[れんぺいかんのはな]  

練兵館の華

第四章  熱き漢をしずめよ

(5)

 2月も末のある晴れた午前中、斎藤弥九郎は長州藩の桜田藩邸に向かって歩いていた。はて、いかなる用事だろう。一昨日、弥九郎は小五郎の上司である周布政之助から手紙を受け取った。「内密でお話したいことがあるので、ご都合のよい日にできるだけ早くお逢いしたい。藩邸までご足労いただけないだろうか」という要請を受けたのだが、用向きについてはなにも書かれていなかった。内密で、というところが気になった。先日、相州警衛のために銃の調達を頼まれたが、それはすでに江川のほうに頼んでいる。公務での銃調達なのだから、そのことならば別に秘密にする必要もない。なにか別の話なのか。「内密」ということばが誰を意識したものなのか? 長州藩に関係のある人物なのか、それとも他藩人を意識した言葉なのか? 門人には水戸藩や長州藩の者が多いが、もちろん他藩の藩士たちも大勢いる。
 だが、弥九郎は直感的にひとりの人物の名前しか頭に浮かばなかった。ほかならぬ長州藩士にして塾頭の桂小五郎だ。周布の手紙では小五郎の存在が完全に無視されており、それは今までにないことだった。練兵館、それに弥九郎個人と長州藩の繋がりは明らかに小五郎を介して強まっていた。藩主毛利公は小五郎が練兵館の塾頭になったことを非常に喜んでおり、弥九郎はつい先日藩主に招かれて、その武術教育の功を賞せられていた。しかし、周布の手紙はそうした武術に関係したことのようでもなく、唐突でまことに奇妙な気がした。予測もつかないながら、あれこれ考えているうちに桜田藩邸にたどり着いた。
 今朝お伺いするということは、すでに昨日手紙で伝えてあったので、弥九郎到着の知らせを受けた周布は、江戸詰の藩士が住む長屋の入口に姿を現し、弥九郎を出迎えた。私室に呼んだのは、よほど誰にも知られたくなかったのだろう。周布は殺風景だがきれいに整頓された8畳ほどの部屋に弥九郎を招きいれると、
「本来なら私のほうから出向くべきところなのに、わざわざご足労いただきかたじけない」 申し訳なさそうに頭をさげた。
「それはかまいませんが、周布どのもお忙しいのではございませぬか」
 さりげなく弥九郎がたずねる。
「まあ、いろいろと――私を忙しくさせる者もおりましてね」
「……」
「どうですか。桂は元気にやっておりますか」
「ええ、もう支障なく出稽古も始めております」
「そうですか。それは良かった」
 周布はすこし口を閉ざして、なにか逡巡するようだった。
「それで、内密の話というのはなんでしょうか」
 弥九郎のほうからずばりたずねた。周布は愛嬌のある大きな眼を二、三度しばたかせると、
「ちょっと極秘にお見せしたいものがありまして」
 懐から一通の書を取り出して、弥九郎に手わたした。
「まず、これをご覧になってください」
 弥九郎は周布から受け取った手紙らしきものを開いて読みはじめると、すぐに驚きの表情をあらわした。
「こ、これは!」
 周布は相手の驚く様子をみて、口元をゆがめて苦笑いした。
「驚いたでしょう。私もそれを読んだときは息が止まりそうになりました」
 弥九郎は周布のことばを聴いているのか、返事もしないでただじっとそこに書かれている文字に見入っていた。
「まったく狂気としかいいようがありませぬな。亜米利加に行きたいから、行かせてくれ、とはとても正気の沙汰ではない。密航を公然と認めてくれと言っているようなものですからな。もしこれが公儀に漏れたら大変なことになる。いや藩としてはその前に、ふたりに腹を斬らせるよりほかないでしょう」
「周布どの。これを見たものは?」
 弥九郎はもっとも気になることを、即座にたずねた。
「いえ、まだ誰にも見せてはおりません。私以外の者は存じておりませぬ」
 弥九郎はほっとした表情を見せると、すぐにまた手にした文書に眼を落とした。周布はそんな弥九郎の様子をじっと眺めながら、
「それは桂小五郎と来原良蔵の連名になっておりますが、このようなこと、はたしてどちらが先に言い出したのか知りたいと思いましてね」
「……」
「だが、先生もどうやらご存知なかったようで――」
 弥九郎は書面から眼をはなし、怪訝な顔つきで相手を見た。
「それはどういう意味でしょう。私が知っていたのではないかとお疑いなのですか」
「いえ、もしかしたら桂はこの件について、先生か若先生に相談していたのではないかと思いまして」
「周布どの」
 弥九郎の声音にはいささか抗議の色があった。
「あなたは私が桂をそそのかしたと思っておられるのですか。密航を勧めたとでも?」
「あっ、いえ、そうではありません。しかし貴殿の道場には昔から渡辺崋山、高野長英など進歩的な洋学者が出入りしていたと聞いております。今でも高島秋帆先生とは親しくしておられる由。ひょっとして桂がそうした雰囲気に――」
「ばかなことを!」 弥九郎は声をあげて周布のことばをさえぎった。
「桂がそんな雰囲気に染まって密航を企てたと本気で思っておられるのか。桂がそこまで思いつめたとしたら、それは彼が納得して出した結論でしょう。桂を納得させたものが書物であるのか、それとも人物であるのかはわかりませぬが、もし人物であったとしても、それは断じて私ではありません。第一、桂はうちの道場になくてはならぬ存在です。その大事な弟子に、どうして私がそんな無謀な企てを吹き込むことができるのですか!」
「いや、先生。それはわが藩とて同じこと。桂は藩公からも将来を嘱望されております。こんなことで命を落とされてはまったく困るのだ。してみると、この仕掛人はどうやら来原のようですな。おそらく桂を誘ったのでしょう。なんとかペリーの米国船に乗れるよう尽力してくれなどと、まったく気が狂ったとしか思えません」
 周布は腕組みをして渋い顔をした。弥九郎は密航の請願書とでもいうべき文書を周布と自分のあいだに置くと、同じように腕組みして考え込んだ。ふたりともしばらく黙り込んだあと、先に周布が口をひらいた。
「お手間をとらせて誠に申しわけなかった。この書は私のほうで極秘に処分することにいたします。来原には私から厳しく訓戒いたしますので、先生には桂のほうをお願いしたい。諦めるように説得していただけますか。あの漢(おとこ)は穏やかなようで、意外と頑固なところがありますから」
「頑固というか、一途なところがあるのは確かです。おもいこむと命を惜しまず己が想いを貫き通そうとする。だが、なんとか無事に治まるよう努力してみましょう」

