葉にはどこか棘が含まれていた。小五郎たちのあとを追って道場に入ってきた伊織は、源三郎に向かってなにか言おうとしたが、右近に止められてその場に立ち止まった。小五郎は眼を伏せ、無言であった。 「伊織のわがままで、わざわざお出でいただき申しわけなかった」 「……」 「わしとそなたの師、斎藤とはかつて同門の兄弟弟子じゃった」 「……」 「彼の愛弟子の腕前、ぜひ見てみたいもの。どうじゃ、わしと一番、勝負していただけるかな」 「勝負などと、とんでもございませぬ。稽古をつけていただければ、私こそ光栄に存じます」 小五郎は伏せていた眼を上げて、まっすぐに源三郎を見た。その眼は涼やかで、一点の曇りもない。源三郎はかすかな戸惑いを感じて、その眼光を鈍らせた。自分とは異質の世界に住む若い剣客の邪念のない澄んだ眼差しに、彼は一瞬心をひるませたようだったが、すぐに、 「竹刀と防具はそこに用意してあります」 源三郎の言葉をきいて、右近が、 「お待ちください」 と声をかけ、ふたりに近づいてきた。 「その前に、私と桂どのとの立合いを、お許しいただけませぬか。まず師範代の私が先に桂どのと対戦するのが順序かと」 「時間がなかろう」 源三郎がすぐに否定した。 「そなたは桂どのの帰りの時刻を、約束したのではないのか?」 「あ、はあ――」 「約束は守らねばならぬだろう」 そう言われると、右近には一言もなかった。 「では、桂どの。したくを」 源三郎に促されて、小五郎は立ち上がり、防具と竹刀の置いてある道場の壁際に向かった。伊織が小五郎のほうに走りよろうとすると、右近が腕をつかんで引き止めた。 「伊織どの!」 「じゃまするつもりはない。防具をつけるのを手伝ってやるだけだ」 もはや制止できない事態を察して、伊織もその成り行きを見守るつもりだった。 「その恰好では風邪を引きます。まず、袴と足袋を着けて来られよ」 「だいじょうぶだ。風邪などひかぬ」 伊織は右近の手を振りほどいて、小五郎のほうに走りよった。 「右近どのの申されるとおりです。伊織どの、部屋にもどってせめて羽織を」 小五郎も伊織の薄着を心配して言う。 「羽織なら、あんたのを貸してよ。どうせ脱ぐのだろう?」 「え? ええ……」 「じゃ、はやく脱いで」 伊織は小五郎が羽織を脱ぐのを手伝って、ちゃっかり自分が袖をとおして着込んだ。 「あったかい」 と言いながら、彼女は満足そうな笑顔を見せた。 源三郎はすでに竹刀を持って道場の中央に立っていた。防具を着けようとしていた小五郎は、ふとその手を止めて源三郎を見た。 「あなたは?」 「わしは、着けぬ」 淡々と答える源三郎に、小五郎は手にしていた竹胴をはなして、 「では私も着けません」 彼の言葉にはっとして、伊織が、 「だめだ、小五郎。防具をつけなくちゃ」 と心配げな声をあげた。 「いいや。私だけ着けるわけにはいかないよ」 という小五郎の言葉に、 「伊織、案ずるな。桂どのに怪我をさせるつもりはない」 源三郎が言い添える。 「だいじょうぶだから」 小五郎は伊織にむかって一度深くうなずいてみせた。伊織は申しわけなさそうな顔つきで相手を見たが、それ以上言い張ることはやめた。小五郎を相馬の屋敷に迎え入れた以上、伯父が黙ってそのまま彼を帰すはずもないことを、彼女は心のどこかで予感していたのかもしれなかった。それでも、彼を無事に帰すことを自信と使命感をもって心に決していた。それに、もう一度小五郎の剣を見たいという、打ち消し難い密かな想いもあって、伊織の気持ちもまた複雑であった。 小五郎は小五郎で、こうなることは避け難い運命だったような気がしていた。