司馬遼太郎の小説にみる木戸孝允


世に棲む日日(吉田松陰と高杉晋作)


歳 月(江藤新平と大久保利通)


● 逃げの小五郎

桂小五郎を主人公として書かれた唯一の短編小説。
「幕末」という暗殺をテーマにした十二編の収録作品中の一編。小五郎は暗殺されなかったのに、なぜかここに収められている。
「禁門の変」後に彼は新撰組や幕吏の手を逃れて数日間京都に潜伏していたが、広戸甚助の助けで脱出に成功し但馬出石に逃れた。ここで、広江孝助という偽名で広戸一家に匿われる。
小五郎が一時滞在していた昌念寺という寺からこの小説は始まる。出石藩の槍術師範役堀田半左衛門はこの寺で小五郎と遭遇する。ここでは言葉を交わさないが、この堀田とのやりとりがなかなかにおもしろい。
その後、堀田は甚助が営む商店で働いている小五郎を再び見る。三度目に二人が遭遇するのは湯治場、湯島村である。松本屋という宿で二人は初めて言葉を交わし、碁を打つ。無愛想な男で名も名乗らない小五郎を、堀田は長州人ではないかと疑う。小説の一節を引用する。


―― その後、数日、男を相手に碁ばかり打った。観察するに、いよいよ長州人である。容貌がいわゆる長州顔で秀麗であった。碁は、激しいわりに抜け目が少しもない。


やがて堀田は同じ出石藩士から、桂小五郎という長州の大立者が京の変後に行方不明になっていることを聞く。堀田は広江孝助を桂小五郎と見抜いて、このあまりに用心深い男、「逃げすぎた男」を叱りとばして長州に帰るように促すのである。三本木の芸妓幾松も登場して有名なエピソードが語られ、よくまとまった佳作だが、最後の桂評は間違っている。

● 花神

周防の村医者であった村田蔵六こと大村益次郎の人物像を浮き彫りにした長編小説。 この小説を読んで司馬ファンになった、というよりも司馬遼太郎という人物が好きになった。桂小五郎への温かい愛情が最も強く感じられる作品。
感情家で社交家でもある小五郎と無愛想で徹底した実務主義者の大村益次郎――性格がまったく異なる二人の間に芽生え、育っていく友情と信頼のあり方。その描き方が絶妙で、歴史小説を読んで初めて泣いてしまった。
「禁門の変」後に京から逃れて但馬の出石に潜伏していた小五郎の手紙を、使いの甚助から蔵六が密かに受け取る場面がある。小五郎の居所は誰も知らないのだ。こういう場面をあれほど独特の表現で、情熱的かつ極めて印象的に描ける作家は司馬遼太郎しかいないかもしれない、と思うほど、感動した。
第二次幕長戦争で軍務大臣となり、戊辰戦争で最高司令官となって、その軍事的天才を如何なく発揮した大村益次郎は明治二年に京都で刺客に襲われ、後日、手当の甲斐もなく落命する。維新政府の西洋化政策を嫌う攘夷派浪士らの仕業だった。彼の京都出張前には、あれこれと用心の策を伝えて、世話焼き女房のように心配する小五郎(木戸孝允)は実に微笑ましく、可憐である。
またいつか、読み返したいと思う秀作。

● 翔ぶが如く

明治維新の新政府を中心に、明治6年の「征韓論」政争から同10年の「西南戦争」までを扱った一大歴史巨編。
本作について書くにあたって、一度全編を読み直そうと思っていた。しかし、なにぶんにも大長編であり、毎週ほかのページの更新に追われて時間が取れそうにない。したがって、記憶に頼って書かざるを得ないので、誤謬があればお許しいただきたい。今回はちょっと辛口である。