(6)

「あーあ、今日は大先生も若先生方も留守なのに、接客当番にあたってついてないよなー」
 玄関横の小部屋でちび丸がお茶をすすりながら言う。
「いるのは今日、出稽古がお休みの塾頭だけだね」
 そう言って勇太もひと口茶をすすると、
「おい、ちび丸。これ客用の煎茶だろ。いいのか飲んじゃって」
 すぐに気づいて聞く。
「あ、間違えて入れちゃったんだよ。たまに間違えることもあるからね」
「ふーん。煎茶と粉茶を間違えるかねえ」 薄笑いしながら勇太が言う。
「あ、ところで桂さん今、何しているのかな」
 ちび丸はすっとぼけて、話題を変えて聞く。
「読書室にいるって。このところ蘭語かなにか勉強しているみたいだぞ」
「違うよ。あれは別の言葉だよ」
「なんだ、お前知っているのか」
 勇太がちょっと不審げに聞く。
「うーん。あれはねえ、たぶん――」
 そのとき、道場の玄関から聞きなれない呼び声が聞こえてきた。
「あっ、だれか来たぞ」
「いいよ、おれが行くから」
 あわててお盆に湯飲みをおくと、機敏に立ち上がってちび丸が玄関に出て行った。
「はーい。どちらさまですか?」
 見ると、濃い眉をした精悍な顔つきの武士がそこに立っていた。
「相馬道場の根本右近と申します」
 ちび丸ははっと声を呑んで、表情を強ばらせた。
「塾頭の桂小五郎どのはおられますか」
 すぐに返事ができないちび丸に、相手はもう一度問いを繰りかえす。
「塾頭のかつら――」
「桂さんにどんな御用ですか」
 相手が言い終わらない前に、ちび丸は用心深い声音で聞きかえす。
「緊急の用事です」
「……」
「けっして怪しいことではござらぬ。水原伊織のことで――」
「……」
「どうか、お取次ぎ願いたい」
「では、少々お待ちください」
 ちび丸はすぐに小部屋に引っ込んだ。玄関の会話は全部聞こえていたらしく、勇太は、
「また相馬の奴が来たのか。まずいぜ、これは」
 と小声で相棒に言う。
「どうしようか?」
 ちび丸も迷っている。
「追い返せよ。追い返したほうがいいよ」
「でも、やはり桂さんには報告しなくちゃ。こちらで勝手なことしたら、あとで怒られるかもしれないし」
 結局、ちび丸は二階にあがり、小五郎のいる部屋の前で客の来訪を告げた。その声がひどくひそやかだったので、なかで読書をしていた小五郎は本を閉じて、自分から部屋の戸をあけた。
「どうした、妙な声を出して。客って誰だい?」
「それが、相馬道場の根本右近とかいう者で――」
「相馬?」
「はい。なんでも水原伊織のことでお話があるのだそうです」
「……」
「なんならおれが行って、お断りしてきましょうか」
「いや、いい。逢ってみよう」
 小五郎はちび丸といっしょに階下におりて、玄関にむかった。出てみると、そこには小五郎と背はそれほど変わらないが、身体が頑健そうでいかにも武術家らしい男がいた。
「桂小五郎どのですか」 低い重みのある声で、男がたずねた。
「そうです」
「私は相馬道場の根本右近と申します。いきなりお訪ねした失礼をお許しください」  意外にも男はていねいに辞儀をし、恐縮したような態度をみせた。
「御用はなんでしょう」 淡々と小五郎は聞く。
「実は、伊織どのが病気に罹りまして」
「病気? 伊織どのが」
「はい。それで、あなたにお逢いしたいと申されまして」
「……」
「できれば、相馬までご足労いただけないでしょうか。あなたのために駕籠を待たせてあります」
「しかし、私は医者ではありませんが」
 戸惑いながら小五郎は答えた。
「もちろん、存じております。ただ、どうしてもあなたと逢ってお話したいことがあるそうです。伊織どののために、私に同道していただけませぬか」
「……」
「夕方までには必ずこちらにお返しいたしますゆえ、ご不審にはおよびません。どうか私を信用していただきたい」
「わかりました。参りましょう」 意を決したように小五郎が応じた。
「かたじけない」
 右近は小五郎にむかって頭を下げた。駕籠は門の外に待たせてありますから、という右近の言葉に、
「行ってはだめです!」 そばで話を聞いていたちび丸が叫んだ。
「桂さん、行ってはだめです。相馬の者を信用してはいけません」
 必死の形相でちび丸は小五郎を引きとめた。

(7)