相馬源三郎との勝負の時は思ったよりはやく訪れたが、今より遅ければ、彼はもはや日本を離れていたかもしれないのだ。 相馬源三郎と桂小五郎はいま、双方とも青眼に構えて対峙していた。両者の試合を見ている者は、伊織と右近のただふたり。まだ双方に動きはなく、道場内はしんと静まり返っていた。 相手の攻撃をさそうように、源三郎がやや切先を下げて一歩退いた。だが小五郎は応じず、その場にとどまっている。相手が誘いに乗ってこないとみるや、こんどは源三郎が剣先を上げて前進する。小五郎のほうは間合いを詰めずに退く。源三郎がさらに踏みこむと、小五郎は右に動きながら、相手の剣先がとどかぬ距離にさらに退いてゆく。源三郎が一歩踏みこめば、小五郎は相手の周囲をめぐるように一歩退く。一方が前進すれば、一方がその分だけ後退するという動きがなんどかくり返された。 「不敗の剣、いや、逃げの剣か。弥九郎にその奥義を仕込まれたな」 源三郎が口元をゆがめて、うすく笑いながら言う。小五郎にしてみれば、やむを得なかった。防具を着けていないのだから、一の攻撃で勝敗が決するかもしれないのだ。それも相手の出方によっては、双方とも手加減がむずしくなる。竹刀といえども凶器であり、打ちどころが悪ければ致命傷につながる危険性がある。だが、小五郎は相手を過度に苛立たせることをおそれた。それで一度、退かずに自ら踏み込んで相手と竹刀をまじえた。そのとき、思いがけない振動が小五郎の両腕から全身を貫いた。源三郎の膂力というよりも、すさまじい気迫を小五郎は感じた。視線を合わせると、源三郎の眼は狂おしい熱を帯びて血走っていた。 小五郎の背筋に悪寒が走った。この眼はあの時と同じ眼だ――。彼は数ヶ月前の闇夜の襲撃を思い出していた。相手は覆面をしていたが、あの時と同じ異様な妖気を小五郎は感じていた。身体中にまといつく重く澱んだ空気から逃れようと、彼はすばやく身体の角度を変え、まじえた竹刀をひいて飛びのいた。源三郎はすぐに相手を追って攻撃の突きを入れる。身体をかわし逃れる小五郎に、源三郎の攻撃の手は次々に繰り出されてゆく。そのすべてをすばやい動作でかわしていたが、相手の最後の攻撃を自分の竹刀ではらうと、小五郎は跳躍した。一瞬、源三郎は相手の姿を見うしなった。彼がふりかえると、小五郎は背後に立っていた。だが小五郎のほうは攻撃をしかけずに、さらに後ろに飛びのいたので、両者はしばらく動きをとめて、互いに睨みあうことになった。 もはや真剣勝負になっていることを小五郎は意識していた。攻撃は危険をともなう。両者とも手加減する余裕のないことを、互いに感じ取っていた。 ――これは血を見るやもしれぬ。 そう思った瞬間、小五郎の気持ちはなぜか急速に萎えた。相手の発する妖気に全身が包まれていくのを感じながら、彼は竹刀を平青眼の下段にかまえて眼を閉じた。まるで捨て身の構えであった。源三郎がすぐに間合いをつめ、上段から竹刀を小五郎めがけて振り下ろした。そのとき、道場の隅で息を殺してみていた伊織が、いつの間に手にしたのか、自分の竹刀を小五郎と源三郎の間に全力でほうり投げた。彼女の竹刀は源三郎の竹刀にあたり、乾いた音を立てて落ちた。 「なにをする!」 源三郎が驚きの声をあげて伊織を見るよりはやく、彼女は小五郎のそばに飛んでいき、その勢いでふたりはいっしょに床に倒れこんだ。 「もういいでしょう、伯父上。小五郎はすでに勝負を捨てています」 伊織が小五郎をかばうように倒れたまま、顔を振りむけて源三郎に言う。 「勝負をする気のない相手を倒しても、あなたの名誉にはならない。無意味です。そうでしょう?」 伊織の鋭い眼差しに、源三郎は無言で立ちすくんでいた。