まず、木戸孝允がいかに描かれているか――この作品にはあまりに多くの人物が登場するので、作者はどの人物にも一定の距離をおいて書いているようである。「花神」では桂小五郎という人物を手のひらに包み込むようなやさしさで描いている印象を受けたが、本作の木戸孝允に対しては、やや突き放した見方をしている。明治維新以降の木戸孝允が神経質な欝病患者のように描かれるのは、病気や大久保との確執などもあって、ある程度はしかたがないのかなとも思う。
ただ描く人物が多すぎるためか、今一歩、人間関係の洞察に欠けるようなところがある。たとえば、木戸と伊藤博文、大久保利通との関係である。伊藤が木戸をはなれて大久保についたことを、木戸自身に問題があるように書かれており、木戸を嫉妬深いということで片付けてしまっている。つまり、伊藤自身の心理にまったく目が向けられていないのだ。 この小説の第一巻に、木戸の死後、嗣子の孝正が伊藤家を来訪したときの話が載っている。そのとき伊藤はこう言ったそうである。
「人間は心が狭くてはだめである。憚らずに申せば、木戸公は心の広いほうではなく、むしろ狭いほうで、人を容れることができなかったために、大した仕事も成しとげられなかった。自分は先代木戸公には容易ならぬ知遇を受けたが、しかしその間、先代の狭量には困ったことも多かった。そこへゆくと、大久保利通という人はまことに度量が広かった」
そして伊藤はその例をあげて、大久保は伊藤の前でも西郷の話題が出ると「老西郷」と敬称でよび、さらに木戸に対しては「木戸先生」と丁寧に尊称をつけた。伊藤の観察では別に作為がなく、しんからそう呼んでいる風だったという。
作者はこの話を肯定的にとらえているようなのだが、私はこのくだりを読んで耳が熱くなった。人ごとながら羞恥を覚えたのである。長年にわたる木戸の引き立てによってひとかどの政治家になり、初代総理大臣になれたともいえる、その恩人の後嗣たる孝正(木戸家の養子で、孝允の実妹治子の長男)に対して伊藤がわざわざそんな失礼な話をしたのはなぜだろう。失礼を承知のうえで伊藤は話していると思われる。なんだか言い訳、弁解じみてはいないか。なにか心にやましいことがあって、自己を正当化するために言わずにはいられなかった、という感じを受ける。作者はこうした伊藤の言葉をまともに受け取って、米欧巡視中に大久保に接近した伊藤に対して木戸が腹を立てたのも、嫉妬ゆえ、つまり心の狭さゆえ、ということにしているようだ。
木戸が伊藤を叱責したことには、はっきりした理由があるのだが、司馬氏はその理由については知らなかったようである。もし知っていれば、この木戸と伊藤の喧嘩についての書き方も多少は変わっていたかもしれない(理由は「醒めた炎」に書いてある。ひと言でいえば、木戸は伊藤の軽薄を戒めたのである)。
それに、西郷や木戸を敬称で呼んだから、大久保は度量が広かったというのも、苦しい「こじつけ」に思える。江藤新平への扱いなどをみると、度量が広かったのはむしろ木戸のほうだろう。「大久保伝」などでも木戸と大久保を比較して、大久保は人の意見を全面的に容れたから度量が広いように書かれているが、彼は自分が気に入らない意見は絶対に容れる男ではない。そのことをよくわかっていたから、なるべく大久保の意に沿うように意見書を修正して提出する者もいただろう。とにかく彼は独裁者なのだから、いかなる判断も下せるわけである。
ところで、作者は一番単純な事実を忘れている。つまり「人は強きにつく」ということである。木戸は維新以前の長州藩でも、自分から進んで要職に就く男ではなかった。周囲から推されないかぎり、権力の座に自らすわることはなかったのだ。それは木戸の弱点ともいえた。加えて、維新以降は身体の不調に悩まされ、多病であった。一方、大久保は権力の権化みたいな男である。どちらが主導権を握るかは最初からはっきりしている。
「木戸の狭量には困ったことが多かった」と伊藤が言っているのは、おそらく辞表を何度も提出して、参議に復帰させようと説得しても容易に承知しなかったことが、伊藤の頭にはあったと思われる。木戸を政府に引き戻すのに伊藤は非常に苦労しているのである。作者が捉えたような一般的な意味ではなかっただろう。「人を容れることができなかったために」という「人を」は「大久保を」に置き換えるといいのではないか。「しかし、自分(伊藤)は大久保を受け容れることができた」と付け加えたらもっと意味がはっきりしてくる。
司馬氏が木戸をいささか難のある人物として書いても腹が立たないのは、その一方で政治家としての清廉さ、崇高さをも描いているからで、基本的に木戸孝允への好意を作者が持っているのを感じるからである。


「翔ぶが如く」はあまりに長編なので、また、新たなテーマで書きたいと思う。

● 世に棲む日日


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