 相馬道場につくと、小五郎は周囲に人家が少なく畑地が多いことに愕いた。だが、道場の門構えはなかなか立派で、敷地もかなり広いように感じた。数十人の内弟子のほかには、周辺の富農層を相手に剣術を教えているようだった。眼の色変えて自分を引き止めるちび丸や勇太に小五郎は手を焼いたが、少年たちを説き伏せたのは右近だった。
「必ず七つ半(午後5時)までにはお返し申す。もし約束を違(たが)えば拙者の首をおわたしいたそう。それでも不足ならば、練兵館の門人あげて我が道場に攻め込まれるがよい」
 という右近の毅然とした態度に呑まれて、ちび丸たちも引き下がるほかなかった。彼は待たせていた駕籠に小五郎を乗せると、自分は歩いて道案内をした。
 右近は相馬の屋敷に小五郎を上がらせると、中庭の見える廊下をとおり、一番奥の一室に彼を導いた。
「伊織どの、桂どのをお連れ申しました」
 そう声をかけて襖をあけると、小五郎に「入られよ」と言ってうなずき、自分は踵を返してその場から立ち去った。伊織は部屋の中央に敷かれた褥でまだ眠っているようだった。小五郎はそばに近づいて褥の傍らにすわった。白い――。眠っている伊織を見て、彼は思った。顔の色が初めて逢ったときよりも相当白いことに、小五郎はすぐに気づいたのだ。ではやはり、女に見られないように顔になにか塗っていたのだろう。伊織の寝顔は穏やかで雛人形のようにきれいだった。
 女の装いをすれば相当な美人だ。なぜ男の姿をさせられているのだろうか。
 心の中でそんなことを小五郎が思っていると、
「よく来てくれたね、桂どの」
 突然、眠っていると思っていた伊織が口をひらいた。小五郎がちょっと愕いていると、彼女はすぐに上半身を起こし、
「病気作戦、大成功だ!」 と言って、いたずらっぽい笑顔をみせた。
「どういうことだ?」 唖然とした様子で小五郎が問う。
「私は病気ではない。あんたに来てもらうために一芝居うったのだ。でも、来てくれて本当に嬉しいよ」
「で、では、私を騙したのか?」
「いや、そういうわけでは――」
「人をからかうのもいい加減にしろ!」
 小五郎は横においていた刀をとり、憤然として立ち上がった。
「あ、待ってくれ」 伊織は褥から出て、慌てて小五郎の右手をつかんだ。
「ご免、怒らないでほしい。悪気はなかったのだから。みんなあんたのためにやったのだよ」
「私のため? どういう意味だ?」
「いま話すよ。全部話すから、すわってくれないか。頼むから」
 しかたなく小五郎は憮然とした表情のまま、再びその場に腰をおろした。ちょっと待ってくれ、と言って伊織は立ち上がると、襖をあけて廊下の左右を用心深く見まわした。
「だいじょうぶだ。誰もいない。右近め、あいつは気配を消すのがうまいからな」
 そう言いながら、再び襖を閉めると、戻ってきて小五郎の傍にあい対してすわった。小五郎はまだ不機嫌そうに顔をしかめている。
「まあ、そんな渋面を作らないでよ。仕方がなかったのだ。私のほうからは練兵館に行けなかったのだから、なんとかあんたにこちらに来てもらう方法を考えた。絶対安全にね」
「……」
「伯父はたしかに斎藤弥九郎を恨んでいるよ。なぜだか聴いている?」
 そのことについては、実は小五郎もちらっと噂を耳にしていた。弥九郎と相馬がかつては同門で競い合っていたこと、道場の後継者争いで兄弟子の相馬が弟分の弥九郎に敗れたこと、そのあとなんらかの理由により相馬が破門されたことは、江戸で生活している古い剣術家の間では公然の秘密になっているようだった。
「ええ、でも、詳しい経緯は知りません。大先生は話してくださらないので」
「どんな理由があるにせよ、あんたには関係ないよね。だから私は桂どのの身が安全であるように、策を考えた」
「策?」
「ああ。つまり、三日間絶食したのだ」
「……」
「ここに練兵館の塾頭を連れてきてくれ。だが、万一彼に危害をおよぼしたら、私はこの家を出て行くと――」
 伊織の眼には、揺るがぬ決断の凛とした光がきらめいていた。
「つまり、私を襲ったのは相馬の者だと、はっきり告げているようなものだな」
「隠してもあんたにはわかっているのだろう? しかし、私は敵ではないよ。信じてほしい」