やがて彼はすでに立ち上がってそばまで来ていた右近に自分の竹刀をあずけると、ひと言もしゃべらずに道場から出て行った。伊織は自分が勢いで倒してしまった小五郎に手を貸して、上半身を起こしてやると、 「なぜ、気を抜いた、小五郎。なぜ途中で勝負を捨てたのだ?」 伊織の問いにすぐには答えずに、小五郎はすこし沈黙したあと、 「私にはわからなくなったのだ」 自問するように言った。 「わからなくなった? なにがわからなくなったのだ?」 再び問う伊織に眼を向けることなく、彼は迷うようにつぶやいた。 「勝つということが。勝負に勝つということが、どういうことなのか――」 「小五郎……」 伊織は自ら招いた客であり、いまは大事な友である男に、心配げな眼差しをそそいでいた。 相馬道場の門外では、ちび丸と勇太が門人たちに取りかこまれて一触即発の状況になっていた。ふたりは反射的に動いて背中合わせになり、 「おい、どうする勇太?」 ちび丸が刀の柄に手をかけ臨戦態勢をとりながら、相棒にきく。 「そうだな。こいつら暇をもてあましているようだから、稽古の相手になってやりたいけど、道場訓に背かないか?」 「大丈夫だろう。だってこの状況、『止むを得ざる時』じゃないか」 「そうか、『止むを得ざる時』か。そうだよな」 「おい、なにぶつくさ言ってやがる。おれが先に相手になってやろう」 ひとりの髭面の男が刀を抜いて近づいてきた。 「やるか、勇太?」 「ああ、でも殺すなよ」 「わかってるって!」 言いながらちび丸はすばやく抜刀して、最初に襲いかかってきた男の剣を受けとめると、矢のような速さで襲撃者の懐に飛びこんだ。そのあと、すぐに「あっ」という声が男たちの口から同時に漏れた。みると、髭面の男はすでに地面に倒れこんで、うめき声をあげていた。 「見たか? 塾頭直伝の稲妻攻撃だい!」 一瞬、呆然の態から我にかえると、 「おい、油断するな。こいつらガキの腕じゃない」 顎の張った男が目配せすると、男たちはいっせいに抜刀した。今度は勇太が二番手の襲撃者と対戦した。両者は数回剣をまじえていたが、勇太が身をひいて相手をひきつけたとたんに「ぎゃっ」という声とともに、相馬の門人は気を失って倒れた。 「殺しちゃいない。峰打ちだあー」 「やるねえ、勇太くん」 ちび丸が陽気な口調で声をかける。 「ああ、将来の塾頭候補だからな。負けちゃられねーよ」 「おれだって、桂さんの跡を狙っているんだぞ」 「あぶない、ちび丸!」 ちび丸の背後から刀を振りかざしてきた別の男に、勇太が飛びかかって体当たりを食らわした。男は地面に頭をしたたかに打って、すぐに立ち上がれない様子だった。 「ありがとよ、相棒! やっぱり、まさかの時に頼れるのは怪力勇太だね」 「おい、おい、怪力だけよけいだよ」 残っていた他の男たちが激昂して、同時にふたりに襲いかかろうとしたとき、 「おい、なにをやっている!」 いつの間にか門外まで出てきた根本右近が男たちに向かって叫んだ。 「あっ、師範代!」 相馬の門人たちが攻撃の手をとめて、右近のほうをふりむいた。そのすぐあとから小五郎が姿をあらわした。 「桂さんだ!」 ちび丸と勇太はすぐに刀を収めて小五郎のほうに駆け寄ってきた。 「桂さん、ご無事だったのですね。よかったー」 ちび丸が嬉しそうに顔をほころばせて言う。 「どうしたんだ、おまえたち。なぜここにいるのだ?」 小五郎が目をまるくしてきく。 「おれたち、桂さんを迎えに来たんです。だって、心配だったから…」 勇太が最後のほうはすこし声を小さくして言った。その間に右近は地面に倒れている門人たちに気づいて、 「なんだ、このざまは! おまえら、勝手な私闘は許さぬと言ってあるはずだぞ」 「す、すみません。