司馬遼太郎の小説にみる木戸孝允 2


● 世に棲む日日

吉田松陰とはどんな性格の人だったのだろう。
ふと知りたくなって手にしたのがこの小説だった。性格ばかりでなく松陰の人生についてもたいして知識を持っていなかった。その上、高杉晋作のほうにより関心が向いていたこともあって、最初は少々退屈してしまった。そこで、松陰が藩外留学の許可を得て九州を遊歴しているあたりで、いったん読むのを中断した。こらえ性がないというか、事変を期待している自分に気づいて、松陰死後に完全な主人公として登場する高杉晋作の話を先に読むことにした。これは期待に違わずおもしろかった。夢中になっていっきに最後まで読んでしまった。


さて、桂小五郎のことだが、残念ながらこの小説に小五郎はあまり、いやほとんど出てこない。松陰と来原良蔵との関係についてはかなり詳しく書かれているが、ペリー艦隊来航時前後を含み、松陰が刑死するまでの松陰と小五郎との交流はまったく省略されているし、高杉晋作が主人公となった後半でも同様で、晋作と小五郎との関わりは最低限度の言及にとどまっている。残念なことだと思うが、創作上の問題があったのだろう。


ただ一度だけ、小五郎についてまとめて書いている。「長州人」という章で、松陰の小五郎に関する人物評もここで紹介されている。
「桂というのは、どうも自分とは違うようだ」と松陰は思いつづけていたのではないかと、著者は書いている。松陰は、「思想を純度高くつきつめてゆけば、その行動は狂人にならざるをえない」と思っている。しかし桂は現実家で狂人にはならない。桂は維新直後、共和制を言い出した時期があった。フランスをモデルに考えていたらしいが、ほどなくそれはひっこめた。尊皇の強固な思想を持つ松陰からみれば、目をむいておどろくであろう。桂小五郎の革命の目標は天皇制の確立ではなく、外国からあなどられないためならどんな体制でもよかった。政治家と思想家の違いが、桂と松陰のあいだに天地のひらきになって横たわっている、と著者は述べている(一部省略)。
また、桂は藩校明倫館で吉田寅次郎の兵学講義を受けた学生であったにすぎず、私塾における松陰の思想的な弟子ではなかった、とし、「しかし木戸さんは篤実な人で、松陰先生に対し、門人の礼をとっていました。しかし実際には世話になったのは松陰先生のほうでしたろう」という品川弥二郎の言葉を引用し、のち松陰は江戸に出てゆくと、桂を斎藤道場にたずねて、いろいろと頼みごとをしている、と語っている。
それ以外に、興味深い記述をここに抜粋してみよう。


「(前略)古い同志はみな非業にたおれ、いまの政府にときめいている大官などはみな時流に乗った者ばかりだ。かれらには維新の理想などがわからず、利権だけがある、という思いで、いかにも憂鬱症患者らしく『死にたい』が出てくるのである。」


「木戸には癸丑(きちゅう)以来の革命家らしい理想主義的気分があり、『こういう政府をつくるために我々は癸丑以来粉骨したわけではない。死んだ同志が地下で泣いているに相違ない』と言い、それが憂鬱症の原因のひとつになっていた。」


その後には高杉や久坂玄瑞らが長井雅楽の暗殺を謀っていることをつきとめる小五郎の行動を記して、周布と相談のうえ高杉を上海行きの餌でつる話がおもしろく語られている(虚実入り混じっている)。


総じて、桂小五郎について、著者の好意的な目線が感じられる貴重な一章である。余談だが、「花神」では高杉晋作がほとんど登場しない。「世に棲む日日」では松陰と晋作、「花神」では大村益次郎と桂小五郎に中心人物をしぼって書いているようだ。司馬作品ではそうしたところが少々不満で、できれば「翔ぶが如く」のように、あの時代の主な人物全員の関係を取り上げて詳しく書いてくれれば、長州藩を中心とする非常におもしろい「小説としての幕末史」が誕生したのではないかと思う。もっともそれを実現すれば、「翔ぶが如く」を超えるような大長編小説になってしまうだろうが――。


なお、松陰を主人公とする小説の前半は、数ヶ月経ってから改めて読んだ。その時にはまったく退屈を感じずに読めたのは、自分の吉田松陰に対する関心度が格段に深まっていたからだろう。


   (注) 癸丑とはペリー艦隊が来航した嘉永六年(1853)のこと。



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