「……」
「私は練兵館に自由に出入りしたい。他道場との試合にも出てみたい。でも、伯父はそれを許してくれないのだ。そんなのひどいだろう?」
 伊織は小五郎の同情を買うように訴えるが、彼はただ黙っている。
「ねえ、もう一度練兵館を訪ねてもいい?」
「それは……」 小五郎は戸惑いながら、
「私の口からは答えようがない。あなたの伯父上に聞くべきでしょう」
「伯父は関係ないよ。私はただ友達がほしいだけだ」
「友達?」
「ああ、いないのだ、同じ年頃の友達が。だから桂どのが友達になってくれたら私はうれしい」
「……」
「私のことは嫌い?」
「――べつに嫌いでは」
「じゃあ、友達になってくれてもいいだろう?」
「しかし――」
 伊織は困惑している相手の右腕をいきなりつかんで、すこし自分のほうに引き寄せた。
「あっ、なにを?」 体が前方に傾くのに、小五郎は愕いて身を引こうとした。
「背中の創、まだ痛い?」 伊織は相手の腕をしっかりつかんで放さない。
「い、いや。痛くない。でも触らないでくれ」
 相手がいまにも着物の上から触りそうな気配を感じて、小五郎は慌てて言った。
「そうか、やはり触られるとまだ痛いんだ」
「……」
「でも、その創が気になって、私は思い切って練兵館に行ったのだ。そう考えると、こんなこと言うの悪いけど、その創は私にとっては千金に値する。他の道場と桂どのを知るきっかけになったのだから」
「……」
「友達になってくれるよね」
「でも、それは無理だろう」 小五郎はためらいがちに言う。
「どうして?」
「……」
「相馬道場の門人としてではなく、ただの水原伊織として頼んでいる。それ以外、まったく他意はないのだ、信じてくれ。本当に友達がほしいから――」
「わかったよ。とにかく少し離れてくれないか。あなたにはもう少し女の慎みがあったほうがいい」
 小五郎の言葉に相手は敏感に反応して、急にこわい顔付きになった。
「あっ、ごめん。言わない約束だったね。もう、言わないから」
 相手の攻撃の機先を制して、彼はすぐに謝った。
「では、もう一度練兵館へ行ったら、私を受け入れてくれるね。また稽古の相手をしてくれるんだね?」
 一瞬、強ばった表情をもとにもどして彼女が聞く。
「ああ、厄介なことにさえならなければ」
「つまり友達同士の付き合いをしてもいい、ということだね」
「相馬どのが許されるなら」
「だめならこの家を出て行くまでだ」
「またそのようなことを」
「ねえ、友達ならあんたのこと、小五郎って呼んでもいい?」
「あ? ああ、そうだな」
「ありがとう。じゃ、私のことも『伊織どの』じゃなくて、『伊織』でいいよ」
 なんだか嬉しそうな相手の様子に、小五郎も気持ちを少しずつほぐしていく。よほど淋しい思いをしているのか、なんとなく伊織が不憫に思えてきたのだ。
 そのとき突然、彼女が体を硬直させて、聞き耳をたてた。すばやく立ち上がると、廊下がわの襖にむかって突進し、さっと襖をひらいた。
「右近!」 そこに根本右近が立っているのを見て、
「おまえは立ち聞きしていたのか !?」
「いえ、今来たところです」 右近は冷静に答えた。
「なんの用だ?」 怒ったように伊織がたずねる。
「桂どのに――師匠が桂どのに道場へおいでいただけないかと。一手、お手合わせ願えればありがたいと」
 伊織の顔色が見るまに蒼白に変わってゆく。
「冗談じゃない。小五、いや桂どのは私の客人だ。伯父には関係ないだろう」
「しかし、せっかくの機会なので、竹刀にて一本だけ立合いいただければ」
「だめだ! 桂どのは私の用事で来たのだ。それは師匠も承知しているはずではないか。それを――」
「わかりました。道場へまいりましょう」
 すでに小五郎は立ち上がって、伊織の背後まで来ていた。
「小五郎!」 伊織が振りかえって、不安げな眼で彼を見た。
「私はかまわない。道場での立合いならば」
 小五郎は彼女にすこし微笑んでみせた。
「かたじけない。では、私が道場までご案内いたします」
 軽く礼をして、右近が廊下を歩き出した。小五郎は黙ってそのあとにつづき、小五郎のあとを、まだ呆然とした表情で伊織が追った。