あのふたりが怪しげな行動を取っていたので、つい」 「怪しげな行動じゃないやい。桂さんを迎えに来ただけだと言っただろう」 右近らの会話を聞いていたちび丸が男たちにむかって抗議した。右近が再び小五郎のほうにもどってきて、 「なにやら、うちの門弟が乱暴を働いたようで申しわけなかった。赦していただきたい」 「いえ、こちらこそ、この者たちが道場の方に怪我をさせてしまったようで」 「でも、あいつらが先に襲いかかってきたのですよ、桂さん。本当ですから」 勇太が必死になって弁解する。 「まあ、なにか誤解があったようなので、ここは穏便にすませていただけませぬか。門人たちには私から厳しく叱っておきますので」 「ええ、もちろん、私のほうもことを荒立たせたくはありませんので、このまま失礼させていただければありがたく――」 「では、駕籠は本当に要らないのですな?」 「ええ、要りません。この者たちと道場まで歩いて帰りますから」 「わかりました。ではお気をつけて」 「はい、失礼いたします」 小五郎とのやりとりを終えると、右近は乱暴をした門弟たちに、 「慮外者め、はやく怪我人を門内に運び入れぬか!」 すごい剣幕で命じていた。 ちび丸らを相手に騒動を起こした男たちを叱りつけたあと、右近はそのまま師匠の書斎に赴いた。部屋の外で名を言って襖をあけると、 「右近。そなたはどう思う?」 文机の前にすわっている源三郎が、相手に背を向けたままたずねた。 「はい?」 「伊織のことだ。あれは桂を好いておるな」 「はあ、そのようですな」 源三郎はしばらく考え込む様子だったが、すぐに、 「女としてか」 いちばん気にかかる疑問をなげかけた。 「おそらくそこまでは――伊織どのはまだ、はっきりとした女の意識をお持ちではありません。ただ親しい友がほしいのではないかと。でも、今後のことはわかりません。伊織どのももう二十歳。とうに嫁いでいてもおかしくない年頃ですから」 「そうだな」 源三郎は右近に向きなおって視線を合わせた。 「あれの父親はどうじゃ。本当に逢う気があるのか」 「ええ、娘と打ち明けてからは、一度逢ってみたいという気持ちは持っておられるようです」 「まだ疑っておるのか」 「まあ半信半疑のようですが、長男おひとりしか子がないので、伊織どのと対面すれば、あのご器量ですから、引き取ろうという気になるやもしれませぬ」 「ふん、そうは簡単に引きわたせぬよ。貴重な金づるだ。伊織ばかりでなく、この相馬道場ももっと高く売れる日が来るまではな」 源三郎の口元に冷笑がうかび、その眼にかすかな憎悪の光がはしるのを、右近ははっきり見てとった。 白雲といっしょに夕日が西の空を茜色に染めてゆく。小さな葉がのぞきだした大根畑がひろがる路を小五郎がちび丸、勇太を連れて歩いている。地面にうつる短い影のひとつが長い影にまとわりつく。 「ねえ、桂さん。本当に先生方には刀を抜いたこと言わないでくださいね」 ちび丸がすこしおどおどした声で言う。 「ああ、そうだな。どうしよう」 「そんなあ。あっちが先に挑んできたんですよ」 「ちび丸の言うとおりです。ぜったい正当防衛なんですから」 勇太もちび丸を援護して言う。 「ぼ、僕たち破門になんかなりませんよね」 ちび丸が本気で心配しだしたので、 「言わないよ。安心しろ。おれのことを心配して来てくれたのだし――。でも、そんなにおれの腕は信用できないのか」 「ち、違いますよ。桂さんはなにがあっても剣を抜かないと思ったけど、抜かなくても負けやしない。でも、むこうは怪しげな奴らだから、どんな卑怯な手を使うかしれないし」 「そうですよ。