木戸孝允に捧げる詩



モノローグ − 木戸孝允の悲鳴

雑記帳で雅子妃のことを書いていたら
維新政府における木戸孝允の立場が
どこか似ていることに気づいた。
おかしな比較かもしれないが、彼は自分の意に添わぬ
岩倉・大久保ラインの政治から身を引こうと
いくたび試みたことだろう。

しかし、それはけっして許されない立場に彼はあった。新政府を守るために、時には大久保利通と協力し、岩倉・大久保ラインの政治を黙認しなければならなかった。
辞職しては引き戻され、逃れてはまた引き戻され、
ついに一度ならず、二度までも外国行きを計画した。
彼らのいない外国へ行って、
自分らしい自分を取り戻したかったのだろう。
彼らが許すはずのない計画に望みをたくし、
失望をくり返す。

ある夜、木戸の後輩青木周蔵が岩倉右大臣に頼まれて
木戸の辞職を思い留まらせようとした。
木戸はひと言も発せず、突然、部屋にあった桐の火鉢を持ち上げて放り投げた。熱灰は部屋中に飛び散り、炭火は散乱して畳を焦がした。異様な物音に驚いた夫人と、当時、木戸邸に寄食していた桂太郎が階段を駆け上がってきた。
「君らの知ったことではない。下がっていなさい」
木戸は一喝して、二人を部屋から追い出した。
「この火鉢は私に向って投げられたのですか?」
青木の問いに、木戸は両眼に涙を浮かべて、
「なぜ君に投げることがあろう。ただ気が高ぶったのだ。君が謝る必要はない」
そう言って、青木を抱擁して泣いた。

青木を抱擁して泣いた――

思えば、この場面だったのかもしれない。
この人と離れられなくなるかもしれない、と私が予感したのは。それまで、どの歴史上の人物にも抱かなかった痛切な愛憐を感じたのは。

私には聞こえる。木戸孝允の悲鳴が。
新政府での責務を果せという、太政官が与えるプレッシャー。極度なストレスの中で、彼はしだいに健康を損ねてゆく。

雅子妃には「妻を全力で守る」という夫、皇太子がいる。しかし、木戸には誰がいただろうか。かつての部下さえもけっして彼の味方ではなかった。彼らにとっては自分たちの権力を守ることのほうが大事だったのだ。

こうして木戸は太政官の孤独な囚人となり、病状はどんどん悪化し、最後に「白雲を望む」と言って死んだ。ついに自由な天地に解放されることなく、心身ともぼろぼろになって――木戸孝允は死んだ。

あの日、あの時、図書館であの本を手に取らなかったら、私は木戸孝允はおろか、幕末・維新の歴史にもたいして興味を抱くことなく、一生を終えていたかもしれない。

あの日、あの時、私を呼んだのは
木戸孝允の悲鳴だったのか――



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