(8)

 小五郎が右近に連れ出された後、練兵館ではちび丸と勇太が不安げな顔つきで話し合っていた。
「どうしよう」
 腕を組んで考え込んでいたちび丸が、さきに黙っていられなくなった。
「桂さん、ひとりで行かすんじゃなかった。敵地に乗り込むようなものだからな」
「ああ。やはり、まずいな。先生たちが帰ってきたらおどろくぜ」
 勇太もちび丸と気持ちは同じだ。やはり不安でしょうがないのだ。
「困ったなー。やはり、止めればよかったよ」
「そうだな。無理やりにでも止めるべきだったな」
「うーん」 ちび丸がうなると、
「うーん」
 と勇太もいっしょになってうなる。それから二人はまた黙り込んだ。
「おい、勇太。桂さんを迎えに行こうか?」
 再びちび丸が口をひらき、思い切ったように相棒にたずねる。
「そりゃあ、そうしたいけど、当番どうするんだよ」
「もうそろそろ誰か戻ってくるかもしれないから、代わってもらおうよ」
「と言っても、先輩じゃまずいだろ。うるさく理由を聞かれるぜ」
「だから、宮田とか、下村とかにさ」
「あいつら湯屋に行ってる。長風呂だからな。帰りはきっと寄り道するぜ」
「うーん、待つしかないかぁ。先生方が留守だとすぐ遊び歩く奴らだからな」
「おい、おい、人のこと言えるかよ」