あの相馬という人、斎藤先生と同門だったって聞きました。道場の後継者を競う試合で大先生に負けたので、恨んでいるんだって」 「おい、勇太。なぜそんなことを知っているのだ?」 小五郎が顔色を変えてきく。 「えっ、あの、それは……」 「袴田さんですよ。おれたち、袴田さんに聞いたんです。あの人、昔の話けっこう知っているんです」 ちび丸が勇太に助け舟を出すようにうちあけた。 「袴田か――」 水戸藩では前藩主治紀(はるとし)の没後に継嗣問題で紛糾したが、結局、藤田東湖らが推す治紀の弟斉昭が家督を継いだ。斎藤弥九郎はその頃から水戸藩士とは浅からぬ繋がりを持っていた。袴田が弥九郎にかんする昔の話を聞いていたとしてもおかしくはないのだ。 「おい、おまえたち。あまり余計な話を他の者にぺちゃくちゃしゃべるなよ」 「あ、しゃべりません。絶対にしゃべりません。塾頭のお許しを得るまでは」 ちび丸が一歩前に出て、直立不動の姿勢で言った。小五郎は立ち止まって、 「ほら、もうしゃべりたくてたまらん、という顔をしている」 「そんなあ。おれの口そんなに軽いと思っているんですかぁ」 「ああ軽いね。おまえは黙っていればけっこう可愛いのに、女のようにおしゃべりだからなぁ」 勇太が横槍を入れて、からかうように言う。 「おい、なんだよ、勇太。おれを裏切るのか」 ちび丸が口を尖らせて相棒にせまると、 「ちび丸、勇太、急ごう。もしかしたら大先生が先に帰ってくるかもしれないぞ」 小五郎が急に駆けだしたので、ふたりも話をやめて、あわてて小五郎のあとを追って走りだした。 勝つとはいったいどういうことなのだろう。 相馬道場からもどった夜、小五郎は自室にこもって考え込んでいた。目の前に書物を開いてはいたが、全然頭に入らなかった。ただ昼間の出来事に思いをめぐらせるのだ。 もし相馬源三郎にひと太刀あびせて勝負に勝ったとする。でもそれで、あの襲われた夜と同じように心を乱された異様な妖気が源三郎の身辺から消失するのだろうか。――いや、そんなことにはなるまい、と小五郎は思う。自分が勝つことによって、むしろ源三郎が発する妖気はさらに増幅されるに違いないのだ。 あの妖気は人を呪う魂だ。敵への憎悪に燃える妖気だ。はたしてそれが、弥九郎への怨恨のみによって生じたものなのか、ほかになんらかの理由(わけ)があるのか、小五郎にはまったくわからない。彼が考えうることは、相馬源三郎はあの妖気を生きる糧として、齢を重ねてきたのだろうということだ。あの男の強い視線は、ある一点、あるいは、ひとつの方向しか見ていない。それが練兵館の塾頭たる自分を当面の標的として、弥九郎を倒すことなのか。ほかになにか目的があるのか。小五郎は迷う。剣の勝敗になんの意味があるだろうか。あの妖気を消滅させることができなければ――。 「桂どの」 部屋の外で呼ぶ声がした。 「誰だ?」 「浅吉です。大先生がお呼びです。御屋敷のほうに来ていただけますか」 大先生が? なんだろう。小五郎は昼間のことが知れてしまったのかと、一瞬身体をこわばらせた。 「わかった。すぐに行こう」 斎藤家の使用人が遠ざかる足音を聞きながら、 ――さて、どうしよう。相馬源三郎と立合ったことを話すべきか。 決心がつかぬまま、小五郎は文机の書物を整理して立ち上がった。 小五郎が許しを得て弥九郎の書斎に入ると、部屋の主は腕組みをして小五郎を待ち構えていた。その様子を見て、彼はどきっとした。もう、すべてを知っているのではないか、という気がしたのだ。 「そこに座りなさい」 自分の前を指し示すように師匠は顎をすこし上げてみせた。弟子は師と対峙してすわった。 「今日、桜田藩邸へ行ってきた」 弥九郎の言葉は小五郎が予期していた言葉とは違っていた。 「えっ。あの、江川先生のところではなかったのですか」 「ああ、彼のところにはそのあとで寄ったよ」 小五郎の問いに、師はいつもと同じように穏やかに答えた。 「で、藩邸へはなんの御用でしたか?」 「うむ。周布どのと逢ってきた」 「周布さんと?」 弥九郎は一度深くうなずくと、 「先日、極秘にお逢いしたいという手紙を周布どのからいただいた」 「周布さんが極秘に大先生と――それはどういうことでしょうか」 小五郎は怪訝な面持ちで、また、たずねる。 「桂のことで話があるということだった」 「私のことで?」 「ああ、そう申された。なにか問題を起こしたようじゃな」 「私が、問題を? いったいどんな――」 解せぬ、というように小五郎はすこし首をかしげた。 「来原良蔵どのとは、だいぶ親しくしておるのかね」 「え? ええ、どちらかといえば……」 小五郎は、はっとしたように言葉を切った。 「どうじゃ。思い当たったか?」 「……外国行きのことでしょうか」 「うむ。申請の書面を見せてもらった」 「……」 「そなたのことだ。単なる思いつきではなかろう。軽率とは言わぬが、密航は罪じゃ。幕府に知れたらただではすまぬぞ。たとえ、実行前だったとしても」 「もちろん、存じております。しかし――」 「しかし?」 「大先生や若先生から、いろいろ水戸の書物をお借りして読んでもみましたし、江川先生からも外国の事情を聞いてもきました。そのうえで、これが私の出した結論です」 「桂!」 「大先生。実際にこの眼で外国を見なければ、本当のことはなにもわかりません。話で聞くよりも、あの米艦隊の威容を見ただけで、すべてを悟ることができます。今のままの日本ではとても欧米諸国には勝てない。尊皇攘夷など無理です。それは大先生だってわかっておられるのでしょう?」 「だからといって、そなたがいま危険を犯して行くことはないのだ。それは桂の役目ではない。そなたは日本にとどまり、もっと重要な任務を果たさなければならぬ」 「いいえ、私の任務は外国に行くことです。大先生、私はもう決めたのです。いま、誰かが命を賭してもやらなければならないことがある。そして、それを実行するのは私です。私がそれを実行するのです」 「小五郎!」 いつになく熱い口調で語る小五郎に、弥九郎はとまどった。 「大先生、私を行かせてください、外国に!」 小五郎は膝をすすめて、師に訴えた。 小五郎が部屋から去ったあと、弥九郎はひとりその場にすわったまま考え込んでいた。「外国へ行かせてくれ」と言ったときの小五郎の眼をみて、弥九郎はもはやこれ以上話し合っても無駄だと思った。あの眼は練兵館に入門したてのころ、歓之助になんど打ち据えられても立ち向かっていったときの眼に似ていた。一度心に決めたら、一途に目的に向かって走り出す。止めなさい、と言ってやめるものではない。言うだけ無駄なのだ。だから彼は、 「この話はこれまでにしよう。しばらく時間をおいてまた話そう」 と言って小五郎を帰した。だが、 「大先生、私の心はすでに固まっております。私を一人前の剣客として育ててくださったご恩は忘れません。亜米利加から無事日本にもどってこられましたら、またお目にかかりましょう」 などと言って、すっかり渡海する気になっている。そう簡単にゆくはずもあるまい、と弥九郎はため息をつく。一見穏やかな漢がひとたび熱くなると、人並み以上の頑迷さを示す。いや、それは理性によって導き出した結論だからこそあとへ引けないのかもしれぬ。