 結局、宮田らが帰ってきたときには八つ半(3時過ぎ)をまわっていた。日ごろの遊び仲間だったので、ふたりは強引に当番を代わってもらった。
「とにかく急ぐから、理由はあとで話す」
 と言って、あっけに取られている友をおいて、かまわず道場を飛び出した。
「おい、待てよ。相馬道場の場所わかっているのか?」
 勇太が足の速いちび丸を追いかけながら聞く。
「ああ、わかっているよ。前に地図で調べておいたんだ。ちゃんと頭の中に入っているから」 当然のようにちび丸は答えた。
「へーえ、おまえ、気がきくなあ。かなわねえよ」
 感心したように勇太が言う。
「急げば半時もかからないと思う。とにかく急ごう」
 ちび丸が足を速めると、勇太も遅れないように、あわてて彼のあとを追った。

 いくつかのお寺や大名の下屋敷をとおり過ぎてゆくと、やがて前方がひらけて畑地が広がっているのが見えた。
「おい、ちび丸。むこうは畑ばかりじゃないか。道場なんてないぞ」
 心配になってきた勇太が聞く。
「いや、そこに路があるよ。そこを曲がるんだ、たぶん」
「たぶんて、なんだよ。おまえの記憶もあやしいもんだな」
「まあいいから、そこの路を右に曲がってみよう」
 路地を曲がってしばらくすると、かなりしっかりした門構えの屋敷が見えてきた。
「あっ、あそこだ。きっと、あそこだよ」
 ふたりが走って門の前までくると、やはりそこが相馬道場だった。
「へーえ、思ったより小奇麗で、立派じゃないか」
 ちび丸が開いた門内を覗き込んで言う。
「どうする。ここで桂さんが出てくるのを待つのか。それとも中に入ってみる?」
 ここまで来てみたものの、勇太が迷って相棒に聞く。
「そうだな。あの根本とかいう男、七つ半までには桂さんを帰すって言っていたから、そろそろ出てきてもいい頃だね。すこしここで待ってみるか」
「でも、本当にだいじょうぶかな」 勇太はまだ不安げな様子だ。
「しばらく待って、桂さんが出てこなかったら、中に入って聞いてみよう」
「うん、そうだね。そうしようか」
 だが、勇太が言い終わるか、終らないうちに、五〜六人の門人らしい男たちが、さきほど二人が曲がった角から姿を現した。
「おい、ちび丸。だれか来たぞ」
 まだ門内を覗き込んでいる相棒の袖を引いて、勇太が注意をうながした。ちび丸が振り返ってみると、なるほど帯刀した男たちが道場に向かってくるところだった。男たちはすぐにちび丸と勇太に気がついた。
「おや。おまえたち、弟子入り希望か?」
 近づいてきた相馬の門人のひとりが聞いてきた。
「いえ、違います」 勇太があわてて答えた。
「違う? じゃあ、なんでここにいる」 同じ男が不審気に問うと、
「門内を覗き込んで、なにをしているのだ?」
 別の男が咎めるように聞く。
「おれたち、桂さんを迎えにきたんです」 ちび丸がはっきり答えた。
「桂さん?」
 男たちが顔を見合わせていると、そのうちのひとりがちび丸と勇太を交互に見て、
「ははあ、こいつら斎藤道場の門人だな」 と言い、
「その顔、見覚えがある」
 あごの張った男が口元をゆがめてニヤッと笑った。
「あっ、おまえは!」 ちび丸がすぐに気づいて声をあげた。
「やあ、久しぶりだな。蕎麦屋ではずいぶん世話になった」
「おっ、思い出した。あのときのがきだ」 別の男が言う。
「桂を迎えに来たって? 練兵館の塾頭の桂小五郎のことか。奴がここに道場破りにきたのかね」
「ちがう。根本とかいう男がうちの道場に来て、桂さんを連れて行ったんだよ」
 ちび丸が怒ったように答えた。
「なんだか知らねーが、飛んで火にいるなんとやらだな。おまえらも稽古を請いに来たのなら、ここで相手をしてやろうか」
 あご男が挑発的に言う。
「あんたらに関わっている暇はない」 ちび丸がきっぱり言うと、
「そうだよ。桂さんを迎えに来ただけだ。あんたらには関係ない」
 勇太も負けじと言い添える。
「そうかね。桂さんは今ごろ道場で気絶しているかもしれないよ」
「気絶しているのはあんたらの先生だろう」
 ちび丸の負けん気の言葉を聞いて、
「こいつ、生意気なやろうだな。いやに元気がいいじゃねーか」
 男の左手が刀の鞘に触れた。
「おいっ。可愛がってやろうか」
 他の門人たちに目配せすると、男たちがいっせいに動いてちび丸と勇太を取り囲んだ。


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