たしかにあの巨大な黒船を造り出した力の源泉をさぐらねば有効な国防策を敷くことはできまい。机上の攘夷論からは現実的な防衛戦略は生まれない。まず敵を知らねばならぬ、という小五郎の論理は間違ってはいないのだ。だからこそ理屈で説得することはできなかった。 問題は、小五郎を誘った来原良蔵はこの密航計画をひとりで考えたのか、それともだれか相談した仲間がいるのか、藩政府の協力が得られなかったときに、その仲間の協力を得て実行するほどの覚悟をしているのかということだった。来原から実行の可能性を説かれれば、小五郎は脱藩してでも来原についてゆくかもしれない。齢よりは大人びているようでも、彼はまだ若い。内なる情熱に突き動かされて無謀な行動にはしる若者を止めるのはなかなか難しいことだ。 しばらく思案したあとで、弥九郎は筆と紙を取って手紙を書きはじめた。 またかよ。もうかなわねえなあ。 来原は藩邸内の長屋の廊下をゆるゆると歩いていた。どうも目的地に着くのは気が進まないらしい。彼が周布に呼ばれるのは渡航願いを出してからこれで二度目だった。とにかく前回、さんざん搾られたのだ。馬鹿者がぁ、といきなり怒鳴られ、腹斬る覚悟はあるのか、と威され、「桂を誘うとはどういう料簡だ。あれは将来、必ず藩の役に立つ漢だとおれは見込んでいる。殿様も特別に眼をかけておられるのだ。その貴重な逸材をおまえの無謀な計画に巻き込んで犬死させるつもりなのか」 と耳が痛くなるほど大声で叱り飛ばされた。しょうがないじゃないか、こんな話、桂にしかできなかったのだから。あいつなら真剣に聴いてくれるし、口もかたい。勇気はあるし、腕もたつ。将来のことを思えば、これだって藩にとって重要な任務に違いないのだ。その計画を実行する相手として、桂は余人に替えがたいよ。 しかし、今度はなんの話かなあ。まだ説教し足りなくて、続きをやろうってことじゃないだろうね、まさか。 だが、来原の予感は的中した。今朝、周布は弥九郎からの手紙を受け取っていた。藩から密航計画の協力を拒絶されて、来原がこの計画を本当に放棄するのか、むしろ小五郎が積極的に実行にむけて動き出すことはないのか心配なので、来原から計画を断念する旨の言質をとってほしいこと。そして、小五郎に諦めさせるように来原自身が責任を持って説得することを約束させるよう、弥九郎は周布に要請したのである。 周布に詰め寄られて、来原は窮した。 「おまえは斎藤先生に対しても、実に不義理なことをしているのだ。それがわかっておるのかね」 そう言われれば、来原には一言もない。確かにそれはそうだ。これまで手塩にかけて育ててきた愛弟子であり、塾頭にまでして練兵館をあずけ、信頼しきっている桂を、突然、生死も定かにわからぬ海の彼方に連れ去られると思えば、黙っているわけにはいかないだろう。まして密航に失敗すれば、幕府に捕らえられ刑死する可能性だってあるのだから、自分ひとりならともかく、桂を誘ったのは間違っていたかも知れぬ、と来原も思い至って、 「申しわけありませんでした」と深々と頭を下げた。 「桂のことは、おれが責任をもって説得いたします。この計画は断念しますから、斎藤先生にもどうぞ安堵なされるよう、お伝えください」 「その言葉、間違いはないな?」 「はい、間違いありません」 「よし、武士に二言はない、ということで信用しよう。くれぐれも桂のほうは頼んだぞ」 「わかりました。もう桂を巻き込むようなことはいたしませんので、ご安心ください」 こうしてこの話は一件落着した、というわけにはいかなかった。来原という男もそうとうに執念ぶかかった。桂のことは諦めたかわりに、別のとんでもない計画を頭に描きはじめていたのである。 |